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批評の話でもしましょうか

文芸批評時評・7月 中沢忠之

 瀬戸夏子「我々は既にエミリー・ディキンソンではない」(『群像』7月号)を読みながら、私は批評にネガティブな感情をもったことがないなと思った。たぶん鈍感なんだろう。私事で恐縮だが、おそらく批評らしきものを意識しだした20代全般の記憶が私にはあまりない。大学時代からダークサイドに落ち、なんとか卒業できたものの、就職活動はせずに2年間誰とも会わず実家にひきこもっていた。さすがに何かしなければと思ったのだろう、柄谷行人という名前をたまたま目にした大阪の大学院を受験した。面接官が後藤明生で、専門の話はほぼせず、実家が長野ということで冬季オリンピックの話ばかり聞いてきたのは覚えている。「入院おめでとう」という祝辞とともに担任は後藤になったが、一年後に亡くなった彼の後任のもとで書いた修士論文は、副査の渡部直己にも読んでもらった。大学院生活はダークサイドから復調しながら東京に移るが、振り返ってみれば、私にとっての批評は、大文字の固有名からの洗礼と承認以上に、近くにいて相互評価する仲間なり同人との営みにあったような気がしている。復調のきっかけも彼らあってこそだったはずだ。

 瀬戸の評論が載る『群像』7月号は批評特集(「「論」の遠近法2022」)で多くの論者が参加している。『群像』は批評評論の新人賞を長く設けていた唯一の文芸誌である。それも昨年をもって休止したのだが(2021年7月・第65回)、その受賞者で今号参加しているのは第12回(1969年)の受賞者・柄谷行人だけというのもなんだか寂しい感じがしなくもない。気を取り直して読んでみると、なかでも興味をもてたのは、連載を始めた宇野常寛「庭の話」大澤聡のインタビュー「国家と批評と生活と」(聞き手:宮田文久)だった。大澤も『群像』で長期連載「国家と批評」を書いており、その第Ⅰ部が完結したということでの――まだ続くんかい!――インタビューである。他の論者との違いをあげるとすると、彼らは、与えられた批評の場を埋めるだけではなく、批評の場そのものを考えている点にある。何かを伝えようという意志が明確に伝わってくる。ただ、彼らのその意志が明確であるほど、なぜその場が文芸誌なのかという疑問も生じてはきた。たとえば宇野は、SNSの相互評価ゲームの閉鎖性を批判してその外部を模索するが、文芸誌と文学賞を中心とした文学にこそそういった相互評価ゲームの隘路はなかったか。少なくとも文学だってSNS的な世界の外にあるわけではないのであれば、語り口もおのずと変わってくるはずである。連載の初回でそんな愚痴を言うのも野暮ではあるけれど。

 ところで、メジャー文芸誌の7月号は、前記『群像』の特集とあわせ、『文學界』千葉一幹「人間失格と人間宣言――太宰治と天皇」『すばる』奥憲介「不完全な遊戯――石原慎太郎論」が登場し、ささやかながら批評バブルの様相を呈している。千葉は柄谷が『群像』新人賞の選考委員をつとめた1998年の第41回、鎌田哲哉とともに当該新人賞を受賞している。当時は柄谷目当てで応募したケースが多かったはずで、読者も『批評空間』/柄谷と重ねながら新人賞作を読むことがあっただろう。当時ダークサイドから抜けだす一歩を踏んだ――しかしその先にあるのが批評でよかったのか?――私もそんな読者の一人だった。千葉は当時から比較的マイルドなリベラルという立ち位置で、安心安定の千葉一幹らしく、今回の論の進め方も手堅い。「サバイバーズ・ギルト」――他者の被害に対する有責意識――を引き受ける作家としての太宰を論じるのだが、その論旨ゆえに太宰は高度に道徳の人と化している。千葉は加藤典洋を引用しており、その加藤の議論と重なる高橋源一郎の(PC的な?)太宰論の系譜にあるとは言えるが、その極北ではないか。加藤は、太宰をはじめとする戦後の無頼派に「ねじれ」を読み取っているが、千葉にはそれがない。最近の道徳的な議論と接続した太宰像の更新、悪く言えば修正主義的な色合いがあり、議論があってよいのではないかと思った。

