【映画】「夢見る小学校」感想・レビュー・解説

メチャクチャ面白かった。そうか、「日本の教育の枠組み」の範囲内でも、ここまでぶっ飛んだことができるのかと、その点が一番グッときた。日本では不可能だと思っていた。なんだ、可能性あるじゃんか、日本も。


以前、『先着順採用、会議自由参加で「世界一の小企業」をつくった』という本を読んだことがある。愛知県にある樹研工業という中小企業の話だ。極小精密部品の製造では国内トップメーカーであり、世界でもこの会社でしか作れないものがあるほど高い技術レベルを持っている。

そんな会社の「採用」の方針はあまりにもぶっ飛んでいる。なんと「来た順」らしいのだ。学歴も性別も人種も年齢も能力も関係ない。とりあえず「先着順」で採用していく。

そうやって採用された者たちは、その後どうなったのか。高校時代に数学がまったくできなかった女性は、勤務開始から数年後には独学で大学受験の問題が解けるレベルになっている。中卒の工場長は、「歯車理論」について独学し、海外の世界的権威から大学院卒だと思われるレベルになった。まったく英語を喋れなかった者も、いつの間にか英語をペラペラ喋って外国人と交渉している。

社長のモットーは、「チャンスをモチベーションを与えること」だそうだ。その実践によって、他に類を見ない企業を作り上げた。

映画を観ながらもう1つ連想したのが、NHKの『すイエんサー』という番組だ。僕はこの番組を見たことがないのだが、番組プロデューサーが書いた『女子高生アイドルは、なぜ東大生に知力で勝てたのか?』という本を読んだことがある。

タイトルの通り、決して学校の勉強が得意とは言えないアイドルが、東大生に知力で勝った。その話が冒頭で触れられている。「すイエんサーガールズ」と「東大生」には、「ペーパーブリッジ」という共通の課題が与えられる。ルールは、「A4の紙15枚だけを使って『橋』状の構造物を作成し、より重い重りに耐えられた方が勝ち」というものだ。

この勝負になんと、すイエんサーガールズは圧勝した。東大生が作った構造物よりも3倍以上の重りに耐えたのだ。この結果には、番組スタッフも驚愕したそうだ。その後、この勝利がまぐれではないことを確かめるべく、京大・北海道大学・東北大学など様々な大学と対戦、5勝4敗とすイエんサーガールズが勝ち越している。

なぜ彼女たちは東大生に勝つことができたのか。それは、彼女たちが普段番組で行っていることにある。毎回何も知らされずに集められ、突然、「バースデーケーキのロウソクの火を一息だけで消したい!」「パスタを食べるときにソースの飛び跳ねをなくしたい!」「スイカの種がまったく入らないようにカットしたい!」などのお題が与えられる。そして彼女たちは、時折現れる「意味不明なヒント」以外何も与えられないまま、自分たちで考え続けて答えを導き出さなければならないのだ。

恐ろしいことに、この番組の収録は、彼女たちが「正解」にたどり着くまでエンドレスで終わらないそうだ。

彼女たちの日々の行いを著者は「グルグル思考」と呼んでおり、この「グルグル思考」をやり続けてきたお陰で東大生に勝つことができたのだろう、と分析していた。

「先着順採用」と「すイエんサー」で僕が言いたいことは、こういうことだ。

<大人でさえ、制約のない環境を与えられれば能力が開花する。子どもならなおさらだ>

そして、小中学生に対してそんな実践を行っているのが、この映画で焦点が当てられる「きのくに子どもの村学園」だ。山梨・福井・和歌山・福井・長崎の計5校存在するのだが、映画の中でメインで映し出されるのは山梨の子どもの村学園である。

衝撃的な学校だった。

時間割を見る限り、この学校には、「英語」以外の学習科目は存在しない。数学・理科・社会・国語の時間はないのだ。時間割の大半を埋めるのは「プロジェクト」の文字。いわゆる「体験学習」だ。

