【映画】「ミスタームーンライト~1966 ザ・ビートルズ武道館公演 みんなで見た夢~」感想・レビュー・解説

一番驚いたのは、映画の中に、小説家の高橋克彦が出てきたことだ。なんと彼は、「日本人で始めてザ・ビートルズに会った人物」なのだそうだ。どうしてそんなことになったのか、その顛末は是非映画を観てほしい。

面白かったのは、「イギリスで始めて痛飲したせいで、ザ・ビートルズのメンバーと写真を撮ったカメラをどこかに忘れてしまった」ということ。そのせいで高橋克彦は日本に帰って来てから、「嘘つき」だと言われまくったそうだ。そして、「それを証明したいみたいな気持ちがあって、こういう職業に就いたのかもしれませんね」みたいなことを言っていた。もし、高橋克彦がカメラを忘れなければ、小説家にはなっていなかったかもしれない。

というわけで、ザ・ビートルズのドキュメンタリー映画である。主軸となるのは、1966年6月30日から7日2日に掛けて行われば武道館公演である。この映画には、多数の著名人が登場するが、財津和夫、黒柳徹子、松本隆はその公演を観客席で観た人物として、加山雄三はホテルでザ・ビートルズと会った人物として、尾藤イサオは前座を務めた人物として出てくる。また、井口理、浦沢直樹、奥田民生、峯田和伸など、ザ・ビートルズとは直接的には関わりはない人物も多数登場し、様々な話を語っている。なかなか豪華な映画である。

しかし僕としてはやはり、ザ・ビートルズを日本に広め、さらに武道館公演を成功させた立役者たちの話がとても面白かった。

1962年にデビューしたザ・ビートルズは、すぐにイギリスのチャートを席捲したが、イギリス以外の国ではまだあまり知られていなかったそうだ。まあ、インターネットがある時代ではないから仕方ないのだろうが、それにしても、「アメリカでザ・ビートルズが知られるようになったきっかけ」には驚かされた。

1963年にケネディ大統領が暗殺されたことで、当時のアメリカは暗い気分に沈んでいた。そんな時、14歳の女の子が地元のラジオ局に、「こんな時にはザ・ビートルズじゃない?」と手紙を送ったそうだ。それを受けてラジオ局はその少女を呼び(恐らく音源がラジオ局になかったから、少女が持っていた何かを使ったのではないか)、さらにその少女に曲紹介までやってもらい「抱きしめたい」をラジオで流した。すると、そのラジオを聞いた人からさらなるリクエストが届くようになり、結局その年、ザ・ビートルズはNYで1位を獲得することになる。

さて、日本も同じようなものだった。1963年頃までは、洋楽と言えばアメリカの音楽だったので、ザ・ビートルズの音楽を聞いた者たちも「よく分からない」という反応を示したそうだ。その辺りの話については、映画冒頭から度々登場する、東芝音楽工業の高嶋弘之が大いに語っていた。

高嶋弘之は、ザ・ビートルズの存在を知り、自分の知っている人に片っ端から紹介し売り込みを掛けたが、まったく誰も載ってこなかったそうだ。それが1963年のこと。

それからも地道なプロモーションをしていたのだが、当時「東京放送」と呼んでいたラジオ局(かな?)の女性ディレクターが、「私はこれが好き」と言ってくれた。高嶋弘之は、「男は理屈で『聞いたことがないからダメだ』と判断するが、女性は感性で判断する」と感じ、ザ・ビートルズのプロモーションに際しては、若い女性をターゲットにすることに専念したそうだ。

面白かったのは、プロモーションのために散々「ヤラセ」をしたという話。その中に、「作詞家・松本隆が学生だった頃に、アルバイトで、嘘のリクエスト電話を掛けさせた」みたいな話がある。とにかく、「やれることは何でもやった」みたいな感じだったのだろう。そして逆に言えば、「それぐらいしなければならないほど、最初はザ・ビートルズに誰も関心を示さなかった」ということでもある。

