THE DESIRE AND PURSUIT OF THE WHOLE 邦訳版⑨ 本編⑦ 第7章 フレデリック・ロルフ著 雪雪 訳
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『アダムとイヴのヴェニス』
第7章
そのAlbergoがヴェニスのBellavistaという名で呼ばれるのは、正面の窓から向かって、右手にはサン・マルコ広場の最も美しい景観があり、そのサン・マルコ広場の正面を左手に(あなたの正面から見て)はCampanileに広場の円柱があり、サン・マルコ盆地と、遠くにサンゾルツィ島とギリシャのスピナロンガ島が望めた。
クラッブは去年の夏、彼の鼓膜と精神に苦痛を与えたギリシャ語の不自由な教授と一緒にここにやって来たのだった。クラッブは荷物を置いて、心を癒やすための海洋冒険へとでかけた。
初めに彼の顔に向かって羽ばたいてきたのは、地獄めく熱気だった。
現代的な心地よさ(と、宣伝されていたもの)は(ヴェネチア人の宿の主人曰く)、華氏80度での乾燥、息苦しさ、暑さのことだった。それは、温水パイプと密閉された窓からもたらされていた。
ホテルには誰もいなかった。しかし、それでも彼はその古い部屋を使うことが出来なかった。その階には、ヴェニスでは有名な紳士とその妻、彼らの赤ん坊とbonneが住んでいたからだ。クラッブはいつも、何かと人々の機嫌を損ねていた。彼が最上階の部屋を望んでいて、それは廊下の奥の両側に一つずつあった。それぞれの部屋には窓が2つあり、そのテラスからは威風堂々たる劇的な眺めが望めた。
彼は閉口した。というのも、その部屋だけが、唯一ドイツ人に歩かれることもなく、窓際での温度調節を自分でできたからだ。
「この部屋と同じレベルの部屋はありますか?もしくは、それに近い眺望のところは?」
彼はそう年甲斐もなく言ってしまった。しかし、その部屋は冬季期間中は暖房は使われていなかった。
「神のご加護のために、私をそこへすぐに連れて行ってください。」
クラッブは喘ぎながら言った。汗をかき、頭痛がして、熱くなった鉄パイプの臭いが鼻孔を掠めた。
そこはもっと小さな部屋だった。26号室は最上階にあり、横階段で上ったところにあった。大きな窓が二つあり、テラスがその部屋に隣接していた。踊り場には小さな寝室が二つあって、そのうちの一つは、彼の使用人に相応しかった。彼にはこの部屋は掘り出し物だと思えた。16日間だけ完璧だった。そして現在に至る。
一週間後、彼は計画を考え直すことになる。ふくよかで小さな経営者は、彼が風邪をひくのではないかと心配した。
「何を馬鹿なことを。」
クラッブは怒った。
「一日中外にいて、部屋を使うのは寝る時だけです。私達は窓の横で眠っています。ですから、きっかり毎晩20時に毛布を一人につき4枚ずつ、それぞれのベッドに湯たんぽを2本ずつ用意してください。それから、肺炎の話はもう聞きたくありません。」
そう、彼は話を切った。
階下ではいくつかの変化が起きていた。そこには秘書はいなかった。大きなダイニングルームの代わりに小さなダイニングルームが使われていた。鳩胸のお喋りなウェイターはフィレンツェに出征していた。だからか、代わりの世話役は鼻息も荒かった。ポルデノーネ出身の熱心で小さなピエロは、運動神経抜群であろう体型をしていて、きらきら輝く茶色の瞳をしたリスのようで、彼がセカンドウェイターだった。
クラッブは彼の使用人を二階に残してきたこと、まだ情報を伝えていないことを思い出した。彼は駆け上がった。少年は踊り場の窓際で、ファッキーノの二人組が二つの部屋に入るための準備をしているのを観察していた。二人の間に言葉は交わされていなかった。
一日が経過しただけで、厳かで禁断な空気をジルドは纏っていた。ファッキーノたちは、自分たちが塵芥の虫でしかないことを自覚しながら働いていた。
クラッブは少年に、部屋の準備ができたら荷物を解いて、それからホールに来るようにと言った。
