【映画】「モリコーネ 映画が恋した音楽家」感想・レビュー・解説

出てくる人物の中に、こんなことを言う者がいた。

【彼がいなかったら、21世紀の音楽はまったく違うものなっていたはずだ】

注目すべきは、「21世紀の映画音楽は」ではなく「21世紀の音楽は」と言っているところだ。エンニオ・モリコーネは、映画音楽の世界で並ぶ者を探すのが不可能なほどの功績を残したが、その仕事は、それ以外の音楽(劇中では「絶対音楽」と表現されていた)にも多大な影響を与えたというわけだ。

これだけ聞くと、「そんなわけないだろう」と感じるかもしれない。しかし、この映画を観ると、それも納得できる。音楽に詳しいわけではない私には完全には理解できなかったが、モリコーネはとにかく「あらゆる意味で先駆者」だったようで、今も彼の音楽が若いクリエイターを刺激している。ある若いクリエイターは、「20年前よりも今の方が影響力が大きい」とさえ言っていたほどだ。

私も、もう「若い」とは言えない年齢になってしまっているが、それでもやはり、数十年前に作られたであろう彼の音楽には新鮮な驚きを感じさせられた。

映画『モリコーネ 映画が恋した音楽家』の中には、モリコーネが作曲を担当した名作映画の実際の映像が音楽と共に流れる。『荒野の用心棒』の、それまでの西部劇の音楽の常識を覆した冒頭の曲など、今聴いても「新しさ」を感じるようなものだと思う。

映画の中で、モリコーネの凄まじさを最も実感させられた場面がある。『殺人捜査』という1970年公開の映画が取り上げられる場面でのことだ。細かな状況は忘れてしまったが、モリコーネはこの映画の作曲を依頼されながらも、監督たちは冒頭の場面に既存の音楽を当てようとしていた。映画『モリコーネ 映画が恋した音楽家』では、実際に公開されたモリコーネ作曲の音楽バージョンの他に、元々監督たちがつけていた音楽バージョンの映像も流れた。

その差は圧倒的だった。上手く言語化は出来ないが、元々監督がつけようとしていた音楽は、「単なる不穏さ」しか感じられないのに対し、モリコーネの作曲は、「跳ねるような陽気なリズムの中に、どことなく不穏な雰囲気が宿っている」みたいな印象になる。さらにモリコーネの作曲は、とにかくキャッチーなのだ。映画の場面に合っていることはもちろんだが、ただその音楽だけを切り出して提示してみせても十分にインパクトを与える曲だと思う。「映画の付属物」でありながら「曲自体でも成立している」という、かなり難易度の高いことをやっていると感じた。

その評価は凄まじい。映画の冒頭で、様々な人物が彼を称賛していた。いくつか抜き出してみよう。

【あらゆるルールにおける偉大なる例外】
【私にとっての羅針盤】
【音楽の未来を決めた】
【伝説の人】
【彼との仕事は勲章だ】

また、先の『殺人捜査』の話に続けてある人物がこんな風に語っていた。

【「映画音楽」というフォーマットを生み出した】
【「映画音楽」の発明者】

映画音楽の世界では有名だろう(私も名前を知っているぐらいだから、という判断だが)ハンス・ジマーも、「彼のことを知らない作曲家は存在しない」と語っていた。

とても面白いと感じたのが、ある監督のこんな発言だ。

【困ったことに、監督や編集者よりもずっと、その場面に相応しい音楽を直感的に理解してしまう。そして、音楽を聴くと、彼のものだと分かる】

つまり、彼は単に「作曲家として素晴らしかった」というだけではない、ということだ。彼の異能は、「その映画、あるいはその場面に必要な音楽を、映画制作に関わっている誰よりも的確に掴み、それを音楽という形で表現してしまう」ということなのだ。

確か『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』についての話題だったはずだが、誰もが口を揃えて、「あの映画は、モリコーネの音楽がなければ成立しない」と語っていた。モリコーネの音楽は、単なるサウンドトラックではなく、映画表現の一つの要素であり、何よりも「映画音楽にはそのような力がある」と証明し続けたことに彼の凄まじさがあるというわけだ。

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』の監督セルジオ・レオーネは、生涯モリコーネと不可分のタッグを組んだそうだ。最初にレオーネがモリコーネに映画音楽制作を依頼した時、モリコーネは「見覚えのある顔だ」と思ったそうだ。実は彼らは小学校時代の同級生だった。そして、そんな縁もあり、彼らは分かち難い存在として関わり続けることになった。レオーネの娘は、「父は彼の音楽に頼っていた」とはっきり口にしていた。