日本でも次第に、ザ・ビートルズが知られるようになっていく。高嶋弘之が「最初に体よく断られた」と語る、雑誌「ミュージック・ライフ」の元編集長・星加ルミ子は、「なんだかよく分かんないけど、音楽専門誌なんだから、ザ・ビートルズも取り上げないといけないよねぇ」ぐらいの気持ちで特集を組んだら、書店から電話が殺到した、というエピソードを明かしていた。「売れまくって注文の電話が来たのか」と思ったら、そうではなかった。「表紙が破られている」という苦情の電話だったのだ。若いファンが、雑誌を買わずに、表紙だけ切り取って盗んでいったのである。

日本でザ・ビートルズが広く知られるようになったきっかけは、『ハード・デイズ・ナイト』という映画が公開されたことだ(なんか、『ビートルズがやって来るヤァ! ヤァ! ヤァ!』という、メチャクチャダサい邦題で公開されたそうだ)。その映画について、財津和夫がエピソードを語っていた。

友人からザ・ビートルズの映画が公開するからと誘われたが、一度は断ったという。しかし友人から、「女の子ばっかりだぞ」と言われて、じゃあ行くかとなった。そして、映画館でザ・ビートルズの音楽に始めて触れて、衝撃を受けたそうだ。どれほど衝撃だったのか。財津和夫は、「みんながキャーキャー言っているものからは遠ざかっておこうと思っていたのに、そんなこと関係ないと思えるぐらいに溺れてしまった」と語っていた。

とにかく、当時の日本人は、ザ・ビートルズの音楽に衝撃を受けたそうだ。その衝撃を追体験することは、現代の我々にはなかなか難しいだろう。しかし映画では、それを少しでも想像してもらおうと、ザ・ビートルズ以前の日本の音楽についても触れられていた。

そこで面白かったのが、永六輔と中村八大の話。彼らは、日劇の前でばったり会う、という形で邂逅したそうだ。そしてそれから、永六輔が作詞、中村八大が作曲をそれぞれ行い、作ったものを持ち寄って、「この詞はこの曲に合わせよう」みたいなことをやって次々と名曲を生み出していったという。

中でも最も知られているのが、坂本九の『上を向いて歩こう』だろう。全米チャートで1位を獲得した。そしてその半年後に、ザ・ビートルズが全米チャート1位を獲得したそうだ。

映画の中である人物が、「もし、永六輔と中村八大が偶然出会わなかったら、日本の音楽はどうなっていたんだろうか」みたいなことを言っていた。また、中村八大の息子は、教会で偶然出会ったジョン・レノンとポール・マッカートニーのエピソードになぞらえて、「出会うべき2人が、出会うべきタイミングで、出会うべくして出会ったのだと思いたい」みたいなことを言っていた。

ザ・ビートルズの音楽的な凄さについては僕にはよく分からないが(ザ・ビートルズの曲は好きだが、何が凄いのかは分からないという意味)、多くの人が口にしていたのは、「自作自演の凄さ」である。「自作自演」って、今ではどうも悪い意味に使われる傾向があると思うが、確かに字義通りに捉えれば、「自分で作詞作曲を行い、それを自ら演奏する」となるだろう。そして、そういうスタイルは、それまで存在しなかったようなのだ。

特に日本では、「作詞」「作曲」「歌手」は分業制であり、「大先生が作った曲を新人が歌う」というのが当たり前だった。しかしそれをザ・ビートルズは鮮やかにぶっ壊したのだ。映画の中で誰かが、「『自分で作っちゃえばいいんだよ』みたいなメッセージを感じた」みたいなことを言っていた。今では「シンガーソングライター」みたいに言われるだろうが、ザ・ビートルズがシンガーソングライターの先駆者なのだと考えると、確かにそれだけでも凄いと感じるものがある。

さてその後話は、「1966年のザ・ビートルズ公演をどのように実現させたのか」という話に移っていく。これもまた面白い。

僕はそもそも、『ビートルズを呼んだ男』(野地秩嘉/小学館)という本を読んだことがある。映画には、その著者である野地秩嘉も出ていた。

その本の主人公が、協同企画(現・キョードー東京)の永島達司である。業界では、伝説的な人物として知られているという。

さて、一般的に「ザ・ビートルズの日本公演」については、こんな「通説」が知られているそうだ。曰く、「公演の3ヶ月前に、永島達司の元にプロモーターから連絡が入り、話が進んでいった」と。しかしその「通説」は誤りだそうだ。