下では新入りのウェイターが注文を待っていた。とても美しい男だった。青い目をした、殊の外色白の、清潔そうな男だった。がっしりとした体格で、動きは素早く器用だった。クラッブは、彼がいつもどんな仕事でも器用にこなすことに感心していた。彼は一度、口の中を血だらけにしながら、思いがけず奥歯を抜いた歯科医に対して愛想よく唾を吐きかけたことがある。
「 英語は話せますか?」
クラッブは尋ねた。
「ええ。」
「貴方はドイツ人ですか?」
「いいえ、旦那さん、僕はヴェネチア人です。ただ、ドイツ人みたいな名前ですけど。アルトゥーロ・アドルフ・アインシュタインです。」
「アインシュタイン。」
アインシュタインは確かにドイツ人の名前だ。
「ただ、父と祖父はヴェネツィア出身なんです。」
「なるほど、先祖はドイツ人だろうが、貴方はヴェネチア人だ。貴方のことを何とお呼びすればよろしいでしょうか?」
「お好きなように、旦那さん。ここではアドルフと呼ばれています。」
「では、アーサーとお呼びさせて頂きます。とても流暢な英語ですね。」
「はは、そうだとありがたいんですが……。1年間ほど、ロンドンのホルボム・レストランにもいたんです。」
「それは素晴らしい。では、貴方と小さなピエロくん、私と使用人のことをお願いしますね。あの子は親を亡くした孤児なんです。あの子の両親は地震で逝ってしまった。彼はとてもショックを受けていて、私以外の誰とも話すことができないんです。だから、窓際のテーブルを用意して、私と彼を、日向の猫のように扱ってくれると有り難い。」
「わかりました。そのように務めさせて頂きます。」
「それと、このホテルには今何人くらいが泊まっているのですか?」
「まずは貴方、それからウォーデンというプロテスタントの英国紳士とその奥方だけです。そうだ。ここにはイギリス人の本物の神父がいますよ。今日、ローマから来られました。貴方自身もーですが。実に有り難いことです。貴方のために祈りましょう。」
ジルドが降りてきた。
ニコラスは彼を市場のバルバロの小間物屋へと衣装を買いに急がせた。ジェラーチェで掻き集めたものよりも裁断も品質も上等な、青いサージのリーファージャケットとズボンの2着、6個の白いウール付きのハイカラーガーンジーシャツ、そして充分な数の下着、御洒落なハンカチ。それから、無地の化粧箱。これらは、少年を(彼自身がそうであったように)気取らない紳士に見せた。少年は、ムフティーを着た商船の下士官のようだった。
昼食ではダイニングルームを独占した。それ以外は、経営者とその妻、子供たち、看護師に従兄弟にと、同性愛者の集まりのような綺羅びやかな賑やかさだった。ふくよかで小さなエバリストは、クラッブに古い部屋を与えたことを、再び謝ってきた。
「でも、貴方がいつ帰るのかわからないし、貴方が溺れてしまうかもって考えちゃったんです。プロテスタントの英国紳士はこの忌々しい冬の季節に泊まってくれるなんて、こちらには最高の掘り出しものでしたし。」
クラッブにはどうでもいい話だった。クラッブは、彼の大家と親しくなかったのだ。彼は大家の、その威圧的な鼻にかかった声が嫌いだった。その活気に満ちた主張は、彼が夕方によく座っていたホール近くのオフィスの電話を狂わせるほどだった。
パルッキエーロはいつも仕事と好意のお返しとして、彼にいつも礼儀正しい親切をくれる素晴らしい人物だった。もちろん、彼のオフィスには、 聖ヨセフのカラー像が置かれていた。
昼食後、その脚ですぐに、2人はサンザニポロにあるグラッシの舟工場にパッパリンに乗って向かった。パッパリンとは、ゴンドラよりも小さな舟で、長さはゴンドラの11メートルに対して6~8メートルほどで、前方と後方に曲がりくねった鉄のアームがある。船底はゴンドラのように平らで、同じように奇妙だが、しかし計算し尽くされたカーブを奥に向かって描いている。
左側に高く構えるゴンドリエーレの重量と釣り合うように、右側に同じ重さの余分なものを置いているわけだ。舳先は嘴のように尖り、船尾はその名の由来となったメルルーサの尾のようにピンと広がって傾いている。クラッブのパッパリンはとても細長かった。
