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魔術的な時間 マジカルエミ/蝉時雨

私は、私の産まれた時代のものを愛している。
或いは、その付近のもの、その辺りをふらふらと漂うそれらを。

先日、私は以前より聴くたびに、何故か郷愁を感じていた『魔法のスターマジカルエミ』のエンディング曲、『あなただけDreaming』を聴きながら、その理由は何のだろうかと、思いを巡らせていた。

それは、昨年の神戸に出かけていた時にも車中で聞いていて、その時も夜景を見ながら似たような不可解な感情に襲われたせいもあったかもしれない。

『マジカルエミ』は1985年6月7日から放送された、スタジオぴえろの魔法少女もので、その前には一番人気、ウルトラに人気である『魔法の天使クリィミーマミ』、『魔法の妖精ペルシャ』(ペルシャ♪ペルシャ♪の曲がいいね)などが放送されており、このマジカルエミが3作目、4作目の『魔法のアイドルパステルユーミ』からしばらくシリーズは休止し、5作目の『魔法のステージファンシーララ』で一応の完結をみる。

クリィミーマミが最強に人気。最強にかわいいとはこのことなり。
髪の毛の色がかわいいよね〜。ペルシャは声がカツオなんだよね。


今作では、主人公である11歳の香月舞が16歳のマジカルエミに変身する。

マジカルエミは恋愛はほぼない。恋を恋と気づかない感情のまま終わる作品だ。


舞はマジック劇団マジカラットという、マジックショーを生業にしている祖父母の手伝いをしている。ある日、彼女は鏡の妖精であるトポに出会い、マジカルエミに変身することができるようになり、魔法を使い、手品を魅せ、マジカラットの人たちと活躍し、テレビでもスターになる。
無論、魔法少女もののお約束どおり、エミが舞であることは誰も識らない。

今作は、私は観たことがなく、然し、なぜか懐かしい思いを抱いてしまう作品で、この機会に全てを鑑賞してみた。

私はちょうど、『魔法のスター マジカルエミ』が放送開始された1週間以内に産まれた。つまり、私と『マジカルエミ』は同い年であり、共に双子座である。
まぁ、それはどうでもいいとして、だから、どこかで、寝物語に、私はあの、『あなただけDreaming』を聴いていたのかもしれない。

その、『魔法のスター マジカルエミ』という作品が持つ、この郷愁は、私が1980年代後半、乃至は1990年代前半に抱く、幼い頃への憧憬と同質のものだと、私は昨夏、神戸の布引ハーブ園のロープウェイに乗り、神戸の街を見下ろしながら気付いたのである。

『マジカルエミ』はTVシリーズで全38話制作されているが、そこでは大事件は何も起こらない。
感情の機微が描かれた、不思議なアニメである。敵もいないし、大きな目的も(最終的には少しはあるが)ない。何かトラブルが起きて、まぁそれが淡々と解決されたり、しなかったり。
少女の頃の夢想が、具体化されたのが魔法少女のようにも見える。つまりは、舞の少女期の終わりが見せる夢である。

然し、マジカルエミは確かに存在している。その証左に、OVAオリジナルヴィデオアニメ『マジカルエミ 蝉時雨』が存在している。

『蝉時雨』はこのDVD-BOX1に収録されている。

そもそも、TVシリーズは舞が自分の力でマジックを成功させるために、その力を手放す話であり、まぁ、『ロード・オブ・ザ・リング』における指輪を火口に捨てるようなもので、、を手放すのは大変な葛藤がある。
然し、何事も自分の力で解決する、成功させる方が、喜びも一潮なのは間違いない。そして、権力や力を手放す心こそが聖であり一番の強さなのだが、これは一番むずかしい。

そして、『蝉時雨』は魔法を捨てた舞(それも大学生くらいの大人になっている)が、在りし日の、自分が子供だった頃を思い返しているシーンから始まる。

私は、この作品を観た際、衝撃を受けた。まだまだ、世界には識られざる名作(私の中でね)があるものだと感じた。傑作である。
以前書いた10本の好きな作品、そのうちの5本に入れても差し支えない。
(然し、単品で見た場合はその限りではない、アニメシリーズの宿命を背負っている)

『蝉時雨』は50分程度のOVAで、そのうちの10分程は、TVシリーズの総集編である。このあたりは、舞がマジカルエミになり、その魔法の力を返すまでのマジカル・ストーリーである(本人がそう言っている……)。
で、残りの40分だが、その時間に恐ろしいほどに煌めいたひと夏の思い出、つまりはただの日常を濃密に描いていて、そこには、俗の典型であるストーリーというものは介在しない。
TVシリーズの12話〜13話くらいの頃のエピソードに沿って作られており、会話が会話として成立してはいるのだが、それは物語を推進させるエンジンではなく、その瞬間瞬間を存在させるために作られている、いや、交わされている。