モリコーネは様々な映画監督と仕事をしたが、やはりレオーネとのエピソードが非常に興味深い。『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』では、撮影を始める何年も前から作曲を依頼していたそうだ。レオーネはモリコーネに、「リジェクトされた曲(これまで提案してボツだった曲)も聴かせてくれ」とよく言っていたそうで、別の映画用に作った曲がレオーネの映画で復活することもあった。レオーネが「映画の全編でパンフルートを使いたい」と相談した時も、モリコーネは「適切な場面で使う」と言い、そして見事、パンフルートが絶妙に印象的な場面を作り上げてみせた。

レオーネは撮影現場でもモリコーネの曲を流していたそうだ。つまり、役者のセリフは現場では録らないということだ。そんな撮影の仕方はなかなかクレイジーだそうだ。しかし、モリコーネの音楽を流すことで、「既にそこに映画が存在しているかのような雰囲気」が生み出され、映画制作に大きな影響を与えたという。現場での録音にこだわるロバート・デ・ニーロも、「モリコーネの音楽が演技の役に立った」と、レオーネのやり方を絶賛したそうだ。

ただ、そんなレオーネとも、映画音楽のしごとを始めた当初はなかなか上手くいかなかったそうだ。モリコーネは、「最初の何作かは、思い通りできなかった。彼の悪癖に悩まされたからだ」と語っている。しかしモリコーネは、レオーネの映画のために作曲した曲を収録したレコードで2度もベストセールスを記録している。イタリアのレコード史において異例の存在とテレビで紹介されていたし、恐らく世界的に見てもそんな存在はなかなかいないだろう。

映画を観ながら僕は、インドの天才数学者ラマヌジャンのことを連想した。ラマヌジャンは、「夢で神様が数式を教えてくれる」と言って、理解不能な難解な数式を数多く残した人物だ。ラマヌジャンは、自身ではその数式の正しさを証明できなかったが、別の数学者によってそのほとんどが正しいと証明されている。

何故ラマヌジャンを連想したのか。それは、モリコーネが「五線譜とペンだけ」で作曲してしまうからだ。作曲する際、楽器を一切使わない。頭の中に音楽が存在し、それをするすると五線譜に書き写している。そんな作曲の仕方なのだ。このスタイルも恐らく、多くの作曲家にとって信じがたいものだろう。しかも、彼が書く楽譜は、整然として非常に見やすいのだそうだ。恐らくそれを、書き直すことなく一発書きで出来てしまうのではないかと思う。尋常ではないだろう。

しかしやはり、ラマヌジャンとは違うようだ。彼には、数式を教えてくれるような神様はいない。映画のラストで彼は、こんな風に語っていた。

【音楽を書く前に、熟考しなくてはいけない。それが問題だ。
作曲家の前には、白紙の紙がある。何も考えずに書き始めれば行き詰まる。まず思考があり、それを展開させなければ。
では何を追求する? 分からない】

生涯で500曲以上も映画音楽を作曲したそうだが、それらはどれも、聴く者を驚かせ、誰も考えなかったようなアイデアが詰め込まれ、しかしそんな分析的な聴き方を諦めたくなるほど魅力的で、聴けばすぐにモリコーネの音楽だと分かる。そんな音楽を、500曲以上も考え続けるのだ。凄まじいクリエイティビティだといえるだろう。

映画音楽の別の苦悩について語る場面もあった。

【映画音楽には、答えがいくつもある。これが作曲家の苦悩だ。】

彼は、「自分がクズ曲だ」と思ったものが採用されるなど、「自分の生み出した音楽の何がいいのか」を判断するのが難しかったと語っていた。だから途中から、まずは妻のマリアに聴かせ、マリアが良いと言ったものを監督に聴かせることにしたそうだ。しかしその後も、『ニュー・シネマ・パラダイス』のある場面用に9曲作曲し送った際、「6番目だけは選ばないでくれ。一番気に入っていないから」と書いたのに、その6番目が選ばれたりしている。創作の難しさを感じさせるエピソードだと思う。

彼はずっと、映画音楽から離れようと考えていた。映画の終わりの方で、こんな言い方をしていた。

【1961年、始めて映画音楽に関わった際、妻には「1970年には止める」と伝えていた。
1970年には、「1980年には止める」と、1980年には「1990年には止める」と、1990年には「2000年には止める」と言った。
もう言わない。】