この舟は、行楽用として1人の乗客と三人の漕手を乗せることができる。彼はいつもオールを3本、フォルコラを3つ持って行った。 水上では何が起こるかわからないからだ、と彼は言う。スコールが降って、停泊地で泥に突き刺さったオールが引き裂かれてしまうこともあった。もし予備のオールがなければ、馬鹿みたいに漂流していたかもしれない。
彼はこのスリムな船の外観に満足していた。黒く、スマート、上品でいて、スピードが約束されていた。
グラッシはその船体の外側を葺き替えて、内側を塗った。そしてそれに適した新しいテカテカの白い床と、新しいオールと新しいオイルを充分に染み込ませたフォルコラを取り付けていた。そこには、ゴワゴワした絨毯も、油ぎった真鍮細工も、埃まみれのクッションも、ヴェネチア人最愛の葬式用の棺もなかった。 ただ、使われているのか使われていないのかわからない、とても俗っぽい肘掛け椅子が乱雑に置かれていた。
船首の高い位置には、輝かしい薔薇と空洞になったオーブが太い棒につけられており、赤い絹と金で飾られたロイヤル・ブシンドルブ・ローイング・クラブのミニチュアのvexillaが掲げられていた。それ以外、舟は裸で、使うために造られ、スピードを出すために全ては剥ぎ取られていた。
ジルドは、船大工たちがそれを臭いを放つ運河に転がし、降ろしていくのを観察していた。オスペダル・シヴィーレのあるメンディカンティ運河は、一年中、潮の満ち引きに関係なく、ヴェニスで最も悪臭を放っている。
パッパリンは彼のの意に適ったもののように、その目を輝かせた。冬の午後は明るく、そして、ヴェネチアの冬の午後は、いつもそうであるように、晴れ晴れとしていた。
「船首で漕ごう。サンゾンドの向こう側のラグーンに行きましょうか。」
ニコラスは舳先のオールを取りながら言った。
小さな運河を曲がりくねってリオ・デッラ・カノニカに入り、ためいき橋の下をくぐれば、そう遠くはなかった。ためいき橋を潜り、サン・マルコ盆地に出た。
実際に衝突することはなかった。天使が見えた。その天使の飾られた壁の穴猿の悪魔が閂で塞いでいたのだった。
しかしニコラスは、ジルドがこの街の入り組んだ場所を舟をくねらせながら進んだときから7年の月日が経ったことで、その技術はもう失われていることを思い出し、今回の試練は厳しいと感じた。
だけれども、君ならできる、と言って、君に対して無関心でも、警告がなくても、決して有利な状況でもなくても、君を信じて、君を信頼し、そして君の目論見が外れたとしても、君を褒めてあげて、君に寛大な手当を与える。これが私の親愛なるパトロンのやり方だった。
「旦那様。」
とジルドは言った。
「カラブリアの大海原の後に、こんなに狭い満員の溝で漕ぐのは勝手が大違いです。でも、明日はもっとうまくやれるでしょうし、来週はもっとうまくやってみせます。」
「ええ、上手くいくはずですよ。」
とニコラスが答えた。
二人ともオールに飛びついた。そして、パッパリンはジャベリンのようにシュッシュと音を立てて盆地を横切り、そこでは蒸気船がカナラッツォからリド島へと行き来し、オーストリアの遊覧船は深さ7〜8メートルほどの深さの場所に停泊している。
サンゾルツィ島とスピナロンガ島のあいだで、ニコラスは、自分が今、最も力強く、最も巧みなゴンドリエーレの前で漕いでいることを理解した。
ラ・グラツィアの小島にある州立の肺結核病院へと続くラグーンの運河を上っていくと、小さなsandoloが一隻、スピナロンガの南にある横断運河からやってきた。
猿の悪魔のように歪な少年が、船首で必死になって漕いでいた。病人がクッションに包まって寝ている。そして、舳先では四角張った袖口のエプロンに、伸び切ってダラダラとしたヘッドギアをしているダンボールのファッションモデルのような看護婦が漕いでいた。ニコラスはそこに面白そうな匂いを嗅ぎつけた。そして、その野外劇を通過させてあげようと、スピードを落とした。
ラ・グラツィアの運河を上っていくと、看護婦は斑点のある赤と金の旗を見つけた。彼女は、彼女の肩越しの猿に向かって話しかけた。
「アンジェロ。」
「奥さん!」
その悪魔は叫んだ。
