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【対談】國分功一郎✗ブレイディみかこ    「〈沈みゆく世界〉から立ち上がる」

気候変動、ウクライナ戦争、インフレ……、混迷を深める時代に希望はあるのか? エッセンシャルワーカーのストライキとクリスマスのCM、アナキズムとスピノザなど、哲学者と作家がいま目の前にある光景を観察し、考え、語り合った。                                                                        (構成・斎藤哲也)


■看護師までがストを始めた

 國分 大変ご無沙汰しております。今日は「文藝春秋100周年オンライン・フェス」というイベントの一環で、日本にいる僕とイギリスのブライトンにいるブレイディさんをつないで、お話しすることになったのですが、「〈沈みゆく世界〉から立ち上がる」という大変なタイトルをいただいています。
 ブレイディ すごいタイトルですよね。
 國分 世界が沈没しつつあることが大前提になっているわけですからね。でも、こういうタイトルが与えられても、僕らは特に驚かなくなっている。むしろ沈んでいることが当たり前ということが共通認識になっている気がします。
 早速ですが、ブレイディさんは、いまイギリスにいらして、イギリス固有の、あるいはヨーロッパ固有の問題を肌身で感じていらっしゃると思うので、まずはそのあたりからお話しいただけますか。
 ブレイディ 今日もそうだったんですが、最近は朝、起きてラジオを付けると、最初にストライキの話が出てきます。いま、ストライキが本当にすごいんです。私はこの国に四半世紀以上住んでますけど、こんなにいろんな人たちがストライキをやっていたことはないんですよね。
 今年(2022年)のイギリスって、世界的に様々な話題を提供したじゃないですか。エリザベス女王の国葬があり、レタスの賞味期限より権威を失うまでの期間が短かったトラス首相の交代劇があり……。でも、そのように騒がれている派手な部分の底でずっと変わらずに進行してきたのが、物価高による貧困拡大、生活苦の問題です。「コスト・オブ・リビング・クライシス」という言葉が、今年はあちこちで飛び交いました。たとえばこの間、久しぶりにヤフーUKのサイトを見たら、ニュースサイトのトップに「コスト・オブ・リビング・クライシス」というページができている。隣のトピックはウクライナ戦争ですよ。それぐらいイギリスでは物価高がニュースのテーマであり続けたし、私たちの生活を揺るがす大変な問題になっています。
 アメリカ英語のエッセンシャルワーカーをこちらではキーワーカーと言います。医療従事者や郵便局の職員など、在宅勤務やリモートワークでは仕事ができない人、外に出て働かなければいけない人、地域社会を支えている人たちのことです。コロナ禍のイギリスでは、たとえば木曜日の何時にみんな外に出て、キーワーカーへの感謝を伝えるために一斉に拍手しましょうという運動もありました。そうやって称賛されていた人たちが、物価高の時代に軒並み生活が苦しくなり、ストライキをするかどうかが切実な問題になりました。
 それで夏ぐらいから、ついに鉄道がストを始めました。以降、鉄道はここ30年間で最大規模のストライキを断続的にやっています。高等教育の職員も一一月に始めて、うちの息子のカレッジもお休みになったりしました。そしてこの一二月には看護師さんたちがいよいよストに踏み切りました。彼らも組合でやるべきかやらざるべきかという議論と投票をやっていたんです。看護師さんって人の命を預かる仕事だし、コロナ禍もまだ収まっていない。だから自分たちが働かないと大変なことになるという意識が、普通のオフィスワーカー以上に強いじゃないですか。その人たちがストライキをやるって、よっぽどのことなんですよ。
 イギリスでは、末端の公務員の方って、あまり賃金がよくないので、公務員もよくストをします。今朝も郵便局員が12月にストライキをするというニュースが流れていました。郵便局員はこれまでも断続的にストライキをやっていたんですが、クリスマス前週にもやると言い出して。クリスマスって、こちらではカードを送ったり、プレゼントを贈ったり、それこそ日本で言ったら年賀状を送る時期みたいな感じなんですね。そういう時期にストライキをされるとけっこうなダメージになるから、騒ぎになるわけです。それでも郵便局員たちはしなければならない。そこまで追い詰められているんですね。
 実は私、今年、岩波新書から出た國分さんの『スピノザ』を最近ずっと読んでいます。そこで書かれていることといまのイギリスの状況とを照らし合わせると、考えさせられることがたくさんありました。
 たとえば、スピノザが自由意志に疑問を投げかけたことを論じたくだりがありますね。國分さんは『中動態の世界』でも依存症の問題で触れていましたが、依存症の患者さんがアルコールや薬物に依存したり、やめられなかったりするのは本人の意志の問題だと思われている、けれども、本当にそれは自由意志だけの問題なのだろうかと。
 私の身の周りにも看護師の友達がいて、そういう人って、やっぱり悩んでいるんです。あの人たちは責任感が強いから、自由意志でストライキをしているとは言い難い。だけど、賃金を上げてもらわないと本当に食べていけない、というギリギリのところまで追い詰められてしまった。それでやむなくストライキをする。逆にそういう状況でも、責任感の強さからストライキをしない人もいる。『スピノザ』を読みながら、ストライキと自由意志の問題をすごく考えましたね。

