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【本】パオロ・ジョルダーノ「コロナの時代の僕ら」感想・レビュー・解説

2020年3月8日、僕はコロナ騒動に関する文章をネットで書いた。誰かに頼まれたわけではなく、自分の考えを整理するための備忘録だ。

今、それを読み返してみると、間違ったことを書いているとは思わないが、じゃあ同じ内容の文章を今書くか、と聞かれたら、まあ書かないだろう。

「今」とはいつか。僕はこの文章を、2020年4月10日に書いている。たった一ヶ月で、世界はまったく変わってしまった。

本書の発売は2020年4月24日の予定だ。この文章は、その発売日以降にネットに上げる。今日から二週間で、また世界は大きく変わるだろう。しかし僕は、今日4月10日の僕の考えを書く。

僕は、コロナをナメていた。そして、今もナメていると言えば舐めている。「ナメている」という露悪的な表現をどうしても使ってしまうが、より正解に言えば、「どう怖がればいいのかよく分からない」というのが正しい。

東日本大震災の時、僕は東京にいた。あの時、様々な情報が駆け巡った。混沌とする中、「東京から逃げた方がいい」という情報もあった。関西の方に逃げろ、というのだ。放射能が、東京までやってくるから、と。

ンなアホな、と、当時の僕は思っていた。

【でも僕は忘れたくない。最初の数週間に、初期の一連の控えめな対策に対して、人々が口々に「頭は大丈夫か」と嘲り笑ったことを】

僕は当時、こんな風に思っていた(と思う。正確には覚えていない)。人々は、「放射能」以上に、「放射能への恐怖」に怯えている、と。「放射能が怖い」のではなく、「『放射能が怖いてみんな言ってること』が怖い」のだ。確かに放射能は安全なものではないが、福島第一原発から東京まで相当に距離があるし、東京にまで壊滅的な放射能が届くなら日本は壊滅だ。ンなことが起こるはずがない。だから、「関西に逃げろ」と言っている人は、「放射能への恐怖」に怯えすぎているのだ、と。

少し前に、『Fukushima50』という映画を観た。映画も凄かったが、その映画には原作がある。『死の淵を見た男』である。福島第一原発の所長だった吉田昌郎を中心に、あの原発事故の際、何が起こっていたのかを克明に描き出すノンフィクションだ。

原作の方にも、確か書かれていたはずだが、正確には覚えていない。映画では、確実に描かれていた。それは、

「2号機の格納容器が破裂しなかった原因は、今も分かっていない」

ということだ。2号機の内圧は、設計限界の2倍を記録するほどの異常値だった。しかし2号機の圧力は、「なぜか」下がった。今もその理由は分かっていない。

もし2号機が爆発していたら、被害はチェルノブイリ原発事故の10倍以上と想定されていた。福島第一原発を中心に、半径250キロ圏内の人間は全員避難。もちろん、東京もほぼすっぽりと覆われる範囲だ。東日本に、人間は住めなくなる。

なるほど。あの時関西に逃げた人間が大正解だった、ということだ。東京にいた僕が、今もなんの影響もなくピンピン生きているのは、「運が良かった」だけに過ぎない。

あの当時の僕の思考のどの片隅をつついてみても、「関西に逃げる」という選択肢は滲み出ることもなかっただろう。「仕事があるから無理」「関西に頼れる人がいないから不可能」という発想ではなく、そもそも「関西に避難すべきか検討する」という思考状態に達しなかった。関西に逃げることを検討している人を、正直、内心ではバカにしてさえいたと思う。怖がり過ぎだろう、と。

さて。僕はそんな自分のことをちゃんと記憶している。「危機的状況の渦中」にいながら、その「危機」に直面できず、楽観していたつもりはないが、結果的に自らの身を危険にさらしていた自分の思考・行動を覚えている。