 5月は東京の文学フリマの季節。この時期にあわせて刊行される雑誌や同人誌は多い。文学フリマには行けなかったけれど、新宿の模索舎にて『G-W-G』(06号)を無事確保した。絓秀実が参加した03号は取り逃しているので、必死なのだ。今号の特集は「階級と文学」。『G-W-G』らしくはあるが、なかなか難題ではある。同人も参加者も、そもそも今「階級」を論じることなどできるのかという問題もさることながら、「文学」で「階級」を論じることに二の足を踏んでいることが伝わる。「文学」にとって「階級」とは――有島武郎以降?――自意識の問題だからである。「文学」はプチブルジョアとして「階級」において疎外されるほかない。この問題については、最近だと木村政樹の労作『革命的知識人の群像――近代日本の文芸批評と社会主義』(青土社、2022年2月)でも論じられている。『G-W-G』の各論文でも引用が複数ある。小泉義之を招いて行われた座談会「「階級」への懐疑」を読むと同人の問題意識がよく伝わるが、「階級」はある種の他者として待望されているようだ。前記宇野の言葉で言い換えれば、相互評価ゲームの外部である。一推しは宮澤隆義「埴谷・吉本論争と大岡昇平『成城だより』――三つの時間性から」。論争をたどりながら、永遠に現在を見る吉本と現在に永遠を見る埴谷に、継起的に現在と歴史を往還する大岡を対置する筆致が美しい。位田将司「「四人称」という「階級」――横光利一「純粋小説論」の浪曼主義」は、文学史最大(?)の謎語である「四人称」の新見解。敵対的なマルクス主義が脱落した文脈において「四人称」の意義を考察する点、非常に勉強になった。私もダークサイドから復活をとげた修士論文で「四人称」を扱ったように記憶するが、いずれ「四人称」好きだけを集めて「四人称」トークをするのがささやかな夢である。住本麻子は、『群像』の特集にも田中美津論――「「とり乱し」の先、「出会い」がつくる条件――田中美津『いのちの女たちへ』論」――で参加している。『G-W-G』の「闘争の庭――階級、フェミニズム、文学」は、『G-W-G』04号(2020年4月)の「「女の批評家」の三竦み――板垣直子をめぐって」の問題を継承し、フェミニズムと階級との対立しがちな問題をテーマにした宮本百合子論である。「文学とフェミニズムは確かに、階級闘争と折り合いが悪い」。「階級と文学」の特集を現在進行形の形で最も言語化できているのは恐らくこの評論だろう。『群像』で住本論を読んだ読者はこちらも読んだ方がいい。「闘争の庭」。住本論において鍵語となる「庭」とは、「家(家庭)」から放たれた闘争の場として設定されている。その「庭」で意識される「階級」こそ意味があるのだろう。前記宇野論もまた「庭」が登場する。相互評価ゲーム――やはり「家」の比喩で語られる――を相対化する外部として。両者の「庭」がどう違うのかを読み比べてみるのもよいのではないか。

 最後に紹介したいのは『代わりに読む人』(創刊準備号)『生活の批評誌』(no.5)である。前者は赤坂の双子のライオン堂にて、後者は模索舎にて購入。両者には共通する点があると感じた。それは、戸惑いながら自分たちの場を作ろうとしている有様から見える、誠実さと愉快さである。出版レーベル・代わりに読む人の代表人・友田とんはこんなことを書いている。「そこで思い出したのが、内向の世代の作家、後藤明生、坂上弘、高井有一、古井由吉が一九七〇年代の終わりから八〇年代はじめにかけて出版していた雑誌『文体』のことだった。文芸誌などにすでに十分すぎるくらいの活動の場があった彼らが、どうしてわざわざ自分たちで編集を引き受けて雑誌を出したのか」(「雑誌の準備、準備としての雑誌」)。本誌は「これから読む後藤明生」を特集にしているが、友田の雑誌出版準備をめぐる、後藤明生的な逡巡とでもいうべき叙述に好感をもった。ところで、後藤明生と言えば、今年生誕90年ということで、アーリーバード・ブックスが企画を立てている。アーリーバード・ブックス(https://www.gotoumeisei.jp/)とは、作家の長女である松崎元子が運営する後藤明生の電子書籍レーベルの名称。以前は、後藤明生程度の作家なら、全集などで大手出版社が作品を保護・公開したものだが、今はどの作家もそのような保証はない。アーリーバード・ブックスの試みは、そんな時代における作家の作品保護・公開の先駆的なものであり、その詳細は仲俣暁生「マガジン航」で読むことができる(「早起き鳥は文学全集の夢を見る」2013年10月https://magazine-k.jp/2013/12/10/early-bird-dreams-of-collected-literary-works/)。余談だけれど、本誌に参加している東條慎生の、季刊『未来』連載の後藤論の刊行が未定なのは残念である。頑張ってほしい。

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