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「風景」と「生活」を失った文芸批評

時評・書評を考える(第一回) 仲俣暁生

 同時代の小説や文芸作品を読むことで見える「風景」を言葉にしてみたいとはっきり意識したのは1997年のことだった。この年の9月に再創刊された「COMPOSITE」という雑誌で書評の連載を任され、ゼロ年代の半ばにこの雑誌がなくなるまで続けた。その懐かしい記事をインターネット・アーカイブに残っていた自分の過去サイトで掘り返してみると、初回で取り上げたのは4冊(片岡義男『日本語の外へ』/デイヴィッド・ハルバースタム『ザ・フィフティーズ』/宮台真司『世紀末の作法』/阿部和重『インディヴィジュアル・プロジェクション』)で、コラムのタイトルは「オンボロ日本語をチューンせよ」だった。
 同時代の日本語表現全般に対する苛立ちと、そこから抜け出すための糸口をなんとか発見したいという切迫感に駆られた当時の文章はいまの自分からはずいぶん遠いものだが、そのように小説や「日本語」を欲していたことは懐かしく、また愛おしくも思える。
 この頃から私は一つの作品についてだけ論じることよりも、複数の本や作品から見えるシーンつまり「風景」に関心があった。その感覚を得たのは20代に最初にかかわった「シティロード」という情報誌での、音楽欄担当者としての経験からだ。この雑誌の洋楽担当だった私は情報提供元であるレコード会社の宣伝担当者よりも、ブレーンとなってくれるライターや音楽評論家の意見をもとにレビュー欄を作成していた。国内のレコード会社から日本盤としてリリースされる前に、輸入盤の段階ですでにそのアルバムを聴き込んでいるリスナーがたくさんいて、その共通感覚がレコード屋の店頭ポップに端的な言葉で綴られていた。のちに「渋谷系」と呼ばれた音楽シーンは、まずはじめに洋楽に対するこうしたリスナー主導の「批評」として現れていた。
 イギリスの音楽ジャーナリズムには、「シーン」に名をつけるという伝統があるということを知ったのもその頃だ。よかれ悪しかれ、一定の傾向をもった音楽に名を与え、提示し、それがリスナーに受け入れられれば批評用語としても定着する。たとえば「シューゲイザー」、あるいは「セカンド・サマー・オブ・ラブ」。こういうジャーナリスティックな感覚に、当時の私は新鮮な魅力を感じていた。
 同じことを小説に対してできないか。個々の作品を孤立したものとして捉えるのではなく、同時代の複数の営みのなかに一つの「風景」を見出し、それに名を与えることができたら――そうした感覚は1990年代の小説の読者たち、必ずしも伝統的な純文学の読者ではなく、音楽や映画やマンガや演劇といった他の分野の表現と時代精神を共有しうる小説を求めていた読者の間にもあったのではないか。「J文学」という曖昧な名を与えられた一連の小説の登場も、オーディエンス=読者主導の現象だったと私は考えている。
 私が初めて小説の「書評」らしきものを書いたのも、この情報誌でのことだった。以前からの小さな書評コラムのページをリニューアルし、800字程度の書評を載せた。当初は外注原稿で、1冊の本に対しての批評ではなく2冊組み合わせて書いてほしい、と依頼したように思う。いま思えば、その2冊から見える「風景」をこそ書いてほしかったのだが、ほとんどの書き手はたんに2冊分を並べた書評を書いてきた。おそらく書評とはこういうものという前提があったからだろう。何人かからは、はっきりと「書きにくい」と言われた。それならばあなたが自分で書けばよいでしょうと、原稿を引き受けてくれないかわりに背中を押してくれた人もいた。
 そこであるときから、この欄は編集部内で書こうという話になった。試行錯誤の末に、複数の本を一人の書き手が取り上げるかたちから、ゆるやかに関連する2冊を並べて評するスタイルへと変え、その欄で私が最初に書いたのは保坂和志のデビュー作『プレーンソング』の書評だった。
 1990年代の前半にたまたま書いたこの文章と、97年から始めた先の雑誌連載でとりあげた阿部和重『インディヴィジュアル・プロジェクション』の評とを結んだ先に、2002年に出した最初の単著『ポスト・ムラカミの日本文学』が生まれた。そしてあまりにも「教科書」的だったこの本の文体から離れて、もっと自由にその「風景」を言葉にしたのが、「群像」での短期集中連載を単行本化した『極西文学論 Westway to the World』だった。本当の意味で自分が小説を「読める」ようになったと思えたのは、この二つの本を書いてからである。