國分功一郎『スピノザーー読む人の肖像』


 國分 『スピノザ』で自由意志を論じた部分をそんなふうに読んでもらえると思わなくて、びっくりしています。同時にスピノザも、もしかしたらそういうことを考えていたかもしれないとも思いました。非常に重要な問題がたくさん出てきましたが、素朴なことからいうと、アメリカや日本で言うエッセンシャルワーカーを、イギリスではキーワーカーと呼ぶんですね。これは非常に大きな違いです。
 エッセンシャルワーカーという言葉が出てきたときに、そういう考え方は必要かもしれないけれど、この言い方にはちょっと気をつけるべきだという意見がありました。エッセンシャル(必要)なものとエッセンシャルじゃないものという区別ができてしまうからです。もちろんキーワーカーという言い方も、キーであるものとキーでないものという区別を生み出してしまうかもしれない。ただ、コロナで全世界的に同じ問題が同じように語られがちななかで、エッセンシャルワーカーという言い方一つ取っても、実はイギリスでは違った言い方をしていると知るだけでも、少し違う視点を得られる感じがしました。恥ずかしながら僕も知らなかったんですが、いまブレイディさんからうかがって興味深く思いました。
 ストライキの話は現代の日本の人たちにとってはなかなか実感がつかみにくいかもしれませんね。とりわけヨーロッパでは公務員がストをするのは当たり前なんですね。僕もフランスに留学していたときに「公務員がストライキしないんだったら、誰がストライキするの?」と言われたことがありました。「だって、公務員がストライキするからインパクトがあって意味があるんだろう」って。
 いま、おっしゃっていただいたように看護師のような仕事は命と直結するものだから、自分たちの権利を守るためにストライキをしようと簡単には言えない。でも、本当にギリギリのところで、そうせざるを得なくなったところでストライキという選択がなされている。イギリスがそういう状況になっているという情報は、あまり日本に入っていない気がします。
 ブレイディ 入ってないですよ。私が一生懸命書いているぐらいで。

こくぶん・こういちろう ●1974年生まれ。
哲学者、東京大学大学院総合文化研究科教授。
著書に『暇と退屈の倫理学』『ドゥルーズの哲学原理』『中動態の世界』など。
昨年『スピノザ』を上梓した。    写真•杉山拓也

