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甘口に関する覚書:甘いの多義性あるいは重松清『カレーライス』論

本稿は阪大カレー愛好会会誌『基礎・カレー探究』に掲載した論考を一部加筆修正したものです。(Twitter @handaicurry)

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 カレーの辛さを表す言葉の一つとして「甘口」という表現がある。なんの変哲もない表現だと思われるかもしれないが、少し考えてみると甘口という言葉はやや奇妙である。カレーが甘いとはいったいどういうことであろう、と考え始めるとどんどん分からなくなるからである。

 「甘い」というのは一般に多義語である。「ぜんざいは甘い」「砂糖を入れると甘くなる」といった味覚に関する表現の他、「甘いマスク」「甘い言葉に惑わされるな」「君の考えは甘い」「詰めが甘い」といった味覚とは関係のない表現の中でも使われる場合がある。

 ある多義語がいくつの意味を持っているかという議論を科学的に示すことは非常に困難であると思われるが、我々は甘いという語の使われ方を経験的にいくつかの用法に括っているだろう。例えば、味覚に関して使用される「甘い」という語は砂糖を舐めた時に代表的な感覚を表現するものとして、ある程度経験的にひとまとめにされているのではないか。実際に「砂糖が甘い」「苺は甘い」といった表現で使われる「甘い」は殆ど同じ用法だと言いたくなる。

 しかし、カレーに関して「甘い」という言葉を適用する時、そこでの「甘い」は、一般に味覚に関して用いられる「甘い」という表現からは、どこかはみ出していくような、創造的な用法であると感じられる。カレーの甘口を指して甘いという時、本当は甘くないのに、甘いと表現しているという「感じ」に私は苛まれるからである。

 甘口のカレーは実際には「甘くない」のではないかという主張については,それを支える証拠らしきものをいくつか挙げてみることができる。

 一つ目。例えば、甘いものが苦手だという人に関して、ぜんざいやケーキが苦手なのかもしれないと推論することは極めて自然であるが、甘口のカレーが苦手なのではないかと推論することはあまり考えにくい。
 二つ目。カレーの味の程度性は「甘さ」概念を用いずとも十分に記述できる。カレー屋に行くと「普通―中辛―辛口―大辛」といった表記や「普通―1辛―2辛―3辛・・・・」といった表記でカレーの程度性を表している場合があるが、これは「甘さ」概念を用いずに辛さの程度のみで十分にカレーの味の程度性を表すことができるということを示している。これは我々が日常的にカレーを辛いものの一種として位置付けていることとも整合する。
 三つ目。「このカレーの辛さは甘口だ」という発話は自然である。これは,カレーにおいて甘口というのは「辛さ」の程度性の一つであることを示唆している。同時に「このカレーの甘さは甘口だ」という表現は奇妙である。これもまた我々が日常的にカレーを辛いものの一種として位置付けていることとも整合する。

 このようにカレーに関して「甘い」という概念を用いる事情は苺や砂糖やぜんざいに関してこの語を用いる事情とはやや異なるようにも思われる。 

 ここで発想を転換させたい。

 「辛さ」とは厳密には味覚ではなく痛覚だとも言われる。「甘い」を味覚ではなく、刺激の段階性に位置づけるならば、むしろ甘口は「考えが甘い」「まだまだお前はあまちゃんだ」といった時の「甘い」に近接している用法なのではないか、とも考えられるはずだ。つまり、刺激が足りない、即ち、何か不十分である、という意味で「甘い」のだという把握である。

 この点に関して、小学校の教科書にも掲載されている小説『カレーライス』(重松清著)のあるシーンーお父さんの作る甘口カレーの食味に関して、主人公の小学生、ひろし君が「甘ったるい」と評する場面ーが極めて示唆的である。

 これはある種の誇張表現であり、実際のカレーが食味として「甘ったるい」というわけではないだろう。この作品において重要なのはひろし君が中辛、辛口のカレーを食べることと大人であることとを重ね合わせているという点であり、甘口のカレーはこの作品において「何かまだ十分ではないもの」の象徴であることだ。この場面における「甘ったるい」という誇張表現は「自分はもう大人なんだ」というひろし君の主張行為に他ならない。

 とはいえ、この場面での「甘ったるい」は字義通りには食味に関する評価である。しかし、この小説の文脈の中でその言葉が置かれた時、「考えが甘い」「まだまだお前はあまちゃんだ」といった甘いが持つ他の側面が自然と想起され、読者は「甘い」という言葉が持つ多様な側面を図らずしも見渡していくことになる。言い換えれば、その時、「甘い」の持つ多義を立体的に理解するのである。

 ある対象や概念を立体的に深く理解するということは、その対象(概念)の際立った側面から出発し、繰り返し連想を重ねていく過程であると私は考える。甘口のカレーとは、カレーという魅力的な食べ物が持つ奥行きと、甘いという多義的な言葉が持つ奥行きが交渉し、極めて豊かなイメージを我々に喚起させる。

 本稿を草しながら、小説の主題として甘口のカレーを設定された重松氏の慧眼にただただ感服するばかりであった。

●付記
本稿を執筆するにあたって古田徹也氏の『言葉の魂の哲学』からは大きな影響を受けました。

また、会誌発行の際に会員より頂いたコメントを最後に付して記します。
【会員コメント】
「カレーの「甘口」に関する覚書」はカレーを考える上で当然に付随してくる「味」にスポットを当てた論説である。普段何気なく目にするカレーの「甘口」あるいは「辛口」という表現の奇妙さを指摘したことは一つの成果と言える。味という観点からカレーを考えるとき,そこには認知論的な深みが存在していた。今後一層の論考が必要である。
(講評はカレー小説家・菅沼九民氏によるもの Twitter @cumin51)

また、本稿は下記Poscast上での議論が下敷きとなっている。

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