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コロナ禍でも、宗教施設は門を開けよ

 ※文化時報2020年8月29日号に掲載された社説「まず門を開けよ」の全文を転載します。

 洋の東西を問わず、文学作品には多くの宗教者が描かれる。中でもよく知られている一人が、ミリエル司教だ。ビクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』に登場する聖職者で、銀の燭台の持ち主だと言えば、多くの人がうなずくだろう。

 主人公ジャン・バルジャンは、一片のパンを盗んだ罪で19年間も刑務所に入っていた。出所直後に冷たい仕打ちを受け、社会への憎悪を募らせながら、ミリエル司教の元を訪ねる。司教は客人としてもてなし、夕食と寝床を提供した。

 ところが、ジャン・バルジャンは夜中に銀の食器を盗んで逃げてしまう。本人を捕まえて連行してきた憲兵に対し、司教は銀の食器は盗まれたのではなく贈ったのだと主張する。さらに「なぜ忘れていったのか」と、銀の燭台まで持たせた。

 ストーリーを改編することの多い映画やミュージカルでも、このくだりを割愛した『レ・ミゼラブル』は、まず見当たらない。筋として重要なのはもちろん、多くの人の胸を打つからでもあるだろう。作品のテーマである「許し」を象徴した逸話であり、教誨活動に通じる教訓ともいえる。

 原作では、冒頭で司教の人柄を描くことに紙幅を費やしている。その中に、司教の家の扉は、錠前やかんぬきが取り外されており、「通りかかりの人でも何時たるを問わず、ただそれを押せば開くのだった」(豊島与志雄訳、岩波文庫)という一節がある。

 罪を憎んで人を憎まずという精神と共に、住居が常に開かれていることが、宗教者の美徳と捉えられている。住居は宗教施設と読み替えてもよかろう。

 思い起こさずにいられないのが、新型コロナウイルスの感染拡大で、緊急事態宣言下の4~5月に門を閉ざした神社仏閣があったことだ。地域住民や信徒のみならず、宗教者の間にも、心のよりどころや崇拝の対象を失ったことへの喪失感が広がった。

 後出しで批判するわけではない。クラスター(感染者集団)を作らないための苦渋の決断や、より安全な選択肢を間違いだと言うつもりはない。
 
 ただ、今後はどうだろうか。感染拡大の第2波でも再び門を閉ざすようなことがあれば、それは宗教施設らしからぬ対応だと言わざるを得なくなる。

 新型コロナウイルスと共に暮らす「ウィズコロナ」と呼ばれる時代には、備えが常に必要である。宗教施設は、まず門を開けることを前提に、感染症を考慮した事業継続計画(BCP)などの対策を整えておかねばならないだろう。

 ミリエル司教には、ビヤンブニュ(Bienvenu)という別名があった。フランス語で「ようこそ」という意味だ。コロナ禍でも、多くの宗教者が人々を歓迎し、不安に寄り添ってくれることを、願わずにはいられない。

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