【映画】「フェルメール The Greatest Exhibition‐アート・オン・スクリーン特別編‐」感想・レビュー・解説

とても意外だったのは、フェルメールに関しては書簡も日記も文献も何も残っていない、という話だった。確かに、他の有名な画家だと、「ゴッホが自分の耳を切った」「ピカソには愛人がたくさんいた」のような「絵そのものとは関係ないエピソード」も知られているが、たしかにフェルメールに関してはそういう話を聞いたことがないな、と思う。映画の中では、フェルメール自身についてのエピソードも多少出てくるが、「10歳か12歳くらいの頃に学校に通い始めたはず」「近所に住んでいた夫妻が支援してくれていたはず」と、その程度のことさえ確定的には言えないほど情報が少ないようだ。

映画の中で出てきた情報では、「妻の実家が裕福だった、1675年にフェルメールが亡くなるぐらいにはかなり貧窮しており、夫亡き後、妻は知らされていなかった借金の存在を知った」「妻やその母親が熱心なカトリック信者だったので、フェルメール自身はプロテスタントだったがカトリックに改宗した」「娘が8人、息子が3人いた」ぐらいかなと思う。あとは大体、「こうだったんじゃないか」とか、あるいは「どうやってこんなことが出来たのか分からない。魔法みたいなものだ」みたいに表現したりしていた。

そんなわけで本作は基本的に、「フェルメールの絵を探求していく」という内容になっている。

本作の基本的な情報について触れておこう。元になっているのは、2023年2月から6月にかけてアムステルダム国立美術館で行われたフェルメール展である。諸説あるらしいが、現存するフェルメールの作品は37点と言われており(その内3点は、贋作の疑いがあるそうだ)、この展覧会ではその内の28点が集められた。フェルメールの作品がこれほど一箇所に集まったことは、過去ないという。また、アムステルダム国立美術館200年の歴史においても前例がないほどの規模の展覧会だったそうだ。というか映画の中では確か、アムステルダム国立美術館がフェルメール展を行うのは初、みたいなことも言われていた気がする。オランダ出身の画家なのに、自国の超有名画家の展覧会を今までやってなかったなんてことがあるのかなと思ったが、もしそれが本当であれば、「いかにフェルメール作品を一箇所に集めるのが困難なのか」ということが想像出来るとも言えるかもしれない。

作中には、アムステルダム国立美術館の学芸員が登場し、集められた28点について様々なことを語っていく。また、カメラが絵そのものを間近で捉えており、普通なら外国の美術館に行かなければ観れない作品を、そのディティールまで鑑賞出来るというのも本作の特徴だろう。「アート・オン・スクリーン」と銘打たれているが、まさに「映画館で美術を鑑賞する」という体験になっていると思う。

フェルメールの現存作品は37点とされているが、生涯描いた作品は恐らく40~45作だろうと考えられているそうだ。とにかく、他の画家と比べれば圧倒的に作品数が少ない。フェルメールは44歳で亡くなったそうで、また作中では確か24歳ぐらいから絵を描き始めたようなので、活動期間は約20年間。その間に最大で45作だとして、年に2~3作ということになる。調べてみると、最も多作な画家としてギネスに認定されているのがピカソだそうで、その生涯でなんと14万7800点にも上るという。年平均だと1760点だそうだ。まあさすがにこれは桁違いだろうが、学芸員の方も「圧倒的な寡作」と言っていたので、他の有名な画家と比べてもやはりその数は少なかったのだろう。

作中ではフェルメールについて様々な称賛の言葉が重ねられていたが、世間一般的にもよく知られたことと言えば「光の魔術師」というような評価だろう。「『色は光で、光は色である』という唯一の画家がフェルメールだ」「『色の巨匠』ではなく『光の巨匠』だ」「巨匠というより『光に取り憑かれた画家』という方が正確だ」など、彼の「光を捉える才能」に圧倒される言葉がとても多かった。

フェルメールの最も有名な作品は恐らく『真珠の首飾りの少女』で異論は無いだろうが(「牛乳を注ぐ女」ももちろん有名だろうけど)、ある学芸員はその絵に描かれた真珠の煌めきについて、「絵筆で描いたとはとても思えない」と表現していた。フェルメールの作品はとにかく「筆跡」が見えないことが驚異だそうで、ある学芸員は、

【絵に近づけば見えるはず、と思ってもやはり見えない】

とその驚きを語っていた。本作でも、絵をかなり接写するような形になっているが、確かに筆跡は見えない。これによって鑑賞者は、「それが絵の具であることを忘れてしまう」のだそうだ。ちなみに、『真珠の首飾りの少女』には元々、少女の背景に深緑色の垂れ幕があったそうだが、最終的に彼は背景を真っ黒にしたのだそうだ。

