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古典的カテゴリー観と金沢カレー

「金沢カレーをスプーンで食べる」
この表現は日本語として不条理であろうか?

 金沢カレーのことをどれほど詳しく知っているかについては個人差があるかも知れないが、上記の表現は一般に自然な日本語であると思われる。

 しかし、ある特定の視座(しかもごく素朴な意味観)に立脚すると、上記の文は極めて不条理な表現になるという帰結が導かれてしまう。今回はこの点について検討しながら、金沢カレー概念の本質について迫っていく。

 金沢カレーとは石川県金沢市発祥のご当地カレーである。「ゴーゴーカレー」という金沢カレー専門のチェーン店でも知られる通り、金沢カレーは全国区のB級グルメだ。

 金沢カレーは、実はその特徴が明確に規定されており、ゴーゴーカレーの店内には必ずといって良いほど、金沢カレーとは何か?についての但し書きが掲示されている。

 そこでの記載に従うと金沢カレーは下記の五つの要素で規定されるカレーライスである。

金沢カレーとは?
・キャベツの千切り
・ソースがかかったカツ
・どろっとしたルー
・ステンレス製の皿
・フォークで食べる

何の気なしに上記の規定を読むと、この五つを満たすものが金沢カレーであり、そうでないものは金沢カレーでないということになる。これは極めて自然な解釈であろう。この場合、上記の五か条は金沢カレーの必要十分条件だということになる。

 この意味観は古典的カテゴリー観と呼ばれる極めて素朴なカテゴリー観である。

 これは即ち
「あるカテゴリーに入っているからには、入っているもの全てに共通の特性があるはずだという考え方(西村・野矢2013)」であり、

「カテゴリーというのは必要十分条件ーその成員を過不足なく特徴づける条件ーによって規定できる(西村・野矢2013)」

とする見解に基づく意味の考え方である。

 例えば、偶数とは「2で割り切れ」かつ「自然数」であるという必要十分条件から規定できる。このような考えから言葉の意味を考えるという立場が古典的カテゴリー観だ。たしかに偶数といった概念であれば古典的カテゴリー観で十分な規定を与えられるようにも思われる。

 しかし、この古典的カテゴリー観は金沢カレーという概念を十分に規定できないという点で問題を抱えている。

 例を挙げたい。先述の通り、ゴーゴーカレーは金沢カレーの専門店であるわけだが、その店のメニューにはカツの乗っていないカレーライスがある。私はカツなしの金沢カレーをゴーゴーカレーで何度か食べたことがあるのだが、古典的カテゴリー観に基づけば、カツなしの金沢カレーは、五つのうち四つの条件しか満たさないため、金沢カレーではないということになる。しかし、私がこれまで食べてきたゴーゴーカレーのカツなしのカレーが金沢カレーではないという帰結は直感と著しく齟齬する。

 そして冒頭の「金沢カレーをスプーンで食べる」が奇妙に感じられないということも、また、古典的カテゴリー観で金沢カレーを規定することの限界を示していると言える。

 では下記の五か条はいったい何を意味しているのであろうか。

・キャベツの千切り
・ソースがかかったカツ
・どろっとしたルー
・ステンレス製の皿
・フォークで食べる

 金沢カレーを巡るこの問題はプロトタイプカテゴリーというカテゴリー観を導入することで解決することができる。

 プロトタイプカテゴリーとは、カテゴリーの成員は必要十分条件によって規定できるという古典的カテゴリー観を否定し、カテゴリーの成員同士のあいだの「らしさ」の違いを積極的に認める立場に立つカテゴリー観である。実際、我々の日常的な実感に照らすならスズメやツバメの方がペンギンやダチョウよりも鳥らしい鳥だと考えているはずだが、プロトタイプカテゴリーにも基づく説明はこの感覚を掬うことができる。

 また、西村・野矢(2013)は「嘘をつく」という言葉の意味をめぐって、下記の三つの特徴を挙げる。

①事実でないことを言う。
②発話者自身が事実でないと思っていることを言う。
③聞き手を騙す意図がある。

西村・野矢((2013)では、プロトタイプカテゴリーの見解から、これら三つは「嘘をつく」の典型的な条件であって、「嘘をつく」の必要十分条件ではない、と述べている。つまり、三つの条件が揃うことは典型的な「嘘をつく」という行為であるわけだが、どれかを欠いていたとしてもそれが「嘘をつくではない」ということにはならないというわけである。

 ここでの議論はそのまま金沢カレーに関して当てはめることができるであろう。

 先に挙げた金沢カレーの五つの特徴はそれらを満たしていれば典型的な金沢カレーであるということに過ぎない。「フォークで食べない」「カツが乗っていない」金沢カレーがあり得るという感覚は、プロトタイプカテゴリーに基づく意味論の立場から擁護されるのである。

 このように、金沢カレーという概念を精緻に記述できるのは古典的カテゴリー観ではなく、プロトタイプカテゴリーである。この点は是非とも留意されたい。そして、この結論はゴーゴーカレーでカツなしカレーを頼むことに一抹の緊張感を持つ人々に確かな安心感を与えるものである。古典的カテゴリー観に基づくならば、ゴーゴーカレーでカツなしのカレーライスを頼むことは、CoCo壱番屋でサラダだけを頼んで食べるのと同程度の緊張感を覚悟しなければならないからである。

 プロトタイプカテゴリーに基づくのであれば、たとえカツなしであっても(金沢カレー「らしさ」は欠けるものの)金沢カレーは金沢カレーである。安心して注文されたい。

●付記
本稿は西村義樹・野矢茂樹著『言語学の教室』における「嘘をつく」の議論より大きな影響を受けた。

また本稿は下記のPoscastでの議論が下敷となっている。

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