生徒は自分の意思で5つのクラスから1つを選ぶ。「料理」「大工」「工作」「演劇」「伝統から学ぶ」だ。クラス分けはこの「プロジェクト」に沿うので、小学校は1年生から6年生まで同じクラスに属している。

例えば「大工」であれば、設計から自分たちで行い、渡り廊下の屋根やテラスなどを作る。何を作るか、どう作るかに、大人は口を出さない。小学生が、のこぎりで木を切り、電動ドライバーでネジを入れ、屋根に板を貼っていく。

「料理」では、その年のテーマを「麺」に決め、そばの実を育てるところから始める。「そばの実を育てる」という提案も、「1週間の時間割の中で、いつ種まきをし、いつ収穫するか」もすべて子どもたちが決める。大人にも投票権は存在するが、子どもたちと同じ1票だ。「1票の格差」などない、完全に民主的な決定である。蕎麦を上手く作れなかった子どもたちは、自分で県内の蕎麦店に電話で連絡をし、蕎麦やつゆをどう作っているのかを取材に行く。

ナレーション(吉岡秀隆が務めている)で、「日本一楽しい学校」と紹介されていた。確かにそうだろうと思う。ちょっと衝撃的だった。

児童主導で話し合いをしている時も、みな思い思いの格好をしている。机に突っ伏している者、廊下で寝転んでいる者、大人におんぶしてもらっている子もいる。

先ほどから「大人」という表記をしているが、これは、「子どもの村学園には『先生』はいない」からだ。通常「先生」と呼ばれる立場の人は、学校では「大人」と呼ばれている。言葉の上でではなく、本当に「子ども」と「大人」の垣根がなく、大人の意見だから通りやすいとか、大人の意見だから聞かなければならないという雰囲気は一切ない。大人も、主張をし賛同を得なければ、意見が通らないのである。

「ほりさん」とみんなから呼ばれている学園長の堀真一郎は、映画の中で印象的なことを何度も口にするが、その中でも一番良かったのはこれだと思う。

【(普通の学校や社会では)自由には責任が伴う、と言ってしまう。でもここでは、大人が責任を取るから思いっきりやってくれ、と伝えています。児童に責任が伴う、というのは、この学校では”タブー”なんです】

心理学の世界には「心理的安全性」という言葉がある。これは平たく言うと、「『こんな言動をしてもバカにされたり批判されたりしないよね』と思える環境」を指す。「心理的安全性」が低い組織では様々な問題が起こることが知られているが(例えば、不正があった場合にそれを隠蔽するなど)、子どもの村学園では異常なほど「心理的安全性」が確保されているという言い方ができると思う。

子どもたちは、何をしてもいい。以前観た『すばらしき映画音楽たち』の中で、「映画音楽のルールは1つだけ。ルールなどない」と口にする人物が出てくるが、まさに同じことがこの学校にも当てはまるだろう。もちろん、他人を傷つけたりすることはダメだし、そういうあまりに基本的な部分については別途なんらかの形で教わるんだと思うが(映画の中では特に触れられていなかった)、それさえクリアできていれば、あとは自由なのだ。

中学校の卒業式でコメントする女の子の言葉が印象的だった。彼女は最初この学校に来た時、何をしていいのか分からず周りに聞いてばかりだったという。けど、誰に聞いても「やりたいことをやればいいんだよ」と言われるので、それでやっと、自分の好きなことをやっていいんだ、と思えるようになった、と話していた。

確か茂木健一郎だったと思うが、映画の中で誰かが、

【夢中になれるもの、それを見つけることができれば、この世界にいていいんだと思える】

みたいなことを言っていた。あるいは、映画のラストでナレーションが、

【子どもたちは、自由さえあれば幸せになれる力を持っているんです】

と語っていた。まさにそのことを強烈に実感させられる映画だった。

少し「心理的安全性」の話に戻ろう。堀真一郎が、「昔こんなことを言っていた女の子がいた」と話していたことがあった。子どもの村学園に来た当初はホームシックが強かったが、慣れてくると、「ほりさん、私はここにいると私でいられるの」と言うようになったそうだ。小学4年生の子がそんなことを言っていたと、驚きを込めながら回想していた。