そして、今回のコロナウイルスだ。そして、また僕は、「怖がり方が分からない」などと言っている。しかし、分からないものは分からないのだ。

危機に対して、「適切に」怖がらなければ、より状況を悪化させてしまう。

【もっと扱いやすい数字にするため、仮に昨日の感染者数が10人で、今日は20人だとしてみよう。するとひとは直感的に、明日、市民保護局が発表する感染者の合計は30人だろうと予測する。そして、次の日もその次の日も10人ずつ増えていくはずだと思う。何かが成長する時、増加量は毎日同じだろうと考える傾向が僕らにはある。(中略)
ところが実際の感染者数の増加率は、時につれてどんどん大きくなってゆく。(中略)自然は目まぐるしいほどの激しい成長(指数関数的変化)か、ずっと穏やかな成長(対数関数的変化)のどちらかを好むようにできている。自然は生まれつき非線形なのだ。
感染症の流行も例外ではない。とはいえ科学者であれば驚かないような現象が、それ以外の人々を軒並み恐がらせてしまうことはある。こうして感染者数の増加は「爆発的」とされ、本当は予測可能な現象に過ぎないのに、新聞記事のタイトルは「懸念すべき」「劇的な」状況だと謳うようになる。まさにこの手の「何が普通か」という基準の歪曲が恐怖を生むのだ。COVID-19の感染者数は今、イタリアでもほかのどこでも増え方が安定していないが、今の段階ではこれよりもずっと速く増加するのが普通で、そこには謎めいた要素などまったく存在しない。どこからどこまで当たり前のことなのだ】

知識があれば「当たり前」「当然」と捉えるべき現象が、知識がないが故に「爆発的」「劇的な」という風に見えてしまう。人間はそもそも、恐怖を過剰に捉えがちな生き物だ。『天才科学者はこう考える』という、様々な科学者が「人々の認知能力を向上させうる科学的な概念は何か?」という問いに対するエッセイを寄稿する本の中に、「クモに噛まれて死ぬ人は1億人にひとりもいない」という文章がある。

【たとえば、クモを見たとき、私たちはどういう気持ちになるだろうか。恐怖心を抱く人は多いのではないか。恐れの程度は人によって違うが、だいたいの人は怖いと思うに違いない。しかし、考えてみてほしい。クモに噛まれて人が死ぬ確率はどのくらいだろうか。クモに噛まれて死ぬ人は平均して年に4人未満である。つまり1億人にひとりもいないということだ。
これくらい少ないと、怖がる意味はまずなく、怖がることが逆に害になってしまう。ストレスが原因の病気で亡くなる人は、年に何百万人、何千万人といるだろう。クモに噛まれる可能性、噛まれて死ぬ可能性は非常に低いが、クモを恐れたことによって生じたストレスはあなたの死亡確率を確実に上げてしまう】(ギャレット・リージ)

同じ本の中には、また別の人物が、「テロで死ぬ確率」と「テロ対策のために導入されたX線検査装置を通ることでがんになる確率」はほぼ同じ、つまり、どっちもほとんど起こり得ない、と指摘している。しかしテロで死ぬかもしれないという恐怖は、アメリカを大きく変えた。

「何か危険なものが僕に害を成す確率」と、「その危険なものに恐怖することが僕に害を成す確率」を冷静に捉える必要がある。確かに、コロナウイルスは怖い。コロナウイルスが広まり始めた当初は、その恐ろしさをあまり理解していなかった。今も、直感的には理解できていない。何故なら日本は、アメリカやイタリアのようになっていないからだ。しかし、アメリカやイタリアの様子をニュースを通じて知ることで、間接的にコロナウイルスの怖さを理解できる。広まり始めた当初よりも、ずっと怖い存在だと理解している、つもりだ。

しかしだからといって、「もっと怖がれ!」と声高に叫ぶことが正しいのかは疑問だ。「コロナウイルス」そのものよりも、「コロナウイルスへの恐怖」の方が害を成す確率が高くなってしまうかもしれないからだ。人間は、恐怖を抑えきれない。「怖い」という感情は、どこまでも膨らみうる。だから、「適切に」怖がる必要がある。しかし僕は、どのレベルが「適切」なのか、未だに分からないでいる。

【今回の流行で僕たちは科学に失望した。確かな答えがほしかったのに、雑多な意見しか見つからなかったからだ。ただ僕らは忘れているが、実は科学とは昔からそういうものだ。いやむしろ、科学とはそれ以外のかたちではありえないものなのだ】

