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#一咫半
ざつぼくりん 34「一咫半(ひとあたはん)Ⅶ」
「時生さん、オミくんって元気でいるんでしょう?」
華子が聞く。
「ああ、長野の養護学校に通ってるよ」
時生のことばは事実ではなく、願いだ。
片山さん一家が長野に引っ越した翌年の二月に、大きな寒波が襲来し長野は記録的な大雪が降った。家族は細心の注意を払っていたが、予想外の寒さにオミくんは風邪をひき、こじらせてしまった。オミくんはもともと循環器系が弱い。気がついたときにはひどい肺炎を
ざつぼくりん 33「一咫半(ひとあたはん)Ⅵ」
片山家を辞した帰り道、木々の芽吹きの匂いにつつまれてふたりは駅まで並んで歩いた。片山さんの自慢のワインをご馳走になったこともあって、ふたりでそぞろ歩く春の宵はなんとも心地がよかった。
ふたりは互いのことではなくオミくんの話をした。オミくんのすきなもの、きらいなもの、こわいもの、たいせつしてるもの。どの話にもオミくんがつぶやいた一言がつく。
かたつむりの角は出入りできるからすき。絹子せんせいの声
ざつぼくりん 32「一咫半(ひとあたはん)Ⅴ」
で、ちょっと強引だったんですけど、その指導法を聞きたいのであわせて下さいってお願いしたんです。ちょうとオミくんの誕生日が近かったもので、じゃあっていうんで、そのお誕生会で絹子を紹介されたんです。
はじめて会ったときの絹子はにくたらしいくらいオミくんのこころをしっかり掴んでたんです。担任の僕よりずっと仲がよくて、正直なところ、チクショウって思いました。
でもオミくんと絹子がいっしょにいるところを
ざつぼくりん 31「一咫半(ひとあたはん)Ⅳ」
「実はぼくたちには縁結びのキューピットがいるんですよ。オミくんっていうおとこのこなんです。オミくんは僕が養護学校で担任したクラスの生徒だったんです」
美大を卒業した絹子が勤めていたのは総勢五人のデザイン事務所だった。ほっそりとして穏やかな笑顔のオーナーは片山さんといった。若白髪だったが、まだ五十代に入ったばかりだった。
「チーム・カタヤマ」はそれぞれに得意分野を持つひとが集まり、チラシからポス
ざつぼくりん 30「一咫半(ひとあたはん)Ⅲ」
「華ちゃん、お客さんをこき使って悪いんだけど、これお座敷に運んでくれる?」
志津が華子に頼む。はい、と答えた華子は手渡された食器をお盆にのせて、床の間のある部屋へと慎重に運ぶ。妊婦はすわってなさいと言われた絹子はダイニングの椅子に腰掛け、もうすっかりうちとけた感じの志津と華子を眺める。
かいがいしく動く華子。笑顔でそれを見守る志津。
「ありがとねえ、すまないねえ」という志津のあたりまえの言葉
ざつぼくりん 29「ひと咫半(ひとあたはん)Ⅱ」
その日の夕飯、ひき肉入りのオムレツを絹子は白い銘々皿に手早く盛り付ける。それを受け取った時生がポトフ風のスープとサラダを添えて各々のベージュのランチョンマットのうえに並べる。
そこへ華子が風呂から上がってきた。こころなし、血色がよくなったように見える。テーブルについた華子は絹子が手渡す牛乳をこくこくと飲みほしたかと思うと、話の途中のような口調で華子がたずねる。
「それで、カンさんていくつなの?
ざつぼくりん 28「一咫半(ひとあたはん)Ⅰ」
焼き菓子の香ばしいかおりがしてきた。
華子はオーブンの前に陣取り腕組みをしてそのなかをにらみつけている。えらく真剣な顔つきで、朝から絹子とふたりで作ったカステラの焼き具合を見張っている。
カステラは期待に応えて焼き色を重ね、空気をはらんで次第にその体積を増やし始めている。
秋晴れになった日曜日、小さな台所に飛び込んだ光の粒子が洗いあげられた鍋や食器にまぶしく反射している。
その光を追うよう