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「おいしいごはんが食べられますように(高瀬隼子)」のタイトルの意味

※すでに読んだことがある人向けの感想文になります。ネタバレ、独自解釈が含まれています。


職場の嫌なことを描いただけの浅い職場小説ではない。

人々が職場で抱く不満を描いている。
そういう描写が読者の共感を得ているのだろう。
しかし、「職場の人間関係や仕事の不満を描いている」というのは、作品の表層的な部分であって、登場人物の理解へは及んでいないのではないだろうか。

なぜ二谷は食事に対し無関心なのか?
なぜ芦川のデザートを捨ててしまうのか?
なぜ文学ゼミのラインをずっとみているのか?
なぜ作品のタイトルは「おいしいごはんが食べられますように」なのか?

私の読書感想では、主に主人公二谷の人物を通して作品を理解・解釈していく。

①作品の舞台

従業員の多くない小さな事務所が主な舞台となっている。
主人公二谷と、同僚で彼女の芦川、二谷に想いを寄せている後輩の押尾の3名が中心人物となっている。
この作品を読む上で最初混乱するのが、三人称風一人称で書かれているところだ。
当作品は、「二谷視点パート」と「押尾視点パート」が切り替わりながら書かれている(芦川視点パートはない)。

押尾視点パートは、単純に押尾の一人称「わたし」によって描かれているのだが、二谷視点パートでは二谷の一人称ではなく、「二谷は」と三人称で描写される。

じゃあ三人称視点なんじゃないかと思いそうだが、登場人物に対して「押尾さんは」「芦川さんは」などと二谷視点での敬称がつけられており、単純な三人称視点ではない。
たまに混乱させられてしまうこの独特な視点は、この作品を読み解く重要な鍵かもしれない。

②「職場」の描写について

本の帯に「傑作職場小説」と書いてある通り、誰もが仕事中に抱きつつ、誰に言うでもなく、呑み込んでしまいがちな不満を過不足なく綺麗に描いている。
作中でも殊更にそれを大仰に描くでもなく、作品の主要な軸として打ち出すでもなく、空気の様に自然に広がる苦味を描いている。

ただ、個人的な意見になるが、正直言って、上司や同僚たちとの避けられない人間関係とか、要は、働いている人が日々感じている、「身近な嫌なこと」の描写というものがこの作品のもつ価値の主要な部分だとは思えない。

そもそも「誰もが感じたことのある身近なことを描写する=リアルな表現」だとは思えない
誰もが経験したり感じたことがあるようなことを描写したって、「そうだよね」と思うのは当たり前だから。

どんな表現が優れているとか、優れていないとか、区別分類して上下を決めることはできないと思うし、かなり不毛なことだが、ものすごく簡単な括りとして、当たり前なことを当たり前でないように感じさせたり、非日常的なことを当たり前のように感じさせたりすることに私は価値を感じる。

文学というのは、ある時ある場所である人に起きた特殊な出来事(=個別的な出来事)が、多くの人に共感を呼ぶ、つまり普遍へと至っているということにこそ本当の値打ちがあると思う。

「できる人ができない人の分も仕事することになるのは不公平だよね」とか
「許される人がいて許されない人がいるよね」とか
「働くのって嫌だよね」とか
多くの人が日常的に考えている当たり前のことであり、そこに納得感や共感があるのは自明であり、この小説の面白さは、この作者の優れた技量はそんな表面的なところにだけあるのではない。

「職場の嫌なところを描いてくれてて共感できる」なんていう感想で留まるべき小説ではないのだ。

③「食事」の描写について

アンチグルメ小説というジャンルを作れそうなくらい、不味そうな食事シーンばかりである。職場の描写なんかよりよっぽど引っかかる部分だ。この点を考えないで「へー、二谷ってそういう人なんだ」とスルーするわけにはいかない。

二谷の食事に対する考え方、無関心さがこの小説の肝だと思う。

カップ麺でいいのだ、別に。腹を膨らませるのは。(省略)一日三食カップ麺を食べて、それで健康に生きていく食の条件が揃えばいいのに。一日一粒で全部の栄養とカロリーが摂取できる錠剤ができるのでもいい。
p5
「おれは、美味しいものを食べるために生活を選ぶのが嫌いだよ」
p71
お腹が減らなければ何も食べなくていいのに、お腹が空くから何か食べなければいけない。
p101
ちゃんとした飯を食え、自分の体を大切にしろって、言う、それがおれにとっては攻撃だって、どうしたら伝わるんだろう
p124

食事なんかカップ麺だけで良いという二谷のスタンス。むしろ、カップ麺を食べないと満たされないものがある。単に空腹を満たすためには効率的にインスタントな食事で十分だというのではない。身体に悪いモノを身体に取り込むことが二谷には必要なことなのだ。
逆に、きちんと野菜や肉を買ってきて調理し、栄養バランスのいい食事をすることは二谷にとってはむしろ有害ですらある。
また、付き合っている芦川が手作りの夕飯やお菓子をつくってくることも二谷にとっては不快なことだ。
それは何故なのか?

