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嵐山モンキーパークに行った

先日、嵐山モンキーパークに初めて行ってきた。

嵐山、というのは京都観光地四天王であろう。

北の金閣寺!
東の清水寺!
南の西&東本願寺!(ここは少し強引)


そして、西の嵐山である。久方ぶりの嵐山、コロナ禍では閑古鳥が鳴いていた嵐山。

2月だというのに凄まじい人である。そして、大変に外国の方も多い。皆笑顔である。とても幸福な気分。私は、売店で湯葉まんなる中華まんを買って、それを食べた。おいしーい。けれど450円もする。観光地価格である。高いのだ。美味いけど、高い。恐らく、この湯葉まんがコンビニで220円くらいで売っていたら絶対に購入しないであろう。

まぁ、お祭りやお出かけのときは財布が緩むのである。どうでもいい話だが、クレジットカードでの購入というのも、現金とは違ってどうも緩んでしまう。壱萬円は大金ではあるが、クレジットカードなら支払うハードルが低い。これが罠である。ネットでは2,000円とか3,000円とかの本が安く感じる。然し、書店では1,000円を超える本、2,000円超えてくるとまぁ悩むもので、2,000円の現金が財布から旅立つと、もう心もとなく、自分を鞭でコノ!コノ!と痛めつけたくなりつつも、喉元すぎれば何とやら、また散財に励むバカがここにいる。

さて、嵐山はあまりにも有名であり、渡月橋から観る景色はやはり絶景ではあるが、ぶっちゃけると、もっといい景色や観光地は京都には山程あると思う。住んでいればわかるものだ。然し、観光で来るからにはやはり目玉!感動!美!美!美!がないとだめである。なので、嵐山。
嵐山という名前がいいやね。ついつい言いたくなるもの。あらしやま。

まぁ、嵐山は文学で言うところの川端康成や谷崎潤一郎みたいなもので、一応押さえておくか!ってなもんである。私は小説家としては(作家/藝術家の区分とは違い、あくまでも小説を書く人としてに限るが)、この二人が好きだが、まぁ二人とも、ザ・観光文学って感じで、非常に立派なものを拵える。「えー、右手に見えますのがかの有名な若草山でレズビアンな『卍』でございますー。」的な。

嵐山の楽しさは、この観光文学的な感じである。然し、なんだかんだ、京都の貴族たちの別荘地、大変に風雅な光景は素晴らしいものがある。

そして、肝心の嵐山モンキーパークであるが、私はこのモンキーパークを、野生のお猿さんがいる動物園程度に考えていた。
然し、それは私の完全な思い違いであり、受付には山頂まで20分、と書かれている。
え……?

然し、私は20分くらいならなんとかなるやろ、と甘い気持ちで家族を先導し、歩き始めたのだが、既に登山開始5分で、私の足は悲鳴を上げていた。私は弱いのだ、こんな登山、聞いてないよ!そして、猿が一切いない。てっきり、門を潜ると猿たちが天狗の如く木々の間を飛び交う光景を夢想していたのだが、そのようなことは一切なく、高所恐怖症である私に死を想起させる道行きを強行させる、誠に恐ろしい場所だったのだ。

あそこで終わりだろ、あそこで到着だろ、何度この期待が裏切られたかわからない。私は嵐山モンキーパークに対しての呪詛の言葉を呟きながら、然し下る選択肢はないので、ひいこらと登っていった。すれ違いざま降りてくるのは外国の方が多く、ああ、コロナも遠くなりにけり、って感じである。
そして、ついに到着した頂上(的な場所)は、標高160mという開けた場所で、ここにはお猿さんがたくさんいて、観光客の餌を狙っていた。お猿さんに会えた感動などというものはなく、ただただ目的地へと到達したこと、そしてそんなにも頑張った自分を最大級に褒め称えたい衝動に駆られながら、眼下の街にいる下々の者たちを睥睨しながら、私こそが天狗である、えっへんとばかりに置いてあったバナナのオブジェへと腰を下ろす。

お猿さんたちは、力のある者が力のないものから餌をもらう権利を奪う、弱肉強食の世界を繰り広げていて、ああ、猿じゃなくて良かったなぁ、と思うことしきり。然し、所詮人間も猿であり、たくさんのボス猿たちがほうぼうで威張っているわけで、まだ猿の方が万倍も健康的である。
結局人間は喋れるだけの猿であり、文章を書ける猿である。けれども、今この猿が文章を書けたのならば、人間よりも本質的な文章を書けるのかもしれない。

まぁ、登山である。そして、スタッフの方はとても丁寧だ。山頂の小屋では猿に餌を上げることができるし、猿の猿生の悲喜交交の縮図も観られるので、おすすめです。


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