「あいつはヴェネチア人に見せかけようとした狂ったイギリス人だな。」
ニコラスは十字水路を示す五重の杭のところで止まると、そこにロープを縛りつけた。椅子を回転させて、船首の方に顔を向けると、そこにジルドが座ろうとしていた。
「あの失われた魂、あれは何でしょうか?」
「Mi no so miga。」
とジルドは同時に答えた。
「君はあの悪魔が言ったことを聞いたか?」
「Siorsi。(少し鼻孔をひくつかせながら)。」
「それで?」
「Gnente」
二人ともレーシングでのスパートをかけたように、少し息が上がっていた。ジルドの鮮やかな蒼白は、真珠貝のような美しい薔薇色を帯びていた。彼女の長い緑青の瞳は輝いていた。
彼らがじっと座っていると、ラグーン全体を輝かしい日光の明かりが照らしてゆく。
ニコラスはスピナロンガの何処かに私設診療所があることを思い出した。サンドラが戻ってくると、ニコラスは立ち上がって、看護婦に声をかけた。
「失礼ですが、あなたはイギリス人ですか?」
「そうです、私たちに会いに来てくださいね。」
彼女は舟を漕ぎながらそう言った。
「ええ、ちょうどそのことを提案しようと思っていたんです。ここにあるパッパリンと、ガタイのいいゴンドリエーレの二人、晴れた日の午後に、快く貴方の患者たちを運んでくれるでしょう。そして貴方を災難から守りますよ。」
「ああ、ありがとうございます。あなたは実に素晴らしい人ね。一緒に戻ってお茶でも飲みましょうよ。」
「イギリスの紅茶はお好きですか?」
とニコラスは悪戯っぽくジルドに言った。
「Nossiorno」
と少年は硬くなって答えた。
英国医務院は、ヴェネツィアでは「万国医務院」と呼ばれている。病を患っていないラスカーやドイツ人、その他のダゴ(※侮蔑語)を積極的に受け入れていることを宣伝するためである。
学者ぶった年寄の会計係は彼らを病気の水夫と呼んでいた。
かつては聖エウフェミア・ジュスティニアーニが修道院長を務めたベネディクト会の修道院だった王宮刑務所は、スピナロンガ島のクローチェ川の反対に位置する。そこの井戸の水は、1576年のペストに対して奇跡的な効果があったことが証明されている。かつてはコマロ家の夏の離宮だった歴史的な邸宅である。
一般には「カーザ・デル・パパ」と呼ばれている。というのも、私たちにとっての最も聖なる御方である教皇ピウス第7世が、隣接するサンゾルツィの小島で行われた1800年の素晴らしいコンクラーヴェにて選出された後、ここに滞在したからである。
あの極めて重要な枢機卿会議は、ナポレオンのローマ侵攻からは慌てふためいて逃れた。
歴史上最初で最後になるが、塀に囲まれた扉を開けて、ミントー伯爵の使者であったウィーンの親善大使のイギリス人のロバート・オークリーの入場が許可された。
これは枢機卿ステファノ・ボルジアとサー・ジョン・ヒッピスレーとの交渉に対する高貴な回答であった。
ジョージ3世は、あの悲壮な姿の人物に4,000ポンドの年金を支給するという発表を伝えた。
「偉大なる英国、フランス、アイルランドの第9代国王、信仰の守護者へ。これは神の恩寵であり、人民の意志ではない。」
ヘンリー9世は枢機卿副大臣であり、ヨーク枢機卿公でもあり、英国二代目国王ジェームズ二世の孫、そして、スチュワート家の最後の人である。
ボナパルトの残忍な蛮行により、極度の高齢の際に、その全てを強奪されたのだった。
宗主国から追放されたローマ教皇ピウス7世の訪問について、 万国診療所の古い階段には、大理石の石版に朱金で次のような碑文が刻まれている。
私の知る限りでは、この碑文には、この地上における神の代理人に対して、無宗教的な様式での「威厳」に関しての事柄が刻まれており、その点で、大変に特異なものである。
今から111年前、この家は、緑豊かなスピナロンガ島にある魅力的な小さな別荘だったに違いない。サンマルコ広場から水路で15分もかからない場所だった。今でも、その邸宅から趣のある低床の広々とした部屋、その控えめな漆喰の装飾を思い起こすことができる。その装飾は、現在では切り取られていて、白色顔料によってぼかされてしまっている。清潔さは白である必要はなく、ニスを塗ったダークブラウンの方が、生きるにも死ぬにも限りなく美しく、十分な光を反射し、光沢のある表面には埃がひとつひとつ、ついていた。