④本当は文学部に行きたかった二谷

二谷の部屋には本が積み上げられた一角がある。
また、大学生の頃入った文学ゼミのグループラインに一言も返事をしたことがないくせに、ずっと入り続け、その内容は漏らさずに確認している。
二谷は、一見すると今の職場でうまくやっている。仕事もそつなくこなし、職場で彼女もでき、後輩の女の子からも好かれる。
けれど、今のこの二谷がいる人生は、彼が好きで選んだルートではないのだ。

「ほんとは文学部に行きたかったんだけど、男で文学部なんて就職できないって言われて、まあそうなんだろうなと思って、本を読むのは好きだったけど研究したいかって言われたら分かんなかったから、経済学部に入った。
p59
(中略)やっぱりおれは文学部に行けばよかったなって思って、そしたらなんか、彼女のことも嫌になって。今思うとあれは、自分のことが嫌になっただけなんだろうけど
p60
だけど他支店の同期にも、先輩社員にも後輩社員にも、文学部出身者は珍しくない。大学を選んだ十代のあの時、おれは好きなことより、うまくやれそうな人生を選んだんだなと、おおげさだけど何度も思い返してしまう。その度に、ただ好きだけでいいという態度に落ち着かなくなる。
p65

二谷は、ずっと、好きなことではなく、うまくやれそうなことを選んで生きてきた。だからこそ、好きなだけで文学部を選んできた人のことを意識してしまう。「好きなだけでは何か大事なことを見落としてしまう、そうであってほしい。好きなことを選ばなかった自分は正しい選択をしたのだ」と願ってしまう。

一方で、文学ゼミのラインを抜けずにずっとみているのは、あったかもしれない「好きなことを選んだ人生」に対する未練そのものではないか。
押尾が部屋に来たシーンでは、いつも心ここに在らずに見える二谷の心が、部屋に積み重なっている本に見出される。
文学ゼミのライン、部屋に積まれた本には、二谷のもう一つの人生を諦めきれない気持ちが表れている。

二谷が生きているのは「好きなことを選ばなかった人生」なのだ。

好きでもないことを選んで大学に行き、就職して、そこで出会った女と付き合い、腹にも贅肉がついてきて、そのままその子と結婚する人生。平たく言えば、二谷の人生はこのように普遍的で、読者の多くに刺さりそうなものだと言うことだ。

⑤結論

現時点での個人的な解釈は次のようなものになる。

二谷の食への無関心さは、今自分が生きている人生に対する抵抗なのではないか。
自分の好きでもない人生を、大切に生きてやる謂れはない。むしろ蔑ろにしてやる、という姿勢。
だからこそちゃんとした食事は二谷に対する攻撃となっている。わざわざおいしいものを食べること、自分の体を大切にすることは、二谷の今の人生を肯定することにつながってしまう。

二谷視点の描写が「二谷は」と客観的なのも、自分自身の人生に対する距離感の表れではないだろうか。自らの人生を他人事のように描写しているということに思われる。

とはいえ、こんな人生やめてやる!とか、仕事を辞めて本当にやりたいことを始めるんだ!みたいな積極的な気持ちは二谷にはない。
「この人生を大切に生きてやるものか」という程度のささやかな抵抗。
そして、世の中にそんなふうに生きている人がきっとたくさんいるのではないだろうか。

芦川が職場に持ってくるスイーツを、二谷は到底受け入れられない。
芦川から「食事に気をつけて」、などというラインが来ればむしゃくしゃする。

芦川は、二谷の「好きなことを選ばなかった人生」の象徴だ。
作品の最後、芦川との結婚が意味するところは、もしかしたらあり得たかもしれない「好きなことを選んだ人生」との訣別であり、今の人生を受け入れる(=諦め)ということだ。そうすれば、二谷は食事を受け入れることができるようになるはずだ。

タイトル『おいしいごはんが食べられますように』は、「選ぶことができなかった好きなことの人生を諦め、好きでもないのに選んでしまったこの人生を受け入れることができますように」という、全ての社会人への悲しい祈りだ。

二谷は、あるいはあなたは、おいしいごはんが食べられるようになるのだろうか?

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