見出し画像

「おせったい菓子」で思い出したこと。

先日、実家から送られてきた荷物の中に、「おせったい菓子」が入っていた。

「おせったい」とは、弘法大師さま(おこぼさま)の命日に行われる伝統行事。おせったいのある寺院や民家にはのぼりが立ち、訪れた人は縁側などに安置されたおこぼさまにお参りする。その際にいただくのが、めがね菓子やふきよせなどの「おせったい菓子」。なかには棒ジュースや小さなスナック菓子袋、お赤飯やお煮しめなどを用意しているお宅もあり、子どもの頃はとても楽しみにしていた。

学校は、午後から休み。下校後に急いで昼食を済ませると、貯めておいた小銭(お賽銭)を持って、友達と集落をまわる。途中出会った子らと「あの家ではヤクルトがもらえる」「あの家ではサラダ一番がもらえる」などと情報交換をしながら。

本来この行事には、よそからきた人をもてなすことでおこぼさまへの供養になり、また徳を積むことで平和や繫栄を得られるという意味があるのだが(うろ覚えだけど、たぶんそう)、子どもにとってはあまり意味を成していなかった(笑)。だって、こんなに楽しいことはないじゃないか。

ただし、「お賽銭を入れて、きちんとお参りすること」「同じお宅には二度行かないこと」「必ずお礼を言うこと」といったルールについては、どこの子どもも小さい頃から厳しくしつけられた。当時はおせったいの意味をよく知らないままだったけど、とにかく「おこぼさまは凄い人」で、「おこぼさまにお参りすると、ありがたいお菓子がもらえる」と思っていた。

この日は子どもたちと同じように集落をまわり、おせったいを体験する先生も多かった。半分パトロールだったのだろう。しかし大人になるにつれ、「彼らは本当に楽しくて、率先して参加していたのかもしれない」と思うようになった。というのも、地域の行事として当たり前だった「おせったい」が、私が成人した頃には、ひとつのイベントのような扱いになりはじめたからだ。大人だって、おせったいは楽しいのだ。ウォーキングをしながら集落を巡るようなものだから、好きになる人は多いと思う。大切な風習でありながら、観光資源にもなったのである。

普段静かな農村集落が、この日はにぎわいを見せる。ただ、その弊害がないわけではない。数年前までわが家もおせったいを出す側だったのだが、天気の良い日はわんさかと人が押し寄せて、毎年、用意した菓子がなくなるのはあっという間。「タダで菓子がもらえる!」と、子どもたちよりも我先におせったい菓子をもらおうとする大人もちらほら。家族によると、過去にはお賽銭も入れずに菓子をぶん取ると数分もしないうちに同じ人(大人)が訪れる、なんてこともあったようだ。私はそういう大人を見かけたら、菓子を渡しながら「この人の頭に鳥のフンが落ちますように」と念じるようなタイプの人間なので、とても徳を積めそうにない。

伝統行事に参加する観光イベントは、今や数多くある。地域の文化を知るよい機会だし、個人的にも、できるだけ多くの人が楽しめたらいいと思っている。ただそれは、地域にお邪魔する気持ちが大前提ではないだろうか。どこを旅するにしろ、「映える」より大事なことは多いのだ。当たり前だけど。

大人になって地域を歩くのは、子どもの頃とは目線が変化しているので新鮮なはず。機会があれば、またお賽銭を持って巡ってみたい。

個人的に好きなのは、めがね菓子。
今はおせったい菓子を製造する菓子舗も少なくなっているとか。



#おせったい #風習 #伝統行事 #おこぼさま #今こんな気分 #旅 #スキしてみて #懐かしい味 #コラム #エッセイ

この記事が参加している募集

#スキしてみて

525,537件

#今こんな気分

75,830件

記事を読んでくださり、ありがとうございます。世の中のすき間で生きているので、励みになります! サポートは、ドラマ&映画の感想を書くために使わせていただきます。