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港区(勤務)女子の「発心」その40@高野山 奥之院

勘違いしていた話を一つ。

真言宗の総本山・高野山に未だにお参りを済ませていない中、お遍路を続けていて良いものだろうか。そう思い立ち、大阪から2時間以上もの道程に気後れしつつも行ってきました。
難波から南海鉄道に乗り、橋本駅にて乗り換え待ち。その間に一度改札を出て、「柿の葉すし本舗 たなか」さんにてお昼を購入。13時に一度休憩で店を閉められるギリギリのところでした。お店の方にお茶までいただき、ゆっくりとベンチでいただきました。サバが一般的なイメージとしてありましたが、他にも鯛やシャケもあり美味。

お腹が満たされたところで極楽橋駅方面へ向かう電車に乗車。一般的な電車にしてはかなり勾配のある、しかも山の斜面に沿ってウネウネと敷かれたレールの上を走っていくので、ワクワク、少しハラハラしながら車窓を眺めていました。途中六文銭の旗が掲げられている駅があり、何か真田に関係があるのかなと思っていたところ、後で調べてみると九度山駅周辺は真田幸村が隠棲していたゆかりの地だそうです。

極楽橋駅から高野山駅までは5分ほどケーブルカーに乗り、さらにそこから高野山の中心部まではバスを利用、そのまま奥之院前まで直行しました。道の両側には昔ながらの建物が連なっており、それもそのはず、街には寺院が100以上もあるそうです。丁度お盆の頃ではありましたが、人がごった返すことはなく、街は実に落ち着いた雰囲気でした。

奥之院は、空海が入定(にゅうじょう)した御廟まで石畳がずっと続いており、その距離約2kmにも及ぶのには驚きです。実際20〜30分は歩いたかと思います。参道の両側には「高野杉」と呼ばれる杉の巨木が生い茂るとともに、あとはひたすら墓、墓、墓。それもとんでもない大きさのものばかり。名だたるメーカーの物故供養塔や著名人・偉人・名家の墓、中でも武将の墓が多く、織田信長、豊臣秀吉、武田信玄、上杉謙信、石田三成と、武将好きの方にはたまらないと思います。恐らく高野山に分骨をすることが一種のステータスであったのかもしれません。中でも明智光秀の墓はいわくつきで、上から「空・風・火・水・地」を表す5つの異なる形をした石材でできた「五輪塔」の「水」の部分が何度修復しても割れてしまうそう。それは、火攻めにされた信長の呪いなんだとか・・・ちなみに石畳の下にも古い墓が何十万基と埋まっているそうです・・・私はこの日昼だけでなく夜もナイトツアーで訪れたのですが、このような逸話や実話を聞いた上で歩く夜の奥之院は中々のものでした。

一の橋、中の橋と渡り、いよいよ御廟橋を渡ると一切写真が撮れなくなります。脱帽もマスト。無数の灯籠が天井から吊るされた内部はとても厳かな雰囲気でした。大きな本堂の裏手を回ると、山奥は木の塀で隔たれていました。その先には空海の即身仏が恐らく安置されているはずですが、誰も立ち入れないため定かではありません。そのため、空海は動物の姿を借りて御廟を出入りしているとされており、実際、御廟の前にハクビシンなんかが意味ありげに出現したりしたこともあったそうです。

お参りを済ませ、納経帳に御朱印をいただく際に「お遍路周られたんですね」と声をかけられました。「いえ、まだです」と堂々と答えてしまったのですが、どうやら本当は奥之院へはお遍路のお礼参りで行かなければならないようですね。むしろ本来始めに行くものだと勘違いしていました。しかし、人生もそうですが、良くも悪くも勘違いがなければ生まれなかった事象や感情といったものがあるかと思います。現に、この時奥之院に訪れたからこそ、御廟付近で木の幹をぐんぐんと昇っていくムササビ(意外とお尻と尻尾がぽってりとしている)を、割と近距離で見ることができました。ただ、これも私の勘違いで、しばらく「高野山でモモンガ見た!」と周囲に興奮気味に言いふらしていたとさ。

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