さて、親の立場からすると、学力が心配になるだろう。しかしこちらについても、「卒業生の高校での成績の平均」みたいな図が出てきた。詳しく覚えていないが、卒業生の学力はかなり上位に位置するそうだ。

映画には、文化人類学者の辻信一も出てくる。彼のゼミに、子どもの村学園の卒業生が何人かいたことがあるという。その中でも印象的だった女の子は、その年の総代(卒業生のトップ)だったそうだ。

また、辻信一の言っていたことで興味深かったのは「質問力」についてだ。日本人はとにかく質問をしない。アメリカでは、相手が喋っている最中にも関わらずどんどん質問をするのに、だ。しかし、子どもの村学園の卒業生は、異常なほど質問するという。探究心がずば抜けているのだという。

彼はこんな風に言っていた。

【問いというのは教室から生まれるわけじゃない。暮らしの中から生まれるのではないか。だから、生活の中から問いを拾える環境にいる子たちは強い】

【世の中のことにはほとんど答えなんかない。世界は問いに満ちている。だから僕たちは、死ぬまで「知りたい」という気持ちが消えない。
それなのに、問いを抑え込まれてしまったら、人生って一体何なんだろうって感じる】

さて、学力の話に戻そう。この映画には、割合としては決して多くはないが、「子どもの村学園」以外にも、一般的ではない取り組みをしている学校を取り上げている。

世田谷区の桜ヶ丘中学校の校長を長年務めていた人物は、公立学校にも関わらず、校則をすべて廃止、「遅刻」という概念もなくし、通知表もつけないことにした。生徒がやりたいと言ったことはできるだけ取り入れることにし、意味もなく浴衣で学校に来る日を設けたり、ハロウィンの時には仮装しても良いことにした。

改革を少しずつ進めた校長は、最終的に、「全校集会で決まったことはできるだけ実現する」と生徒に約束する。それまで、生徒で何か決めても教師がNOと言えば通らなかったために、全校集会はまったく盛り上がらなかったそうだ。しかし、校長の宣言以降、状況は変わる。

そしてついに生徒から、「定期テストを無くしてほしい」と要望が出たそうだ。校長は内心ガッツポーズをしたという。というのも、校長も定期テストを無くしたいと思っていたからだ。そして、日々の小テストはあるが、定期テストは無くしてしまった。

それでどうなったか。定期テストを止めたことで、世田谷区で学力トップに躍り出たそうだ。

この辺りの感触は、僕も大分理解できる。

僕は、自分で言うのもなんだが、割と勉強はできた方だ。地方の進学校(高校)で上位に位置するぐらいの学力は維持できていた。

そういう「ベースとして勉強はそこそこできる人間」であるという前提の上で、大人になればなるほど強く実感してきたことが、「興味・関心のないことは全然覚えていられない」ということである。テストのため、受験のためなど、究極を言えば「とりあえずそれ以降は全部忘れてもいい」というのが学校の勉強だろう。そしてだからこそ、すぐ忘れてしまう。一方、元々興味・関心があることは、覚えようと思わなくも記憶できるし、いつまでも忘れないでいられる。

この差は大きいと思う。

世の中には「本当に異次元に勉強ができる人間」というのがいて、進学校にいた僕の周りにもやはりそういう奴はいた。そして、そういう人間はもう別格中の別格なので参考にならない。僕らのような一般人は、「興味のあることしか覚えられない」と思っておくのが順当だし、だとすれば、「自分の興味・関心にすべてのリソースを突っ込む」という判断が重要になってくると思う。