■イギリスの二枚舌

 國分 そうですよね。それから自由意志の問題にも触れていただきました。『中動態の世界』という本で僕は「非自発的同意」という概念の話をしています。同意しているからといって、自発的にそうしているわけではないということを指す概念です。たとえば、ストライキという方針が決まってやることになったけど、自発的にやったのかというと、それはやらざるを得ないからやった。これはまさに「非自発的同意」ですね。
 環境経済の分野で原発絡みの問題を研究している教え子が、「自主避難」という言い方も非自発的同意だということを言ってました。「自主避難」というと、自分の自由意志で避難したというニュアンスが出ますが、そうじゃないんです、と。追い詰められた上でのやむを得ない転居なのに、自主的な避難だと言われてしまう。この構造はイギリスでやむなくストライキに踏み切った公務員やキーワーカーと非常に似ていますね。
 その発端になっている物価高は複合的な要因が重なっているのでしょうけど、やっぱりウクライナでの戦争が大きな要因になっていると思います。ウクライナでの戦争については、イギリスではどういうふうに捉えられているんでしょうか。
 ブレイディ まず、メディアの報じ方にびっくりしました。こんなに大々的に報道するのかって。イギリスがシリアを空爆したときも、テレビで延々と国会中継をするなど、けっこうな騒ぎでした。でも今回は騒ぎ方の規模が全然違います。やっぱりヨーロッパで起きた戦争ということで、衝撃の度合いが違うんですね。
 私の一番仲のいいイラン人の友人は、これでイギリスの視点が分かったとはっきり言ってました。EUを抜けたとはいえ、やっぱりヨーロッパなんですね。「シリア空爆の際は、自分たちが当事者であるにもかかわらず、今回のようにふだん放送されている番組をキャンセルしてまでディベート番組に変更するようなことはなかった。中東への空爆はいまよりも衝撃を受けてなかったのか」って。その感覚は私もよくわかります。
 イギリスの二枚舌ぶりも実感しましたね。ロンドンがロシア・マネーの港になっているなんて、みんなわかっていたことです。マネーロンダリングをしているペーパーカンパニーを探っていったらロシアのオリガルヒだったというドラマもけっこうありますから。
 わかっていたけど、放置していたんです。ところが遠い国で戦車が走り出すと、急に「やっぱり規制するべきだ」と手のひらを返して、ロシアの富裕層の資産を凍結し、「私たちはウクライナとともにある」なんて言うわけです。さすがこの国の二枚舌というか……。
 國分 ロシアのウクライナ侵攻が、許されない側面を持っているのは間違いないと思うんですよね。それは大前提だけれども、日本ではゼレンスキー大統領をただ応援するような姿勢だけが出てきて、その単純化がすさまじいんです。特にSNSの中でのプレッシャーが強くて、全員が「炎上」におびえて生きているみたいだし、空気からズレるようなことは本当に発言しにくい雰囲気になっています。
 現在は、ゼレンスキーがロシアとの情報戦において、ある種の勝利を収めたなかで戦争が続いている状況だと思います。ただ、いまのイギリスの二枚舌の話もそうですけど、もっといろんなことを考えなきゃいけないはずなのに、日本のSNSでは善対悪の単純な図式でしか語れなくなってしまっている。軍事の専門家は戦況を細かく分析していますけどね。
 ロシア・マネーのことをみんなわかっていて放置していたという問題も考えさせられます。この対談は2022年12月9日に行なっていますが、昨日ちょうど、日本では旧統一教会の被害者救済法案が衆議院で可決されました。統一教会の問題も僕が大学生の頃からありました。当時から問題を指摘している人はいたけれど、国会議員はそういうカルト宗教から票を得るために、色々なかたちで、お墨付きを与えた結果、さまざまな被害が放置され、拡大していった。弁護士が頑張って被害を訴え、本を出したり陳情書を出したりしても、政治家はずっと無視してきた。結局、元首相の暗殺事件が起こったことでしか、この問題が広く世に知られるようにはならなかった。つまり、人が死ぬような事件がなければ動かないような社会に日本がなってしまっていた。今年、僕らはそのことをまざまざと見せつけられました。
 ブレイディ 統一教会の問題は、あの事件後、こちらでも記事が出ました。統一教会は80年代、90年代はヨーロッパやイギリスでも活動していて「ムーニーズ」と呼ばれていました。「ムーニーズがまだ日本で活動しているということは、ここでもやってるんじゃないか。気をつけたほうがいい。もう一回思い出せ」という主旨の記事を出していたのは「テレグラフ」。保守派の新聞です。
 國分 そうですか。保守派の新聞が積極的に取り上げたということなんですね。
 ブレイディ 保守派って、ちゃんと教会に行っている感じの人が多いから、ああいうカルトに対しては「キリスト教の教義をそういう風に解釈してけしからん」と批判的になるんです。

ぶれいでぃ・みかこ●一九六五年生まれ。ライター、コラムニスト。
2019年、『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』がベストセラーに。
『子どもたちの階級闘争』など著書多数。 写真•深野未季


