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文の文 1

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文というハンドルネーム、さわむら蛍というペンネームで書いていた作文をブラッシュアップしてまとめています。
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#先生たち

先生たち10 アカシセンセイ

先生たち10 アカシセンセイ

ほんとにその名も忘れていた。遠い時間のなかのひと。振り返った作文のなかにセンセイはいた。そしてそこには悲しい別れもあった。

思い出して何になるのかはわからないが、そこにあたしがいて、そこで生きて、心を波立たせていたのは確かだから、掬い取って遺しておきたいと思うのだ。あたしのために。

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十歳のとき、腎臓病で京都国立病院に入院した。そのときの主治医の名を今も忘れずにいる。アカシセンセイ

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先生たち 9  なかむらせんせい

高校時代は新聞部、大学では文芸部に所属したのだけれど、主婦になり二児の母になったあたしは日々の家事に追われて、日記すら書かなくなっていた。

そんなあたしにふたたび文章を書き始めるきっかけを作ってくれたのが、息子たちが通っていた幼稚園の園長であるなかむらせんせいだった。

そのころ、祖父を亡くした長男の元気がなくて、そのことについて、なかむらせんせいと手紙で何回かやりとりをした。明るく接するように

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先生たち 8  のまち先生

先生たち 8 のまち先生

何年か前の同窓会にのまち先生がお見えになっていた。物故された先生もおおいのだが、のまち先生は、白髪になられていたが、まだまだお元気そうで、はきはきしたごあいさつをされていた。

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のまちセンセイは中学一年生のときの担任で、保健体育を教える女性教師だった。

当時、センセイはいくつだったのだろう。40歳前後だったろうか。

教師という職業が、生徒のなかにそういう人物像を作らせるのかもしれ

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先生たち 6  オーコーチせんせい

先生たち 6 オーコーチせんせい

おとなになってからの先生への視線はどこか意地悪になっているかもしれないな、と思ったりする。

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小説作法という教室に通ったときの講師がオーコーチせんせいだった。そのときのわたしは文芸評論家のオーコーチせんせいがいかなるひとなのかよくわかっていなかった。

なにしろそのまえの教室に通わないための口実がほしかったから、その曜日のその時間の講座を選んだだけなのだ。(その次に通うことになる高井

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先生たち 5  小田教授

先生たち 5  小田教授

心理学の小田教授はちょっと芸術家のような風貌だったが、喉頭がんを患い、かろうじて出る低くかすれた声で講義をした。聞くほうが苦しくなるようなときもあったが、心理学の講義には学生が満ちていた。

時折関西系列のテレビに出演していたので、休講が多かった。ハンサムな風貌とならんでそれも人気の理由だった。

小学校のころ、小田の小さいという字がイヤだったという。大田や中田に比べて貧相な苗字だと思っていた。

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先生たち 4 えこひいき先生

先生たち 4 えこひいき先生

人数が少なく、クラス替えのない小学校の4・5・6年の担任はずっとおなじ先生で、そのひとは「えこひいき」名人だった。

卒業して長い時間が流れたというのに、クラス会て集まると、あたしたちはそのえこひいきを苦々しく思い出す。

なんと露骨なえこひいきだったことだろう。それは教師によるいじめだったのかもしれない。

有力な親がいる子といない子で扱いが違った理不尽な教室。

そのころ、小テストの採点は答案

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先生たち 3  アダチ先生

申し訳なく思い出す先生もいる。

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なんて物悲しい先生だったのだろう。中学二年のときに赴任してきた理科担当の先生だった。

前任の先生が陽気で砕けた感じの人気のあるひとだったので、中年のはげ頭で眼鏡で猫背でいつもうつむいてつんのめったように歩くアダチ先生は最初から分が悪かった。

家ではかかあ天下で娘がふたりで女ばっかりの家族にいじめられているらしい、という噂がまことしやかに流布しても

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先生たち 2  まりセンセイ

先生たち 2 まりセンセイ

センセイから、京都文化博物館での書作展の案内状が来た。精力的な活動に感心する。

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高校3年の担任まりセンセイのなかのメトロノームは、とてもゆっくり振れているような気がしていた。アダージョのひと。

ねむたげな眸はやわらかに事物を捕らえ、こころはあたたかに反応する。その鷹揚な気配が生徒を安心させた。

高校の校門の門柱に、造反有理なんてペンキで落書きされていた時代のすぐあとに、そこをく

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