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CoCo壱番屋の『や』考

はじめに-「ホルモン」と「放るもん」

焼肉屋にホルモンというメニューがあるが、この食用としての動物の内臓であるホルモンは男性ホルモンや女性ホルモンという時のホルモンと同じなのだろうか。それとも、関西弁の「放るもん(捨てるもの)」を語源とするものであろうか。はたまた、それらとは、全く独立のホルモンなのだろうか。周りの人達に聞いてるみると、驚くことにホルモンに対する印象は人によって相当異なっているようである。

(また、実際の語源を調べてみると、諸説あり、何が正しい見解なのかも素人の私には判然としない。本稿はその正しい語源よりも、話者がその言葉に対して漠然とどのような印象を持っているかに関心がある)

焼肉のホルモンのようにある特定の語に対して抱く印象やイメージが実は使用者のそれぞれで随分異なっているというケースが往々にしてある。が、その相違はコミュニケーション上表面化しない(問題とならない)ため、普通我々はその相違に気づかないのである。

以下では、CoCo壱番屋という言葉に対する私の印象の変遷を辿りたい。

私とCoCo壱番屋と『や』

私の故郷には大手カレーチェーンCoCo壱番屋が一つも無く、そのこともあって、私が初めて「ココイチバンヤ」という言葉を聞いたのは、中学2年時であった。友人が旅行先で「ココイチバンヤ」というカレー屋に行ったのだと、伝聞した時であったと記憶している。

(なお、余談だが、私が初めて本物のCoCo壱番屋を観たのは大学に入ってからである)

ココイチバンヤを教えてくれた中学時代のその友人は初めてのカレー屋の感動が相当のものであったらしく、そのことを夏休みの宿題である短歌に詠み、それを提出した。
今でもはっきりと思い出すことができる名歌である。

最高だ 初めて行ったカレー屋は
いっぱいのせれる ココイチバンヤ

中学時代、友人が夏休みの宿題で作った短歌

この歌でココイチバンヤと表記されていたこともあって、私にとってCoCo壱番屋は長らくカタカナのココイチバンヤであった。そして、この歌では「(カツやほうれん草などを)いっぱい乗せれる」ことから当該のカレー屋を「ここ1番や!」と評価していることからも、ココイチバンヤは「ここ1番や!」と主張している店名であるとして、私の脳裏に深く刻まれることとなった。当時、ココイチバンヤのヤは私にとって関西弁の終助詞としての「〇〇や!」だったのである。

そのため、大阪の大学に入学し、初めて本物のココイチバンヤの店舗を見た時、その表記が正確には「CoCo壱番屋」であったことに私は驚きを隠せなかった。

まさか、ココイチバンヤの「ヤ」が八百屋、魚屋、等と同じ「屋」であったとは。

今考えると不思議だが、私はその時CoCo壱番屋が、とはいえ「ここ一番や!」を含んでいる可能性を完全にキャンセルしてしまったのである。即ち、ココイチバンヤのヤは終助詞ではなく、また、終助詞の解釈を持たないと認識を改めたのであった。従って、大学入学以降の私にとってCoCo壱番屋は「ここ1番や!」を喚起する言葉ではなくなっていたのである。

CoCo壱番屋における「ここ1番や!」の解釈の存否

先述した個人的な経験、即ち、ココイチバンヤの意味が「ここ1番や!」を主張するものから単なる「〇〇屋」という平板な店名へと変貌したこと、について友人に話した時、それらの二つの意味はCoCo壱番屋という言葉の中に二つとも入っているのではないか?と指摘を受けた。つまりCoCo壱番屋の屋は文字通り「屋」であると同時に終助詞「や!」を併せ持ち、「ここ1番や!」という主張を含んでいるのだという訳である。そして、馬鹿馬鹿しい話と思われるかもしれないが、そう言われてみると、「なるほど、確かにそうかもしれない」という気がしてきたのである。

そこで、阪大カレー愛好会のTwitterアカウントでアンケート調査を行ってみた。その内容と結果は以下の通り。

【まとめ】
CoCo壱番屋には「ここ1番や!」の解釈があるか?
普通にある 57%
あり得るが普通は無い+無い 43%

阪大カレー愛好会Twitter

実際、多くの人がCoCo壱番屋を、ある種の二つの意味を併せ持つ店名として認識していたことが明らかとなった。

また、この結果からも分かるように、CoCo壱番屋の解釈可能性については使用者のあいだでかなりの個人差があるようだということも明らかとなった。
当然のことかもしれないが、これ程までにCoCo壱番屋という言葉に抱く印象が異なっていながら、それを理由にコミュニケーションに齟齬が生じたりすることは日常的にはあり得ない。

(言葉に対する話者の個人的な印象について関心を持つ本稿はその目的から、「ここ1番や!」を主張しているのか否かについての公式の見解については、それほど興味を持たないが、調べたところ、その由来は創業者の「ここ1番や!」というメッセージから来ているようではある。)

(言葉の使用者が公式のメッセージを意識するかしないかは言葉を正しく使えることにとっては全く問題にならない。また、そのような公式のメッセージを意識せず、あるいは知らずにその言葉を使うことはいかなる意味でも誤用ではないと思われる)

当該の言葉を正確に使えるか否かという観点からみた時、以上のような相違(「ここ1番や!」の意味を持つか否か)は表面化され得ないのである。表面化されないこの違いは瑣末なものだと言って良いものであろうか。この点は私には判然としないが、しかし、「屋」でありつつ「や!」であるという両面を持つことがCoCo壱番屋という言葉の面白さである(言葉遊び性を持つ)とは言って良いのではないかとも思われる。その二面性を思い至らなかった頃の私に、その面白みは持たれなかったのである。しかし、既に明らかな通り、このことはCoCo壱番屋について、「や!」から「屋」に認識を改め、「屋」と「や!」の両方を持つと感じるに至った私にとっての、一個人の感慨に過ぎないことは確と記しておかねばならない。

補説
ネギトロを巡る問題ーその語源と、葱は必須か否か

また、言葉の語源やイメージに対する理解が実際の生活上の実践に影響を及ぼすことも無くは無いように思われる。例えば、ネギトロは「葱+トロ」という説と「中落ちをそぎ取ることを『ねぎる』『ねぎ取る』」と呼んだからという説があると言われる。この時、「ねぎ取る」を語源とする論者からすればネギトロに「葱」は必須でなく、葱を必須だとする「葱+トロ」派と実践的に対立することがあり得る。この興味深い事実を指摘し、本稿を終えることとする。

繰り返すが、本稿は言葉の正しい語源を知るべきだといった主張をしているのでは無い。言葉に対する印象は使い手によって相当に異なっており、その事実そのものを指摘したかったのと、そのことによって生じることを考えてみたかったのである。

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