■CMがケン・ローチみたいに

 國分 シリアスな話が続きましたが、ここで少し雰囲気を変えて、いい話があればおうかがいしたいと思うんですがいかがでしょうか。
 ブレイディ いい話とまでは言えるかわからないんですけど、クリスマスの雰囲気がいつもと違うんです。先ほどの物価高とも関係しますが、今年のイギリスでは貧困問題が通奏低音でした。2022年の4月から2024年3月までの税務年度で、絶対的貧困に落ちている人が300万人いるだろうという試算が出ています。相対的貧困じゃなくて絶対的貧困ですよ。衣食住に必要な最低限の収入がない人が300万人も増える。そしてイギリスの世帯の半数が食事の回数を減らしているという調査も報じられました。すさまじい状況なんですよね。
 ここまで来ると、クリスマスの気分にも影響が出るんですよ。國分さんもこちらにいらっしゃったときに感じられたと思いますけど、イギリスのクリスマスって大消費フェスティバルじゃないですか。コマーシャルもキンキンキラキラ流れるし、街の中も「お金を使いましょう」という雰囲気に包まれる。でも、今年はコマーシャルからして違うんですね。
 たとえば、ジョン・ルイスという大きなデパートのチェーンは、毎年かわいらしい子どもや動物を使ったり、特撮をやったりと、引きの強いコマーシャルを流すので、クリスマスの風物詩になっているんです。そこで使われた曲は毎年クリスマスのヒットチャートに入るくらい、みんなジョン・ルイスのコマーシャルを楽しみにしているんですね。ところが今年は、ケン・ローチの映画みたいなコマーシャルなんですよ。
 國分 ケン・ローチみたいなコマーシャルってどういうコマーシャルなんですか?
 ブレイディ 主人公はおじさんなんですね。おじさんが一生懸命スケートボードの練習をするシーンがしばらく続くんです。めちゃめちゃ一生懸命なんですよ。会社ではスケボーの動画を見てるし、若い子たちに混ざってスケートボードパークに行って練習する。でも全然できなくて、転んだりしちゃって。それがちょうどクリスマスの時期なんですね。
 ある日、おじさんと奥さんが家で料理をしていると、玄関のチャイムが鳴る。ドアを開けたら、ソーシャルワーカーが、スケートボードを抱えた一三歳ぐらいの女の子を連れて立っている。その女の子が玄関先に立てかかっているおじさんのスケボーを見て、「あっ」という顔をするんですね。そして「おじさんもちょっと滑るんだよね。お入り」と、その子を迎え入れるところで終わります。
 ここで視聴者は「そうか、このおじさんは里親になろうとしていたんだ。里子がスケートボードをやっているという情報をソーシャルワーカーから聞いて、自分も一緒に遊べるように練習していたんだろうな」と知るわけです。これを見て初めてクリスマスコマーシャルで泣いたという人が周りにけっこういました。
 あるいは、クリスマスプレゼントを買えないお父さんが、ものすごく情けない思いをして、自分はコートを着て暖房を消して寝ている。でも、子どもだけは暖かくさせて寝かせるんですね。それでプレゼントも買ってあげられないから、自分で小さな車を作ってあげるコマーシャルとか。自分で作っちゃったら、まったく消費喚起にならないじゃないですか。
 國分 買わせるコマーシャルじゃないですよね。
 ブレイディ そう。でも今年のクリスマスのコマーシャルは、こういうのが多くて。豪華な七面鳥の食卓なんかを出すと、「今年こういうクリスマスを過ごせる人がどれぐらいいるんだ」ってクレームがつくみたいなんです。だから、「今年のクリスマスのコマーシャルはケン・ローチみたいだね」ってみんな言うんですね。
 そうなると、コマーシャルを見ている人たちも「自分たちも何かしなきゃ」という気持ちになるのか、地べたの人たちの立ち上がりが見えてきて、それに積極的に加わるようになっています。たとえばいま、イギリスの公立学校の五校に一校が校内にフードバンクを作っているという調査結果があります。いかにもフードバンクな設えだとなかなか入りにくいから、パントリー(食品貯蔵室)みたいな感じにして、みんなで食べ物を持ち寄って並べておく。そんなふうにして、送り迎えをするお母さんとかが気軽に持って帰れるようにしているんですね。うちの息子のカレッジでも、九月から始まって、校長先生から保護者に届いた最初のあいさつに「校内にパントリーを作ったから寄付をお願いします」というメッセージが入ってました。
 近所のパブも、クリスマス当日も開けて七面鳥ディナーを激安で提供し、ディナーを作れない人たちが来られるようにすると言ってます。こういう立ち上がりがすごいんですよ。それこそアナキズムの感覚で言う相互扶助が、クリスマスを前に立ち上がっている。もともとイギリスって『クリスマス・キャロル』のような伝統もあるじゃないですか。今年は本当にそういうものを思い出させるクリスマスになってますね。