それを、小中学生の段階で実践させてくれるのが「子どもの村学園」だと思うし、その環境はとても羨ましいものに感じられた。

先ほども書いた通り、僕は勉強はできたし好きだったので、学校で落ちこぼれたりしていたわけではない。それでも大人になった今、「子どもの村学園」の環境を羨ましく感じてしまう。

それは、「探究心」と「行動」の接続にある。

僕は、「探究心」はとても強い方だと思う。世の中の色んなことを知りたいと思っているし、知識や教養に対する関心はかなり高い方だ。しかし問題は、その「探究心」を「行動」に結びつけられないということ。強烈に「知りたい」と思う感覚はあるのだけど、そこから手足が動かない。だから、本を読むか映画を観るかぐらいの範囲でしか自分の「探究心」を発揮することができない。

もし「子どもの村学園」に通っていたら、自分のこの「探究心」をもっと手足と接続させることができただろうと思ってしまう。僕は、自分が持っている「探究心」がもっと適切に機能すれば、今よりもっとずっと面白い人生になったような気がしている。だから余計に羨ましさが募るのだと思う。

さて最後に、「なんだ日本でもできるんじゃん」と感じたその背景に触れて終わろう。

映画には、「尾木ママ」こと尾木直樹も登場し、

【公立の小中学校でも、通知表を出さなければならない義務はない】

と言っていた。知らなかった。文科省がそういうルールを決めているのだと思っていたし、文科省が教育の枠組みを狭めているから画一化された教育になっているのだと思っていた。

そうでもないようだ。そもそも「子どもの村学園」のカリキュラムも、文科省から認定を受けている。「子どもの村学園」は私立の学校であり、一部には「私立だからそんなことができるんだ」という意見も存在するらしいが、そのカリキュラムが文科省から認定されているのだから、同じことを公立の学校でやってもいい、ということになる。実際に、長野県にある伊那小学校は、公立だが60年以上も通知表のない教育を行っており、「子どもの村学園」のような「体験学習」が行われている。

確かに文科省は、「こういうことを教えなさい」と規定しているが、それを「国語」「数学」「社会」などの授業で教えなさいとは言っていないようだ。伊那小学校では、「これこれの体験学習では算数が、これこれの体験学習では理科が身につきます」のような説明をすることで、文科省からの認定を得ている、みたいな説明がなされていた。

僕はとにかく、「文科省のルール的に不可能」みたいに思っていたので、この映画でその先入観が取れたことが一番大きな発見だった。

コロナウイルスによって教育の環境も大きく変わったが、子どもの村学園は保護者に向けて、「学習遅れを取り戻すという発想はしません」と宣言した上で、こんな風に言う。

【優先されるべきは、子どもたちがホッとできる時間です。取り戻すべきは、子どもの楽しい時間です】

別の場面では、こんな風にも言っていた。

【とにかく学校は「楽しいだけ」でいいんだという考えでやっています。世の中には「がんばれ、がんばれ」って言葉が溢れてしまうけど、ここでは「がんばらなくていいよ」ってメッセージを敢えて送るようにしています】

学生時代を振り返って「楽しかった」と感じるような人は、子どもの村学園には向かないでしょう。でも僕のように、全然楽しくなかったし、学生時代のことはほとんど覚えていないし、絶対に戻りたくない、と思うようなタイプの人は、子どもの村学園が向いているかもしれません。

もしかしたら、「普通の学校教育」を嫌というほど理解しているからこそ、子どもの村学園が眩しく見えるだけかもしれない。それでも、映画に登場する子どもたちが皆、自分から行動し、自分の意見を持ち、やりたいことをひたすらにやっている姿を見ていると、他と比較しなくてもその環境の価値を絶対的なものさしで捉えることができるのかもしれない、とも思う。

今まで、「子どもの頃に戻りたい」なんて一度も考えたことがないが、もし「子どもの村学園」で学べるなら子どもからやり直してもいいかもしれない。そんな風に思わされる、魅惑的な学校だった。

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