先生の眼差し。
新しい先生がやって来た
小学4年生のとき、新卒のひょろ長い先生が担任になった。眼鏡をかけていかにも頭の良さそうな彼は、まだ給料が出ていないため20万円で買ったという色褪せた車で毎日通勤していた。田舎の小さな学校にやって来た若い先生は、父兄から歓迎された。
頭の切れる人間は、トークも冴える。彼が赴任した当初人気だったのは、彼より少し年上のT先生。母は「T先生は素直で人懐っこかった。あんたの担任も人懐っこかったが、頭が切れすぎて口が悪かったよね(母なりの褒め言葉)」と、二人を比較してよく懐古する。よほど気に入っていたのだろう。
***
懐かしい夏の思い出
ここからは、私の通った小学校が全校生徒40人足らずだったから成り立ったことだと思って聞いてほしい。
同級生が10人に満たないわが学校は、社会見学も修学旅行も他の学校の「ついで」に行っていた。「合同」といえば聞こえはいいが、大半が隣の学校の生徒なのだ。私たちはバスの中でいつも小さくなっていた。
先生が担任になってから1年が経った頃だ。夏休みに、5年生だけで離島へキャンプに行くことが決まった。近所の山や川にみんなで出かけるのは日常茶飯事。でも泊まりがけで出かけるなんてことは一度もなかった。先生が校長先生を説得して承諾を得たらしい。OKの条件には何名か父兄が同行すること。頼まれて私の父も駆り出された。といっても父はこういうのが大好きで、二つ返事で請けて母に怒られた。
でもそれからの準備は楽しかった。父と友達のお父さんとで焼肉用の鉄板を溶接して作ったり、私たちはしおりを作ったり。小学校生活で一番キラキラした夏。その頃、今風に言えば小賢しかった私はすでに反抗期。先生と取っ組み合いの喧嘩もよくしていた。でもこのキャンプは素直に楽しかったし、先生がそんな機会を作ってくれたのがうれしかった。
人数が少ないのは悪いことじゃなかった
夏が終わると、先生の発想はどんどん面白くなる。
ある日、「今日から毎日漢字テストをやります。その点数をグラフにして、○○点まで達したら授業を1時間サボって自由に使える“自由券”を発行するぞ! どうだ!!」と発表した。
えっ、先生、それ大丈夫なの? 学校的に、大丈夫なの?
小賢しい私は、まずそんなことを考えた。しかし彼はやる気満々。当然、歓喜の声が上がる。それから毎日“1時間の自由”を得るために勉強する単細胞な私たち。この取り組みについて、職員室でどのように議論されたか分からない。とにかく先生は、自分のやりたいことを実行したのだ。
しばらくして、Sくんが自由券をゲット。そのときの喜びようといったらなかった。「先生の授業のとき、いつ使ってもいいからな」と先生。しかし、それから数日してSくんが浮かない顔でこう言った。
「俺ひとりが自由でも、校庭で何もできん」
先生の狙いはおそらくここだったのだろう。「ひとりの方がずっと楽しいじゃん」と言う人もいるかもしれない。でも、ここは運動会のリレーでひとりが2回走るような小さな学級。放課後は、学年の垣根をこえて遊ばなければ野球もサッカーもできない。そんな環境で、ひとり遊びを希望する子はいなかった。
成績優秀なSくんは、休み時間になると俄然みんなの指導係になった。そこから1ヵ月ほどして、ようやく全員が自由券を手にした。
先生の発想は大好きだったが、何しろ自分は反抗期。彼の発言が気に入らないと、いつもお尻に蹴りを入れていた(申し訳ないことをしたと思っている)。それでも先生はめげずに真正面からやり返しにやって来る。そんな毎日。今思えば、昭和のガキのささやかな反抗期だった。
先生は、各自の能力にあわせて算数や理科の宿題をノートに書き込み、1人1冊ずつ渡してくれていた。同じ問題が一つとないそれぞれのノート。お互い見せ合って解き合うのが習慣となった。そういえば、そのとき彼が使っていたのがセーラーのデスクペン(キャップが白いやつ)。大人になって初めて使っている人を見たとき、「あっ、先生のペン!」とすぐに分かった。思い返せば、小学校の卒業祝いに先生から贈られたのも万年筆だった。
子どもの頃は、人数が少ないことが恥ずかしかった。それを逆手にとった先生。彼らしい発想は一般的には間違いなのかもしれない。けれど、自分にとっては本当にありがたい豊かな教育だったと思う。
先生、元気ですか?
私は、先生が教師生活で初めて送り出した生徒のひとりとなった。卒業式の日、彼だけシクシク泣いていて、思わずからかってしまった。ごめんなさい。それから8年後、成人式の後に先生を呼んで宴を開いた。帰り際、たばこを2箱Sくんに買ってもらった先生は、またシクシク泣いていた。教え子にたばこを買ってもらうのが夢だったそうだ。
そこからさらに30年が過ぎようとしている。特別年賀状などのやり取りもしていない。こんな世界になって、「会いたい時に会いたい人に会っておかなくちゃ」と焦るせいか、近頃やけに先生のことを思い出す。
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