■アナキズムとスピノザ

 國分 消費を喚起するはずのコマーシャルが、逆に人々を消費から遠ざけ、ものを作る方に向かわせている。「立ち上がる」という今日のテーマがここで活きてきた感じがします。この対談に合わせて、ブレイディさんの本を読み直していたんですけど、今日は『ワイルドサイドをほっつき歩け』を読んでいたんです。
 ブレイディ またワイルドな本を(笑)。
 國分 これはおっさんについての本ですよね。いろんな問題を抱えた中年男性が登場する。このなかで、最近はコミュニティスピリットがよみがえってきていると書いてらっしゃるじゃないですか。あまりにも政治から見放されすぎて、貧乏人たちは自分たちで自治しないと生きていけない状況になってきていると。
 クリスマスの話も、もちろん笑えない状況があって、深刻なことを真剣に考える必要はあるんだけれども、その中で何か感動的なこととかユーモラスなことが起こる。それが立ち上がることに結びついていくんですね。ブレイディさんの本も、社会の中の強烈に苦しい状況を見据えてらっしゃるんですけど、どこかユーモアがある。それが大事だと思うんですよ。
 ブレイディ でも、イギリスってわりとそういうことをしますよね。ケン・ローチみたいなコマーシャルだって、たぶんみんな、本末転倒だよねって笑いながら作ってると思いますよ。日本のいい話はないんですか。
 國分 ブレイディさんの本は日本で大ヒットするじゃないですか。こういう本を読んで共感して、いろんなことを考える人がいるのは、とても心強い状況だと思うんですよね。僕の『スピノザ』も非常に硬い本で、専門的な議論もけっこうしている。「こんな難しい話が何の役に立つんだろう」みたいに思う箇所もたくさんあると思うんですけど、それにもかかわらず大勢の人に読んでいただけているんですね。そう考えると、日本は本をきちんと読むというカルチャーが根づいている国かなという感じがしていて、最近はそこに大きな期待感を持っているんです。
 ブレイディ 國分さんの『スピノザ』は、自分でこんなに楽しむと思わないぐらい面白かったです。たくさん付箋も貼っています(笑)。自分で興味を持って昨日の夜とか調べていたんですけど、スピノザって、結構アナキズムに近いことを言ってるんですよね。
 國分 ああ、そうですね。
 ブレイディ ホッブズを取り上げて、自然権を放棄できるかという問題に触れているじゃないですか。國分さんはスピノザを読み解くことで、ホッブズの言う「放棄」は「自制」と呼ばれるべきなんじゃないかと論じています。そして、この本の中でスピノザの「私は自然権を常にそっくりそのまま保持させています」という言葉を紹介していますよね。あれ、ほんとにアナキストが言いそうなことだなと思って。
 國分 なるほど。たしかにそうかもしれないです。
 ブレイディ アナキストってよく「自主自律」という言葉を使うんですよね。私がインタビューで「ジシュジリツ」というと、原稿では「自主自立」になって返ってくることが多いんですよ。たぶん自分を律するという言葉が、皆さんのアナキストのイメージと合わないからじゃないかと思うんです。でも、自律というのは自治のこと、自分を統治することだから、自分を律するの「自律」なんです。これは『スピノザ』で書かれている「自制」と似通ったものがあるなと思って、いろいろ調べていたら、やっぱりアナキストの中でスピノザに惹かれている人っているみたいで。たとえば、ダニエル・コルソンというアナキズム系の論者がいます。日本でもアナキズム系の雑誌に彼の文章が載っているようですが、この人が「アナキスト・リーディングズ・オブ・スピノザ」という文章を書いているんです。まだちゃんと読めていないのですが、有名なアナキストへのスピノザの影響を論じている文章のようです。
『スピノザ』を読んで、そういう接点を見つけられたのも収穫でした。それからスピノザが、「自然な権利に反することなく社会が作られ」ることを目指したという指摘も我が意を得たりです。2021年に『他者の靴を履く』という本を書いたときに、エマ・ゴールドマンというアメリカのアナキスト女性を紹介しました。彼女は「個人は心臓で社会は肺なんだ」と言っているんです。個人と社会のどちらが大事ということではなくて、個人という心臓を生かすために肺である社会は栄養を送らなきゃいけない。要するに、人間の自然な権利に反することなく社会は存在できるということを、この言葉で言い表しているんですよね。
 國分 ブレイディさんは、自分がもっとも共感できる思想をひとことで言うとアナキズムかもしれないと、ずっとおっしゃっていますよね。アナキズムって何なんですかと言われると説明が難しいところがあります。イメージで語られやすいし、社会のなかでなかなかマジョリティにはならないので、姿がはっきりしないんですよね。
 でも、いま「自律」とおっしゃったように、上からの抑圧をもとに秩序を作っていくんじゃない、ということがアナキズムの基本にあると思うんです。ホッブズだったら、まさしく上から抑えつけて秩序を作る。それに対し、抑圧や禁止に基づくんじゃなくて、人々が協力して生きていくことで社会を作るというのが、アナキズムの発想の根本でしょう。だから抑圧に対する反発心が根幹にある。スピノザにはその点でアナキズムに近いところがあります。抑圧に基づいて秩序を作るという考え方にどうしたら対抗できるかというのはスピノザの問いでもある。
 哲学史を紐解いていくと、上から押し付けて秩序を作っていくという発想のほうがメジャーです。でも全然違うことを考えてきた人たちの流れもポツポツとある。スピノザもこのメジャー路線から外れた側にいる人です。そもそも長い間スピノザは哲学史の裏街道にいた人で、そのことは、社会的な抑圧を前提に秩序を作ることを拒否するアナキズムが常にマイナーな側面を持っていたことに似てますね。
 ブレイディさんが『ワイルドサイドをほっつき歩け』で書かれていたような、政治にあまりにも見放されたから自治が盛んになってきたという状況はまさしくアナキズム的ではないでしょうか。