物語は写真から始まる。
マジカルエミにならないと、手品が苦手な舞


例えば、貴方の今日の一日はどうだっただろうか。劇的なことでもなければ、ありふれた時間、仕事の昼休憩に見た枯れた並木や、静かなオフィス働く貴方の耳に聞こえる同僚の囁き、笑い声、バス停から見えた夜半の月、そのような、とりとめもないことが描かれている。それが、一つの空間を生成している。
あの夏の一日、マジカルエミであった夏の日、それを大人になった舞が、窓外から聞こえる電車の音や街の喧騒を聴きながら、アルバムを捲りながら浸っている、ある一葉の写真に目を留めて、彼女は桃色の唇から白い歯をこぼして、あの日々、『彼ら』を回想する。

そしてラスト、再びアルバムを捲る舞に戻ると、彼女はそっとアルバムを閉じて、窓外を見つめる。ここで画面は静止し、『あなただけDreaming』のロングバージョンが流れ出す。
このスタッフロールでは、一切画面が動かない。遊びなどはない。歌が流れ出して、30秒ほど経ち、ようやくクレジットが流れ出す。ゆっくり、ゆっくりと。作中の時間間隔に呼応したかのように。そして、その光景はこれはまた一つの郷愁を観るものの胸に突き刺す。

『蝉時雨』において、物語は溶解し、キャラクターは生を纏った。

監督の安濃高志はポエジイを重視しており、そのポエジイはキャラクターに依存している。花鳥風月なるもの全てはキャラクターの心象であり、物語という曖昧なもの、客観的なものは取り払われて、主観に寄り添っていく。
安濃監督はそもそも、キャラクターは物語に奉仕するものではない、というスタンスだとインタビューで語っている。つまり、人物が立ったとき、そこに物語が立ち現れるのであって、物語は先にこない、あくまでもキャラクターが先導するのだ。そのため、ロジカルに組み立てる話は出来ないと、それならば破綻、とまではいかなくても、何も起きなくてもいい、という感覚なのである。キャラクターの性格を曲げてまで物語を語ることはできないという創作手段である。

これは、『HUNTERXHUNTER』の冨樫義博氏も作中人物同士を頭の中で話し合わせて、どのような行動を取るのか、違和感のある行動・展開にはならないようにしていると語っていた。
無論、そこには人により物語の創作方法も多様にあるだろうが、宮崎駿もまた、絵コンテを描きながら、物語の結末を最後まで苦心しながら制作を進めていくので、キャラクターの生理、自分の感覚やその場の思いを大切にしているのかもしれない。

安濃高志監督は『傷だらけの天使』に影響を受けていると書いていたが、なるほど『傷だらけの天使』も、ただ、おさむあきらのコンビが私の大好きな岸田森と岸田今日子の命令?で仕事をしたりしなかったり、その場の空気感を大切にした作品で、これもある種の日常系だろう。

この朝食の食べ方は最高だ。朝食は『パルプ・フィクション』、『ハウルの動く城』、『傷だらけの天使』で決まり!

『傷だらけの天使』は亨の死で幕を閉じるが、『マジカルエミ』では舞は魔法を返す。

何れにせよ、詩はその折に立ち現れるわけで、あらかじめ決められていた物語には、それはなかなか顔を見せない。

このOVAは、香月舞の郷愁の物語だが、この作品ははじめ、大人になった舞の部屋にウエディングドレスを置いておくという案があったという。つまりは、20歳前後の、大人の女性になった舞が見る郷愁だ。それだと少し限定されすぎるということで消えたが、取って正解だろう。普遍性を獲得した。

あなただけDreamingとは、あの夏の舞であり、郷愁であり、夢を見ている舞そのものである。夢は、本当には大人にしか視ることが出来ない。何故ならば、子供時代は夢そのものであり、それは本人たちには感知し得ないことだからだ。

然し、私は郷愁を感じるとき、それは何も『あなただけDreaming』を聴いているときだけではない、私は、その時代から暫くの時を流れていた曲を聴くと、天上へ連れて行かれるような心地になることがある。
天上とは、この上のないということであり、天国である、ということだが、天国とは天使であった子供時代のことである。音楽とは、天国へと連れて行く効能があるということだろうか。