著者は、人口6000万人のイタリアで異例の200万部超えのセールスを記録した『素数たちの孤独』という小説の著者であり、また、物理学博士号も持つ人物だ。子供の頃から「数学」が不安を抑えるための薬であり、コロナウイルスの流行初期から、SIRモデルという、あらゆる感染症の透明骨格標本とも言える数学モデルについて考え始めたという。

僕も、元々理系の人間で、物理や数学が好きだ。だから、ごく一般的な人よりは、「科学」という営みがどういうものか理解しているつもりだ。そして残念ながら、「科学」というのは、一般人から誤解されている。

先述した『天才科学者はこう考える』の中に、こんな文章がある。

【科学は絶え間なく続く近似の連続であり、自分はそのなかの一部であると認識しているのである。彼らは皆、自分のしているのは現実の秘密の暴露ではなく、現実のモデルの構築だとわかっており、常に自分のしていることに確信の持てない状況を受け入れている。自分が今、立てている仮説は正しくないかもしれない、データと照らしたら誤っていると証明されるかもしれないと単に疑っているだけではない。絶えず真実に近づく努力をしながらも、絶対的な真実にたどりつくことは永遠にないと理解している】(キャサリン・シュルツ)

そう、科学者とは、「自分が絶対的な真実にたどりつくことは永遠にないと理解している人たち」のことなのだ。しかし、世間の人はそう見ない。科学者に問いを投げかければ、白黒はっきりさせてくれる、100%正しい答えを返してくれる、そんな風に思っている人は多いはずだ。

ただ誤解されているだけなら、「理解してもらえないか。しょうがない」とため息をつけばいい。しかし、実害が出ると、そうもいかなくなる。同じく『天才科学者はこう考える』からの引用だ。

【豚インフルエンザ、鳥インフルエンザ、遺伝子組換え作物、幹細胞…テーマが何であっても、一般の人たちのする議論は、科学者にとって心地よいものからはほど遠くなってしまう。科学の研究には失敗がつきものであるにもかかわらず、コミュニケーションの失敗のせいで、一般の人たちは科学者の失敗に極端に不寛容になる。たとえば、核移植の技術が「クローン」の技術だと理解されたせいで、研究が何年もの間停滞した】(オーブリー・デグレイ)

同じことは、今回のコロナウイルスの騒動でも起こっていないだろうか?

【僕は忘れたくない。頼りなくて、支離滅裂で、センセーショナルで、感情的で、いい加減な情報が、今回の流行の初期にやたらと伝播されていたことを。もしかするとこれこそ何より、誰の目にも明らかな失敗かもしれない。それはけっして取るに足らぬ話ではない。感染症流行時は、明確な情報ほど重要な予防手段などないのだから】

コロナウイルスは、未だに分からないことが多い。ワクチンも治療法も存在しない。世界中で様々な人がそれぞれの立場で猛烈に研究を進めているだろうが、それでも、有効な手立てが確立されるのはまだまだ先になるだろう。しかし、コロナウイルスについてはまだ分からないことだらけだが、感染症については長い研究の歴史がある。

【感染症学者であれば、この手の流行を止める唯一の方法とは感受性人口を減らすことだと知っている。感受性保持者の人口密度をぐっと下げて、伝染がありえないほどまばらにする必要があるのだ。】

「感受性人口」とは、「ウイルスがまだこれから感染させることのできる人々」のこと。地球上には、あと75億人近くの「感受性人口」がいる。

さて、「感受性人口」たる我々は、どう振る舞うべきだろうか?

【ひとりひとりの行動の積み重ねが全体に与えうる効果は、ばらばらな効果の単なる合計とは別物だということだ。アクションを起こす僕らが大勢ならば、各自の振る舞いは、理解の難しい抽象的な結果を地球規模で生む。感染症の流行において、助け合いの精神の欠如とは、何よりもまず想像力の欠陥なのだ】

「イタリアの知性」からの「悲鳴」。
本書は、そう受け取るべき一冊だろう。


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