■立ち上がる自治の光景

 ブレイディ いまのイギリスがまさにますますそうなんですよ。物価高で生活苦になり、中小企業や小さいお店がバタバタつぶれ始めている。その中には、EU離脱の国民投票で、「離脱さえすればすべてうまくいくんだ」と思って離脱に入れちゃった人たちもけっこういるわけです。そういう人たちは、あのときに夢を見せられちゃったわけじゃないですか。でも、EU離脱はどうしたって、いまのイギリスの物価高の要因の一つになっています。
 イギリスって自給自足ができない国ですから、外から物を運んでこなきゃいけない。ところがEUを離脱したために、物流も煩雑になってしまったし、物を運んでくれる労働者も、離脱とコロナで自分たちの国に帰っちゃった。その結果、大変な人手不足になっていて、それが物価高につながっています。地方のレストランに行ったら「スタッフが今日いませんから」って閉じてるんですよ。世の中がここまで大変な状態になってくると、みんなもう夢を見るのはやめた、というか、あきらめて、それよりもサバイバルだという感じになっているんです。
 そうなってくると、先ほど話したようにみんなで助け合い始めますよね。そのときに、「困っているから助けろ」と政府を突き上げても、時間はかかるし遠すぎる。近年ずっと言われていたじゃないですか。民主主義を実現するには、国家は規模が大きすぎるんじゃないか。もっと小さい規模でやっていったほうがうまくいくんじゃないかって。アクティヴィストでアナキスト人類学を探求していたデヴィッド・グレーバーがよく言っていたことです。
 興味深いのは、理念を掲げて小さな民主主義の実現を推し進めなくても、この物価高でみんな生活に困っている状況が人々に行動を起こさせていることです。それこそ中動態じゃないですけど、自分の意志で立ち上がっているというよりは、いろんな原因があって、人々を行動に仕向けている。自分たちで立ち上がっているようで、立ち上がらせられているような。そういう意味で今日のテーマである「〈沈みゆく世界〉から立ち上がる」も、自分の意志だけで立ち上がるということじゃなくて、おのずと助け合いや自治の光景が立ち上がっていると解釈できるんじゃないでしょうか。國分さんが『スピノザ』でよく使われていた言葉を使えば、そういう様態が立ち上がっているという気がしますよね。
 國分 立ち上がるというと、たしかに「ここで俺たちが頑張らなければならないんだ」といって強い意志でグッと自発的に自分から立ち上がるみたいなイメージがあるかもしれません。その場合って、無理やり哲学っぽく言うと、精神が身体を動かしているイメージだと思うんですよね。強い根性が働いて、身体というものをグッと持ち上げている。でも、ブレイディさんがいま言われた中動態的なイメージは、何か新しい情景が立ち上がっているという自動詞的な感じですよね。誰かが何かを持ち上げているというより、そういう状況が生まれてきている、と。
 先ほど五校に一校がフードバンク的な取り組みをしているという話がありました。僕は恥ずかしながら、サバティカルでイギリスに行くまでフードバンク自体を知らなかったんですけど、いまでは日本でも増えてきています。そこまで貧困が進んでいる。とりわけ子どもたちの貧困が大変な問題になってきていて、子ども食堂もある時期から広がって話題になっている。そう考えると、日本でもアナキズム的な情景が立ち上がってきているのかもしれません。

■今こそ求められる複眼的思考

 國分 貧困について考えるとき、国に大きな責任があることは忘れてはなりません。国が貧困について責任ある行動を取ってきているかどうかは常に批判的に吟味されなければならない。でも、ある条件やある現実がアナキズム的な情景を立ち上げていくという場面があることも事実だし、大切なことです。そこは決して忘れちゃいけない。
 これは実は複眼的に考えなければならない難しい論点だと思います。一方で、アナキズム的な情景を変に称賛すると、国の責任が見えなくなってしまうことがある。でも、他方で、「とにかく国がやるべきだ」と国への要求や批判だけに終始するならば、地べたのポテンシャルというか、人々の持っているアナキズム的なポテンシャルを見失うことにもなりかねない。複眼的と言いましたが、両方の点に同時に目配りしながら考え、そして発言していかないといけない。
 ブレイディさんもずっとそうされてきていますね。緊縮財政を批判する一方で、アナキズム的な情景が立ち上がっている現実を常に書かれてきた。僕は「国の責任を見逃したら絶対にいけない」ということと、「アナキズム的な力を見失ってはならない」という両方のメッセージをブレイディさんの本に読んできたように思います。