例えば私は、1989年ピルスナーのCM曲で使用されていた、ナラ・レオンの『あの日からサウダージ』など聴くと、これもまた天上へと連れて行かれそうになる。星屑がキラキラしたような、古い旧世紀の光景が目に浮かぶ。

それが何故なのか、その明確な答えはない。ただ、ノスタルジアを感じるとき、それは幼かった自分がいた環境、時代のものであることが多い。音楽はそれを与えてくれる。
匂いと音は一瞬にして過去へと自分を連れ去るが(面白いのは、文章ではあまりノスタルジアを感じないことだ、ただ、本質的な文章はその一文に触れたとき、思わず天を仰いで本を閉じ、そして祈りたくなる。感謝したくなるものだ)、然し、幼い頃の自分もまた、どうしてか同じようなものを見聞きし、匂いを嗅いだとき、郷愁に囚われたことがある。つまりは、生まれる前の頃の思い出である。

「産まれた頃のまんまだからさ。」とは、『ハウルの動く城』における、火の悪魔カルシファーの台詞である。

美少年時代、美少女時代、誰にでもあった時代。


ハウルは、初登場時には幼い頃に垣間見たソフィーとの思い出を識っている。過去と未来とがあべこべになっている。これはタイムパラドクス的な感覚ではあるが、こういった経験は、所謂デジャヴと同質の、以前視たかもしれない未来、懐かしい未来であり今、というもので、この感覚は誰しもが抱いたことがあるだろう。この感覚というものは、幼い頃の私もまた感じたことがあるし、大人になって、出逢った景色や人が懐かしいのは、あのハウルほどにはっきりと見ていないくても、何処かで出逢っていたその思い出が、ふいに立ち上がるせいかもしれないのだ。

さて、インターネット上でよく目にするチャーチルの言葉の引用ー、『戦争から煌めきと魔術的な美がついに奪われてしまった』、とは、1914年〜1918年の第一次世界大戦における大殺戮、牧歌的な戦争の終わり、幼年期の終わりめいたことを指すものだが、然し、ある種、大人になるとはこのたぐいと同様であり、煌めきと魔術的な美に包まれた時間である幼年時代を神(時間)奪われてしまったことを指す。

時間は超えることは出来ず、時間は殺すことも出来ないし、時間を変えることも、時間を戻すことも出来ない。時間は神であり、子供を大人へと変えて、初めに美しいものを与えて、そうして死まで運んでいくのだ。

つまりは、大人である私も、最早その時間はとうの昔に奪われてしまっていて、だからこそ郷愁が輝くわけだが、では、子供の頃に感じたあの郷愁は何なのだろうか。魔術的な美の中にいたはずなのに、懐かしいのは。それは、先述したように、未来の自分とどこかで会っている(それはオカルト的な意味ではなく)、これから会っていくことの、ハウル的なあべこべが心理の中で展開しているからであって、過去も未来も、結局は思い出であり、その思い出を想起させられているからだろう。

『蝉時雨』における舞もまた、無邪気なフェアリー時代、つまりは少女時代を思い出して、ふっと微笑む。その瞬間、もう手放したはずの魔法の鏡であるハートミラーがあの時の音を伴って、刹那輝くのである。
魔法少女だった、煌めきと魔術的な美に包まれていた時代、その時代を思い出す舞は郷愁の只中にいるが、それを客観として我々が観ること、その上で感じるシンパシーこそが、郷愁そのものであって、郷愁とは実際にそれを感じている今現在だけの恍惚でしか無い。然し、それは結句、失われた時を求めるプルーストが感じたマドレーヌの味や匂いでしかないことも然りだ。
しこうして私達は、入れ子構造になった郷愁を大人になった舞を通して見ているのだ。

神戸の北野に並ぶ美しい洋館を子供の手を引きながら歩いていたとき、異人館の屋根が連なるのが見え、はっと思い当たる。ここはどこかで見たことがある、いや、これから見ることになる……。
と、いうのもまた、『マジカルエミ』のエンディングに登場する、彼女の住む街にある館は童話のお屋敷のように、星空の下に佇んでいて、そうだ、やはり舞はあの頃には童話の世界にいたのだ。

童話のシャトーのような洋館

そして、『蝉時雨』における舞の部屋は、どこか現実の、寂しい空気が漂い、煌めきと魔術的な美が奪われてしまった場所に思えるのだ。

舞の部屋、音からでしか、時間は察することは出来ない。静かな夕べか。


私は、私の産まれた時代のものを愛している。
或いは、その付近のもの、その辺りをふらふらと漂うそれらを。


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