彼が「光の魔術師」になった理由は色々あるのだろうが、1つには、当時のオランダで研究が進んでいたレンズが関わっているのではないかと指摘されていた。カメラの原型と言われる「カメラ・オブスキュラ」もフェルメールの時代にオランダで生まれたそうで、恐らくフェルメールも触っていたに違いないと語っていた。

その根拠となるのが、『レースを編む女』である。レース編みをしている女性を至近距離から描いた絵である。フェルメールの作品はどれも、「焦点」がかなり狭い範囲に限定されるように光と影のバランスが取られているそうだが、『レースを編む女』の場合、その「焦点」は手元にあるという。そして、手元よりも手前に配置されている糸の箱辺りは、意図的にぼかされているのだそうだ。

ある学芸員は、「カメラ・オブスキュラで情景を映し出すと、「焦点」の周辺がぼやけて見える。フェルメールはそれを理解して絵に取り込んだのではないか」と話していた。

また、妻が深く関わっていたイエズス会もまた、レンズ研究に熱心だったという。このようなことを踏まえることで、フェルメールが「光」に魅せられた理由が見えてくるかもしれない。

熱心なカトリック信者だった妻との結婚は、彼に直接的に影響をもたらしている。というのも、初期の頃に描いていたのがいわゆる「宗教画」だからだ。『マリアとマルタの家のキリスト』などは、まさにタイトルからして分かるぐらい宗教画だろう。

ただ、宗教画という枠組みにおいてもフェルメールの特異さが既に現れていると学芸員が指摘していた。それが『聖プラクセディス』である。イエズス会に関係が深い聖人で、「殉教者の遺体を清める聖人」と知られているそうだが、一般的にはまったく知名度がないらしい。「宗教画を描こうと考えて、聖プラクセディスを選ぶのは、やはりちょっと特異だ」とある学芸員が指摘していた。

ちなみに、ちょっとここで触れておくと、フェルメールが描いた作品は、数点の例外を除いて、製作年が記されていないという。だから、その数点の「製作年が分かっている作品」を基準に、フェルメールの画法や関心を抱く題材などの変化によって、それ以外の作品の製作年が推定されているのだそうだ。

しかし、宗教画を描いていたのはほんの一瞬のこと。その後彼はまったく別の題材を描くようになる。作中では、

【彼は突如「室内」を発見した】

と表現されていた。「突如」と言っているぐらい、それまでの題材選びから連続性がなかったということだろう。フェルメールは突如として、『牛乳を注ぐ女』に代表されるような「室内の光景」を描くようになったのだ。

さてそこにも、当時のオランダの影響があると指摘されていた。

フェルメールが住んでいたのはオランダのデルフトという町で、当時2万5000人ほどの人口だったそうだ。その当時で言うと「都会」だったという。そしてそんなデルフトの町では、カトリックは5000人程度。少数派だったという。恐らくオランダ全体がそのような感じだったのだろう、オランダでは基本的にプロテスタントが主流だった。

カトリックの場合は、なんとなくイメージ出来るだろうが「教会」の力が強い。そのため、カトリックの国では、国の政治も「教会」の影響が強くなってしまう。しかしプロテスタントはそうではないそうで、当時のオランダは「市民が国政を担っていた」のだそうだ。

カトリックの国ではやはり「宗教画」がメインになるが、市民が国政を担っているオランダでは、「市民を描く」ということが画家にとっては重要だったという。また、どの時代のことを言っていたのか判断できなかったが、「オランダはヨーロッパの中で最も絵画を買っている」という話も出てきた。作中では、「当時デルフトに住んでいたピーテル・ライフェンとその妻マリア・デ・クヌイトがフェルメールを個人的に支援し、後に絵を買うようにもなったのだろう」という話が出てきたが、そんな感じで当時オランダでは中流階級の人たちが積極的に絵を買っていたようである。だから「個人の依頼で絵を描くことも多かったのではないか」と推測されているという。となればやはり、「室内を描く」ということがライフワークになっていくのも当然という感じがするだろう。

さて、フェルメールの「室内画」の特徴についても作中で語られていた。

まず1つは、「日常の一瞬を切り取っている」という点だ。ここには「日常」と「一瞬」というキーワードがある。

ある学芸員が、『手紙を書く婦人と召使い』についてこんなことを言っていた。

【この絵を見ていると、フェルメールの言葉が聴こえてくるようだ。
「退屈で見落としがちな日常も、魅力的になるのだ」と】

別の人物も、「日常を特別なものとして描く」というように、フェルメールの絵を捉えていた。

実はこの点にも、イエズス会の影響があったようだ。イエズス会では「日常生活における信仰」「祈りを生活の一部に」という考えがとても重要になるという。これはまさに「日常こそ特別である」という、フェルメールの絵画の特徴と重なるものだろう。そんな感覚についてある学芸員は、「『牛乳を注ぐ女』を見ることは、ほとんど宗教的な体験に近く、他に類を見ない作品だ」みたいに語っていた。