ブレイディみかこ『他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ』

 ブレイディ イギリスの北部のほうだったと思うんですけど、光熱費の高騰をなんとかしようと、風力タービンを導入したコミュニティがあるんです。つまり、自分たちで発電しようと思っている人たちまで出てきているわけです。そういう自治が立ち上がってくると、そのなかからリーダーが出てきそうな気がするんですね。「自分たちはこれできるよね」と自信をつけ、その動きがどんどん広がっていったら、相互作用で国も変わっていくんじゃないでしょうか。国が議会で決めた政策を下におろして変わっていくだけじゃなくて、下から自治をやっていくなかで、本当に地に足の着いたやり方ができるリーダーが出てきて、下から変わっていくかもしれない。だから、どっちかだけじゃ駄目なんですよね。
 國分 僕は震災の時にそういう話をよく聞きました。いまの政治を見ていると、こんなに情けなくてどうしようもない状態なのに、震災の後のボランティアの現場に行ったら、ものすごいリーダーシップを発揮しているすぐれた人たちがたくさんいた、と。実は社会に変えていく力をもった人たちが既にたくさんいるということを僕もそうした話から教えてもらいました。
 レベッカ・ソルニットに『災害ユートピア』という本がありますけれども、災害が起きると、人々が助け合うユートピア的な状況が生まれる。でも、それは長期間は続かなくて、すぐに国家や資本が入ってきて、「復興」の名の下に破壊された土地を買い叩き「開発」を始めてしまう。いまのブレイディさんのお話を聞いていて、現在のような物価高や貧困問題も、実はひとつの災害であって、それを契機に生まれた「災害ユートピア」から新しいリーダーが出てくるかもしれないという可能性に思い至りました。
 もちろん、だからといって、そのことをいまの困難な状況を肯定する理由にしてはいけない。また、この災害ユートピアもすぐに国家や資本によって収奪の対象にされてしまう可能性もある。ただ、だからといって、その中にある、地べたのアナキズム的ポテンシャルを見失うべきではない。
 でも、複眼的にものを考え、行動するのは本当に難しいことですね。国に「何とかしてくれ」と言い続けつつ、身近な人々と助け合っていく術を見いだしていかないといけないわけですからね。
 ブレイディ 難しいですよね。一方だけを切り取られると、もう一方に批判されるという側面もあるし。どっちもという立場は、非常にあいまいだし、卑怯じゃないかと思われがちじゃないですか。でも、両方要るんですよ。
 國分 僕も学生に、ものを考えるときは少なくとも相反する二要素を考えないといけないとよく言ってます。一つの要素を考えているだけでは、ものを考えているとは言えない。本当は二個どころじゃなくて、三つも四つも考えなきゃいけないわけですが。
 この社会の現状を考えるんだったら、国家の政策を批判的に検討し、しかるべき要求をしていくこと、その上で、様々なポテンシャルが、困難な状況のなかでも少しずつ静かに育っていることを注視し、その可能性を拡張していくこと。その二つは絶対に必要な立脚点ですね。