映画の中でそれを明らかにしていくのが、ザ・ビートルズを恐らく趣味で研究している人物。毎週土曜日、朝から晩まで国会図書館に籠もり、あらゆる新聞・雑誌を隅から隅まで読んでは、ザ・ビートルズ関連の記述を探しまくったというなかなかの”異常者”である。ちなみに、そんな生活を5年間も続けたそうだ。

彼の調査によって、東芝音楽工業の石坂範一郎という人物が、かなり早い段階から日本招致のアクションを起こしていたことが分かった。ほぼ決まりかけたそうだが、「ザ・ビートルズ側のスケジュールの都合」で頓挫したという。その具体的な理由についてはどこにも書かれていないのだが、ザ・ビートルズは1965年10月にイギリスで勲章を授与されている。当初石坂範一郎は、1965年10月招致で計画していたため、勲章の授与によってスケジュールに不都合が生じたのではないか、と推測していた。しかし面白いことに、この「勲章の授与」が、結果としては日本公演成功の鍵ともなる。

石坂範一郎と永島達司は懇意だったようで、そんな繋がりもあり、永島達司がザ・ビートルズ招致を引き受けることになったようだ。永島達司は海外では抜群の知名度を誇るそうで、「タツの英語は素晴らしい」と誰もが絶賛するほどだったそうだ。ザ・ビートルズの面々も、「俺たちのことを騙さなかったのはタツ、お前だけだ」と言ったというエピソードがある。とにかく、絶大な信頼があったからこそ招致に成功したのではないかと言っていた。

問題となったのは、「武道館の使用」である。当時、武道館でアーティストが公演を行った例は存在しなかった。「神聖な場所で歌うなんて」と反発が強かったようだ。しかもそこで歌うのが、「あんな音楽を聞いたら不良になる」と喧伝されるような人物なのだ。「けしからん!」と反対する者が多くいたという。

映画には、当時の武道館職員も登場するが、彼は「職員は皆、『場所があるんだから使ってもらえたらいい』と思っていた」と話していた。当時武道館は、使われる機会があまりなく、閑古鳥が鳴いていたそうだ。だから、ザ・ビートルズの公演が成功すれば、武道館を使いたいという人が増えるだろうし、そうなってくれたらいい、と思っていたと言っていた。

ザ・ビートルズ側の人物(マネージャーだったか?)は、日本公演に際する打ち合わせで、「武道館での公演は、セント・ポール大聖堂で歌うようなものだ」「神聖な場所での公演に反対するデモが起こるかもしれない」という話を聞いていたという。

その状況が改善されたのが、「勲章の授与」だったのだ。「イギリスから勲章を授与された人物を迎えるのだ」と名目が立つことになり、反対の声を抑えることができたと言っていた。

いよいよザ・ビートルズが来るとなってからのバタバタもなかなか面白い。個人的に面白いと思ったのは、日本航空の客室乗務員の話だ。ザ・ビートルズが日本航空の飛行機で来ると知った彼女は、「絶対に乗りたい!」と志願したそうだ。すると、「あるミッションがあるのだが、君に頼めるか?」と打診されたという。それが、「ザ・ビートルズにハッピを着せる」というものだったのだ。なるほど、そんな裏話があったのかと思った。

公演は11曲、たった35分で終わったそうだ。しかし、日本の音楽史における大転換となったようだ。ザ・ビートルズの日本公演を境に、すべてが変わったとある人物は語っていた。

とにかく、とんでもなく凄まじい存在だったということが理解できた。もちろん、凄いことは知っていたが、やはり「現代の音楽の環境」の中でザ・ビートルズを知るのと、「1966年の音楽の環境」の中でザ・ビートルズを知るのとではやはりまったく違うだろう。その時その場所でしか体感できなかったことに立ち会えた人物の話は、とても面白い。

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