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懐かしい未来で、新しいブレードランナーは作られなければならない

『ブレードランナー』は1982年の映画、それから35年後に、『ブレードランナー2049』が公開された。
『ブレードランナー』は2019年11月のロスアンジェルスが舞台、『ブレードランナー2049』はそれから30年後の2049年6月のロスアンジェルスからカルフォルニア郊外、ラスベガスが舞台である。

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どちらも傑作であり、私は、後者をマイ・ベスト映画にしている。
前者は『フランケンシュタイン』であり、後者は『ピノキオ』を下敷きにしている。どちらも、SFめいた、人造の生命体の話である。
『ブレードランナー』は未来の御伽噺、或いは、過ぎ去った時代の御伽噺であり、何れにせよ、人造人間レプリカントの魂を描いている。

基本的に、ここからは普通にネタバレで書きます。

物語は、過度に語ることはない。ブレードランナー特捜班、逃走したレプリカントを狩る『殺し屋』であるデッカード、そして、同族殺しを運命づけられたKの物語。誇れる仕事ではなく、人間(或いはネクサス7)のデッカードは仕事に嫌気が差しており、Kは全ての人間から蔑まされて、同族にも嫌悪され、そして、AIの少女(女性を模したAI)に癒やしを求めているだけの日々を送っている。

作られた命には魂はない。産まれてきたものにしか、魂は宿らない。

これは、『ブレードランナー2049』に出てくる人間の戯言であるが、Kはそれを信じていて、全てに諦めている。そして、ある日自分がいなくなってしまった、産まれてきた運命の男の子である、そういう記憶と物証の出現により、彼は夢を見てしまう。僕は、人間かもしれない。本当には、お父さんとお母さんに愛されて産まれてきたのかもしれない。

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前作のレプリカントの親玉、ロイ・バッティは明晰な頭脳と頑健な肉体を持った美しい4歳の少年だった。2019年当時、レプリカントは寿命が授けられていた。自我が生まれる4年で死ぬ、安全装置である。
ロイ・バッティは生みの親である天才タイレル博士に延命の直談判に赴くが、不可能だと諭されて、絶望に堕ちる。
そして、その30年後、同じレプリカントであるKは、父親だと思っていたデッカードは父ではなく、運命の子供でもなく、その他大勢のデコイのレプリカントで過ぎないことを知り、絶望に堕ちる。

Kもロイも、どちらも人生の当てが外れる。そして、どちらも少年である。頭脳は大人、身体も大人、でも、魂が子供である。
作られてきたものには魂がない、然し、彼等は、どちらも最終的には命に手を伸ばす、利己的ではなく、利他的に。滅私の心で。

Kにせよ、ロイにせよ、いずれも、他人のために(しかも毎回デッカードのためなので、デッカードはクソ野郎である)、特にKは、本当に人のために死ねるのである。
それは、彼が自暴自棄になったからではない。彼が少年の魂を持っているからである。同時に、ロイもまた子供であるからである。
彼等がどちらも、まだ愛を抱えているからであり、愛を求めているからである。
愛じゃよ、ハリー、愛じゃ。とはアルバス・ダンブルドアの言葉だが、幼心はいつでも愛を求めているからこそ、お父さんやお母さん、友達のために、愛を捧げることができるのである。

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『ブレードランナー2049』には、ラヴという美しいレプリカントが登場し、彼女もまた寵愛を受けながらも、引き裂かれている。本当には愛されていないから、№1にならなければ、御父様であるウォレス博士に愛されないから。ウォレスは彼女を最上の天使と呼び、彼女はその名に恥じないように汚れ仕事も請け負う。

彼女もまた子供であり、本当には幼心のままである。レプリカントは皆子供たちである。

『ブレードランナー』は雨の摩天楼、ネオンサインの溢れるサイバーパンクを描き金字塔になったが、雨は監督リドリー・スコットの母国英国の倫敦である。
そして、『ブレードランナー2049』の雪の降る町並みは、監督ドゥニ・ヴィルヌーヴの母国カナダである。そして、更にロシア、乃至はソビエト連邦の全体主義的なテイスト、タルコフスキーを意識した演出は、まさにドゥニ・ヴィルヌーヴのオリジナルであり、これが凡百の監督と異なるところで、安易な雨の降るサイバーパンクのレプリカントに徹しなかった。それが吉と出たわけだが、然し、そのコアは、ヴィルヌーヴが今作は少年の物語であることを理解しており、よりそれが先鋭化した(脚本の初稿は詩だったとハンプトン・ファンチャーは語っている)『2049』において、それに童話のような象徴性を持たせるという演出を見事にしてみせたことで、今作は傑作へと昇華された。

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そして、『ブレードランナー2099』である。
これはリドリー・スコットが総指揮を撮るアマゾンプライムのドラマシリーズだが、私はあまり過度な期待はしていない。

『ブレードランナー』の続編は作られるべきだ。けれども、今ではないはずである。
それは、また四半世紀から半世紀隔てた、新しい子どもたちの世界で語られるべきである。
今も、京都の町並みで古いモダンなビルを見ると、私はそこから『ブレードランナー』の香りを嗅ぐことが出来る。あの、ロイ・バッティが雨の中で絶命を果たした、ブラッドベリビルディング、あのような、懐かしい匂いを持つビル。
或いは、近年乱立しているモダンなホテルなどは、シャープで、『2049』のような香りがしている。
どれも、時代性がフィルムに焼き付けられている。

それぞれの時代の子供達が、それぞれの世界で滅んでいくビルや都市を舞台に魂を歌うのである。
それであるのならば……。2049年、本当に30年近く経ったその時、再び語られるべきである。恐らくは、そのときでもまだ、レプリカントは、人間は、愛を求めているだろうから。


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