1928年生まれのモリコーネが、最後に映画音楽に関わったのは、ウィキペディアによると、2016年の『ある天文学者の恋文』だそうだ。つまり、88歳まで映画音楽の作曲を続けていたというわけだ。映画『モリコーネ 映画が恋した音楽家』では、モリコーネがアカデミー賞の作曲賞を受賞した際の様子も映し出された。クエンティン・タランティーノ監督の『ヘイトフル・エイト』での受賞だ。これが2015年のこと。87歳での受賞ということになるだろうか。

実は6度目のノミネートでの受賞だった。『ミッション』でノミネートされた際、誰もがモリコーネの受賞を疑わなかったが、別の人物の受賞となり、会場ではブーイングが起こったそうだ。『アンタッチャブル』でノミネートされた際の受賞者は坂本龍一だった。2006年、それまでの功績に対して「名誉賞」が与えられたわけだが、その後2015年に改めて「アカデミー賞作曲賞」を受賞した、というわけだ。年齢を重ねてなお、新しいものを生み出すことが出来るそのすさまじい創造性には、驚かされてしまった。

ちなみに、モリコーネのある映画音楽を聴いたスタンリー・キューブリックが、『時計じかけのオレンジ』のために曲を作ってほしいと依頼してきたという。キューブリックは、レオーネにも連絡をした。すると、「モリコーネは今、私の作品の作曲中だからダメだ」と断られたという。それでキューブリックは作曲依頼を諦めたそうだ。

実際には既に作曲は終わっており、ミキシングの最中だった。全然作曲できる状況だったのだ。モリコーネは、「逃して惜しいと感じたのはこの映画だけ」だと語っていた。

映画は冒頭からしばらくの間、モリコーネの幼少期からの生い立ちが描かれる。全体的に良い映画だったと思うが、この構成だけはちょっといただけないと感じた。幼少期の話は必要だが、やはりまずは、モリコーネの生涯において面白いエピソードをいくつか畳み掛けて観客を惹き込むべきではないだろうか? 正直、冒頭からしばらくは、ちょっと退屈に感じられてしまった。

元々医者になりたかったそうだが、父親から「トランペットをやれ」と、音楽院に入学させられたのだという。父親がトランペット奏者だったのだ。初めは楽譜も読めず、成績も平凡だったが、副科として専攻していた和声のクラスで、ルールに囚われない作曲をしていたことから、教師に「作曲を学べ」とアドバイスを受けたそうだ。これが、モリコーネの作曲家人生を決定づけたと言っていいだろう。

当時イタリアには、ペトラッシという著名な作曲家がおり、モリコーネは彼を師と定めた。ペトラッシでさえ、モリコーネを過小評価していたほど、彼の才能は学生の頃には目立たないものだったが、彼はやがてRCA(何か音楽に関わる会社なのだと思う)で編曲家として頭角を現す。映画では、「倒産寸前だったRCAを救った」みたいな説明があった。

「編曲」にも色んな要素があると思うのだが、映画の中で特徴的に紹介されていたのが、いわゆる「イントロ」だ。とにかく、モリコーネの生み出すイントロは、めちゃくちゃキャッチーで魅力的だと思う。それこそ、今でも通用するものばかりだろう。彼は「映画音楽を発明する」以前に、「編曲を発明する」ことに関わっていたのだ。この編曲者時代に、「別の音楽を引用する」という手法も生み出したそうで、様々なチャレンジをしたと本人が語っていた。しかし、どうやら当時は「編曲者」の名前が表に出る機会は少なかったようで(現代なら編曲者の名前は必ず併記されるが)、モリコーネの才能はあまり世に知られていなかった。その後、小学校の同級生だったレオーネから映画音楽の依頼があり、時代に名を残す作曲家になった、というわけである。

モリコーネは、「映画音楽を作ることを、当初は『屈辱』だと感じていた」と語っている。しかし彼自身が、その類まれな才能をフルに発揮して、「映画音楽」というジャンルをとんでもない高みへと押し上げた。今では、「映画音楽も本格的な音楽だと考え直すようになった」そうだ。

モリコーネのその気持ちの変遷は、他の作曲家たちの気持ちの変遷でもあると言っていいかもしれない。前世代の作曲家たちの多くは、長い間モリコーネの才能を認めようとしなかったそうだ。やはり、「偉大なのはクラシックであり、映画音楽など邪道」というような旧弊な考え方が支配的だったのだろう。しかし、モリコーネの溢れんばかりの創造的な仕事を目の当たりにし、ついに彼らも頭を垂れるに至ったそうだ。

異次元の才能と、類まれな勤勉さを持った見事な個性によって、かつてその地位が低かったなどとは想像もできない高みにまで「映画音楽」の存在を押し上げた。その凄まじい功績を、是非体感してほしい。いやホント、モリコーネの音楽は凄いと思う。

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