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村上春樹の「文章」と書くことの恥ずかしさ

フィクションの感触を求めて(第一回) 勝田悠紀

 すこし基本的なところから考え直してみたいという気持ちがある。
 「文学」という言葉に不思議そうな顔をする人は多い。近所のラーメン屋や蕎麦屋で居合わせた客や店の人と話していて、大学で文学部というところに通っているなどと言うと、一体それは何をするところなのかと訝られる。といっても、別に彼らがいわゆる文学作品を読まないとは限らない。むしろ小説を読むのが趣味だとか、俳句をやるのだがとかから会話が盛り上がることもあるのだが、それでもしばしば「文学」は自然な語彙とみなされない。詩やミステリは、形式としてジャンルとして実体があるが、文学は総称的な概念であり、創作や読む行為にくわえ批評やら運動やら何やらを含む、言葉による活動の総体といった趣がある。しかし言葉ならば自分も、誰もが使っているのであって、なぜわざわざそれを「文学」という特別な活動として取り出さなければいけないのかが腑に落ちない、そういう戸惑い、強くいえば抵抗感を示されていると感じられる。
 「小説」という発想に違和感を表明する人もまあまあ多い。といっても、ここでもまた彼らが本を読まないとは限らない。むしろビジネス書だとか、歴史書だとか、「100分de名著」テキストだとか、好みのジャンルのさまざまな本を読んでいて、こちらも興味津々で話を聞いたりするのだが、しかしそんないろいろな本があるなかでなぜあえて作り話を読むのか、その肝のところが納得できないという感じを表明されることがある。それがさらに小説研究だとか批評だとかいう話になると大変で、作者の来歴を調べるのか、そういう面もある、背景となる歴史的事実を明らかにするのか、それもある、作品の解釈をするのか、そういうことも多い(どういうわけか「解釈」という言葉は「文学」に比べると市民権を得ている気がする)などとやって、結局自分も相手もどこか的を外しているという感覚を抱えたまま何となく話題を移すことになる。
 文学の読者としての、多少なりとも文学を専門的に学んできて、文章を書くこともあるタイプの読者としての自分の体験を、こうして——やや誇張的にではあるが——最初に書いてみたのは、ぼくと「彼ら」の違いを際立たせたいからではもちろんない。そもそもここで問題になっているような疑問は「専門家」によっても繰り返し問われてきたわけで、その意味では誰も唯一絶対の答えは持っていないはずだ。むしろ、ここで相手が表明している違和感が本質に触れているという気がし、そして、それにうまく言葉を返せていないと感じているぼくのつかえるような感覚のなかに、いまの時代における文学のある種の語りにくさ、あるいはうまく語れないというもどかしさの所在を明かすものがあると思ったからだ。
 もちろんそんな語りにくさなどないという意見もあるだろう。歴史的な評価はわからないにせよ創作は活発におこなわれており、読んで楽しい作品には事欠かない。読者同士の交流はインターネットによって容易になっているし、読書会などのイベントも大小さまざま盛んである。しかしそれでもなお感じる齟齬のようなもの、それは言葉、それも書かれた言葉のみによる虚構という営みがいまの社会の中で置かれた位置、あるいはそうした営みの側からの社会の見え方に関係しているように思われる。文学が時代を代表する芸術形式だった時期が遠く過ぎ去り、それはもはや社会のあり方を映し出さないというような単純な話ではない。あとで述べるようにぼくはいま「フィクション」のひじょうに不安定なあり方、その弱体化が問題だと思うのだが、その中で物語作品の虚構性はどのような機能を持つのか。映画の世紀をも通り越し動画全盛の現代、何かを知った気になるのに視覚的な情報や人が喋る姿の重要性がいよいよ高まっていくという文脈のなかで、書くこと/読むことをどのように考えるべきなのか。文学って、小説って、と首を傾げている人と、ぼくはどんな話をしたらよいのか。

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