また「一瞬」という点を強調する者もいた。「宗教画」など特に分かりやすいだろうが、絵には「物語を描き出す」という性質もある。絵は確かに「ある場面」を切り取ったものでしかないが、しかし見ているとそこに物語が浮かんでくるような作品もある。フェルメールの作品だと、初期の『マリアとマルタの家のキリスト』などはまさにそのような絵である。

しかしフェルメールは、「室内画」においては「物語」ではなく「その一瞬」を描き出しているという。「一瞬」を切り取っているからこそ、「その前」や「その後」の時間の広がりが想像出来るというわけだ。その「一瞬を切り取る才能」に、フェルメールの画家としての凄まじさを感じている学芸員もいた。

さて、彼の「室内画」の2つ目の特徴は「覗き見」である。

『牛乳を注ぐ女』などが分かりやすいが、「絵の中の人物」は「我々鑑賞者の存在」に気づいていない。「覗かれている」という事実に無頓着だというわけだ。ある学芸員は、「フェルメール自身も鑑賞者も、絵の中の人物と関係しない」みたいな表現をしていた。

このような描き方をすることで、鑑賞者に対して、「あなたもこの絵の一員だ」と思わせる効果があるという。確かに、フェルメールの室内画を見ていると、「自分もその世界に入って目の前の光景を見ている」みたいな感覚になる。

ただ、フェルメールは鑑賞者をいたずらに中に入り込ませない。「カーテン」や「椅子」などを上手く配置し、「絵の世界」を「鑑賞者の世界」を上手く隔てているのである。

また、フェルメールの室内画は、窓自体が描かれていたり描かれていなかったりするのだが、常に「左から光が差し込む」という構図になっているという。そして、窓が描かれる場合でも、やはりカーテンなどで視界が遮られ、「窓の外に何があるのか」を鑑賞者は知ることが出来ない。「絵の中の人物」が窓の外を見ていることも多いのだが、何を見ているのかは分からない。

このように「絵の世界に入り込ませる」と「制約を設けて近づかせない、見せない」というバランスを上手く取ることで、鑑賞者を見事にコントロールしているのだそうだ。フェルメールは、光と影の描き方によって、作品の「焦点」に鑑賞者の視点を集めるように絵を構成しているのだそうだが、構図などあらゆる要素を駆使してそのことを実現しているのだろう。まさに「魔術師」である。

そんな絵をフェルメールは、「下描き無し」で描いたそうだ。正確に言えば「フェルメールの下描きは一枚も残っていない」だけで、最新機器による調査によると、フェルメールは「描きながら構図などを何度も修正している」という。「複数枚あった金貨を1枚だけに変更する」「赤い扉を新たに付け足す」「背景にあった戸棚を消す」など、描いては修正しを繰り返し、完璧な構図に近づけていったというわけだ。

ある学芸員は、『手紙を読む青衣の女』という作品が好きで長年研究してきたそうだが、それでも、今回の展覧会の事前研究で、フェルメールの新たな「技法」を発見したそうだ。その説明自体はちょっとよく分からなかったが、とにかく「普通ではない」らしい。普通の画家の作品なら、「このように描いたのだろう」ということが容易に推測出来るのに、フェルメールの作品の場合は、作品ごとに「一体これはどうやって描いたのだろう」と疑問符が浮かぶと言っていた。

別の学芸員も、「フェルメールは新しい発想を思いつく天才」と語っていた。フェルメールの絵は、見れば「美しい」とみんな感じるような絵だと思うのだが、研究者の視点からも驚かされることばかりというわけだ。

僕は時々美術展に行ったりするのだが、やはり美術の素養があまり無いこともあって、正直
「見てもよく分からないな」と感じることの方が多い。フェルメールも「良いなぁ」と思うことはあっても、「何が良いんだか分からない」となってしまう。

だからこそ、解説付きで名画を紹介してくれるのはありがたいし、それが「1箇所に集めるのが困難なフェルメール作品」であればなおさらだ。公式HPには、アムステルダム国立美術館で行われたフェルメール展について「21世紀最大の展覧会と呼ばれている」と書かれている。それほどの作品が一堂に会する機会などまずないわけで、そんな展覧会の展示作品を映像で見られたのはとても良かったなと思う。

とても素晴らしい作品でした。

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