 同時代の文学作品に対して向けられる言葉は、その時代とどのような関係をもちうるのだろうか。この問いに対する私自身の答えは、このときにかなりはっきりと定まってしまったので、当時の私は別のかたちでなされている同様の試みには、ほとんど関心がなかったといっていい。
 何のことか? 文芸時評のことである。
 いまも多くの新聞が文芸評論家や小説家に依頼し、月に一度、同時代の文芸シーンを総括するコラムを掲載しているが、狭義の文芸時評とはこれを指す。のちに日本の戦後文学史に興味を持つようになり、新聞の文芸時評が文芸ジャーナリズムとして実質的に機能していた時代があったことを知った。しかし私自身の読書歴にはその記憶がほとんどない。わずかに記憶に残るのは、高橋源一郎と富岡多恵子の間でかわされた、高橋の長編小説『優雅で感傷的な日本野球』をめぐる「『内輪』の言葉」論争である。ただし私は富岡の新聞時評を読んでこの論争を知ったのではない。高橋から富岡への反論(「『内輪』の言葉を喋る者は誰か」)を高橋の文芸時評集『文学がこんなにわかっていいかしら』で読んだのが最初だった。忘れてはならないが、小説家・高橋源一郎は平成年間を通じて、もっとも影響力のあった「文芸評論家」である。
 ところで、この論争はいま振り返るとなかなか面白い。『優雅で感傷的な日本野球』に用いられる非文学的な語彙の「内輪」性を批判した富岡に対し、その批判を受け入れつつも、文学もまた同時に「内輪」の言葉で語られてきたのではないか、そのことに気づかない「傲岸なナイーヴさ」こそがもっとも強固な「内輪」ではないか、と高橋は反論したのである。
 第一回三島由紀夫賞の受賞作となった高橋の『優雅で感傷的な日本野球』は、私が文芸誌上(『文藝』1985年〜87年)で読んだ数少ない小説の一つである。同作は単行本化の際にかなり大幅な改稿がされたため、小説の「テクスト」が確定される過程にはじめて自覚的になった作品でもあった。
 1990年代に入って同時代の日本の小説を熱心に読むようになったとき、手がかりとなったのも三島賞を受賞した一連の作家の作品だった。その最初の受賞作『優雅で感傷的な日本野球』が、「内輪」とその外部の言葉を反転させるような仕掛けをもっていたことと、その後の日本文学の変質が無関係だとは思えない。事実、1990年代半ば以後の日本の純文学は、異分野(映画、音楽、演劇など)の表現者を取り込んだり、ジャンル小説やエンターテインメント小説の作者による「越境」によって、表現を深化させていった。
 先に私は〈音楽や映画やマンガや演劇といった他の分野の表現とも「時代精神」を共有しうる小説〉と書いたが、その夢はこのようなかたちで純文学の内部にくりこまれていった。この時代以後の文学作品が私のような読者にとってきわめて魅力的なものに思えたのも当然だろう。
 ところで、そのような「越境」が行われた後、制度的な(つまり「内輪」の)言説としての文芸時評は変わったのだろうか。もし変化があったとしたら、その画期は朝日新聞の文芸時評の担当が2008年に加藤典洋から斎藤美奈子に変わったときだろう。文学作品じたいのなかで、あるいは作品と読者の関係で先行して起きた質的な変化に制度的な文芸時評が追いつくまでには、かなりのタイムラグがあった。
 『小説トリッパー』2021年夏号で斎藤美奈子と鴻巣友季子が「「時」のなかで批評する」という対談を行っているが、そこで斎藤は開始当時の文芸時評のあり方についてこう発言している。

斎藤 文芸時評のスタイルは昔から脈々と受け継がれていて、その大きな役割はやはりスカウトだったと思うんです。ただ、私が評論を書き始めた九〇年代は、文学なんて誰も読まないだとか、純文学はもう要らないだとか、そういう議論もあった時期でした。その意識があったので、まずは読者に対して敷居を下げたいという思いがあったんですね。文学離れを変えられるとまでは考えませんでしたが、文学軽視の風潮に抗したいという気持ちはありました。

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