■地域の可能性

 ブレイディ 「何とかしてくれ」じゃなく、「何とかする」力って、『スピノザ』にあった「コナトゥス」なんじゃないかと思ったんですよ。
 國分 「コナトゥス」というのは感動的な概念です。その人がその人の存在に固執しようとする力があって、それが人間の本質である、いや、人間どころか、あらゆる存在の本質だとスピノザは言っています。つまり、あるところにとどまろうとする力ですよね。生きている人が生きている状態に何とかとどまろうとするときに、ある力を発揮することがある。その力がコナトゥスです。だから、今日いろいろお話しいただいたアナキズム的ポテンシャルの話は、確かにコナトゥスの発揮にほかならないんですね。
 ブレイディ 私もすごくそう思います。ミクロもマクロも、そういう力が状況を変えていくようにしないといけないですよね。
 國分 先ほど、大きな範囲では民主主義は難しいとおっしゃっていましたね。僕はイギリスで一年ほど暮らしたときに、地域政党がけっこうあるのが面白いと思ったんです。ウェールズとかスコットランドとか、地域政党ってその地域のことを第一に考えるから、自動的に社会民主主義的になっていくんですよね。だけど国家を代表するとなると、GDPとか国家全体の数値を上げようとするから、いまの資本主義だと国民はむしろ邪魔で、資本だけあればいいみたいな発想になってしまう。国民は邪魔者だから、社会保障はいらないだろうとか。
 ブレイディ 経済もトップダウンでトリクルダウンさせておけばいいんだってね。
 國分 いまの資本主義は、国家にとって国民が一番邪魔という笑えない状況を作り出しつつあります。でも、地域に根差している政党はその歯止めになるんじゃないか。ただ、日本にある地域政党は問題含みと言わざるを得ないので、イギリスで地域政党が果たしている役割をそのまま日本に当てはめることはできません。とはいえヒントにはなる。現状の国家規模の議会制民主主義でもまだまだできることはあることを僕はイギリスの政治から教わった感じがするんです。
 ブレイディ 思い出してみると、私たちは2017年に出した『保育園を呼ぶ声が聞こえる』という鼎談本でこういう話をしていましたね。この本では、日本の保育園や教育について、イギリスのこういうところから学べるんじゃないかという話を色々しました。そして、教育って、どうしたって政治につながっていくけれども、教育と地域は密接に結びついているから、変えていくとしたら「やっぱり地域からだよね」って話になりました。教育という分野に限らず、地域から何かを変えていける可能性が大いにあるという話はあのときから出ていたなと、國分さんの話を聞きながら思い出しました。
 國分 そうなんですよ。地域は本当に大きなポイントです。でも日本の駄目なところは、地域が大事だということを国家が旗を振って、中央省庁で何とかやろうとするところです。
 ブレイディ ああ。アナキズムじゃない。
 國分 学校をコミュニティスクールにするというのも、上から押し付けのコミュニティ主義なんです。国家には国家規模で何が必要かを考えてやってもらわないといけない。コミュニティの実践は、コミュニティのなかで立ち上がっていかないとうまくいかないんですよね。
 ブレイディ 上からやれということじゃないですもんね。足元の地域社会からアナキズムやコナトゥスが立ち上がらないと。

 〔文學界2023年3月号所収 本稿は「文藝春秋100周年オンライン・フェス」にて2022年12月9日に行われた対談を再録したものです〕


文學界 2023年3月号 目次

【創作】山下紘加「掌中」
欲しいわけではなかった――主婦の幸子は、ふとした切っ掛けから万引きを繰り返すようになる。著者の新境地!

長嶋有「そこにある場所」
絲山秋子「赤い髪の男」
二瓶哲也「それだけの理由で」

【対談】國分功一郎×ブレイディみかこ「〈沈みゆく世界〉から立ち上がる」←本記事です
ミン・ジヒョン×西森路代「悲恋愛を選ばないフェミニストのために」

【インタビュー】山田詠美「替えのきく言葉は使わない――小説作法を語る」(聞き手・小林久美子)

【新芥川賞作家】〈特別エッセイ〉井戸川射子「等しく私から遠い場所」
〈作品論〉宮崎智之「川下に流れゆく〈いま〉をキャッチする――『この世の喜びよ』論」
〈特別エッセイ〉佐藤厚志「先輩作家の背中」
〈作品論〉鴻巣友季子「傷の延長としてある「災厄」――『荒地の家族』論」

【特集】滝口悠生の日常
生活の愛おしさを描き続ける作家と一緒に歩いたり、しゃべったり。キーワードは「散歩」「窓目くん」「日記」
〈散歩〉「風景の一部になってみる――ルポ 秋津散歩」(取材・文 辻本力)
〈雑談〉「昼下がりに友人と」滝口悠生×窓目均/滝口悠生×植本一子×金川晋吾

【西村賢太一周忌】古谷経衡「『蝙蝠か燕か』論――西村賢太の「現代編」」

【巻頭表現】初谷むい「心底おもいます」
【エセー】グレゴリー・ケズナジャット「空気に浮遊する危険なもの」/矢野利裕「ブックオフにとって文学とは何か」

【強力連載陣】砂川文次/金原ひとみ/奈倉有里/王谷晶/辻田真佐憲/藤原麻里菜/成田悠輔/平民金子/津村記久子/高橋弘希/松浦寿輝/犬山紙子/柴田聡子/河野真太郎/住本麻子

【文學界図書室】多和田葉子(関口裕昭訳)『パウル・ツェランと中国の天使』(木村朗子)/筒井康隆・蓮實重彦『笑犬楼vs.偽伯爵』(藤田直哉)/岡﨑乾二郎『絵画の素――TOPICA PICTUS』(平松洋子)/鴻巣友季子『文学は予言する』(川本直)

表紙画=柳智之「テネシー・ウィリアムズ」


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