けれども、診療所は私的な趣味であり、乗手を喜ばせるものだ。
これは元々はヴェニスに住む在留外国人の委員会によって設立された。そのうちの一人から聞き出したことなのだが、委員会はその後、某パシュ夫人によって、全く完璧に掌握されてしまった。一体、誰が彼女の娯楽のために、金を支払うのだろうか。
彼女は作為的に委員会を沈黙させ、英国の医療技術を追い出そうと、女性の責任者に対しては、彼女の信念における唯一のものを動揺させた。
温厚で愛らしい年配者は、評判を犠牲にしてでも真に慈善的でありたいと熱心に考えていた。
パシュ夫人が笛吹きたちに金を払っているのだから、彼女には曲を決める権利があった。
慈善の心から診療所を維持する者が、その慈善の代償として権力を受け取るべきではないと不平不満を言う者は、鼻であしらわれ、侮辱され、(もし可能であれば)めちゃくちゃにされた。
パシュ夫人は権力を持っていたし、ヴェニスは彼女の洗濯鍋だったのだ。
彼女はスピナロンガ島にも自身の靴を投げつけた。彼女はパラマッツォ・コマロに、2〜3区を追加したのだ。保存されている礼拝堂の祭壇に立ち、三連祭壇画の脇にある小さな窓から見つめていた教皇が使徒的な眼差しを注いだアドリア海の女王の見事なパノラマは消し去られてしまった。
彼女は間違いなく、彼女自身にとっての光に従って行動したのは疑いようもないことだった。残念なのは、それがファージング硬貨であったことだ。
ジルドはパッパリンに残った。
ニコラスは院長の後を追って、屋根の下にある彼女の私室に向かった。彼女は胸当てに勲章のリボンをつけていた。彼女は饒舌だった。口数が多く、相手するのが面倒だった。彼女の言葉は、話に脈絡がなく、矛盾に溢れており、かつ一方的で、Linotype machineの産み出す気の散る音とともに、次から次へ溢れ出て来た。
そして、彼女にはこれが普通だったのだ。クラッブは少しばかりの自分の意見を無理矢理に述べた。彼がイギリス人であり、今はヴェニスに住み、人の役に立つことが好きで、女性が荒っぽい仕事をするのを見るのは好きではないこと、晴れた日の午後には療養者の船を漕いだり、使い走りをしたり、知恵と二本の力強い腕、それからオールと、ヴェニスで最速の舟があれば何でもできるのだと。
「貴方はなんて完璧で素晴らしいのでしょう!」
と婦長はアヒルのようにがなり立てた。
「ああ、私たち、本当に幸運ね。誰も私たちを助けてはくれませんのよ。ああ、私たちは本当に幸運だわ。頼れる男性は、こうやって人を助けてくれるのね。ああ、私たちはかなり!幸運だわ。ねぇ、そうでしょう。絶対に貴方は今からでも患者さんたちに会ってお話をすべきよ。それから、私たちのために何か楽しい催しを用意してくれたら。そうねぇ、手品とか、そうねぇ、ジェスチャーゲーム、ああ、 そうだ、歌を歌ったり、福引とか、そうよ、福引よ!おたのしみ会ね。ほら、あなたの御名前を来客簿に書いてくださらない?私、あなたの御名前を知らないの。ケントのご出身?私はサマセット出身なのよ。ああ、私達、本当にめちゃくちゃ幸運だわ。」
クラッブの装甲は病棟に向かうまでの間に険しく固まった。彼は、自分の衝動が一体何を招いてしまったのだろうと思い始めた。
患者は、腎臓が4分の1しかない技師長、心臓弁膜症の少年のような甘い目と声をした白髪の火夫、婦長が「パパ」と呼んだその人は、右足を失ったバーリ出身の小柄の黒装束の野伏だった。
クラッブは自分のことを、寡黙に育てられたのだとと紹介して、
「ほら、親切な紳士の皆さん、何なりと言って頂けたら、この方は皆さんを素敵なボートに乗せて連れて行ってくれますのよ。さあ、みんなで彼に三拍子を。ヒップ、ヒップ、ヒップ、フーレイ!(※イギリス式の万歳のようなもの。フーレイは応援の際にも使われるフレーフレーの元。ヒップは掛け声)」
そして、彼はすぐにそれをかき消すと、彼のドアの内側からガスが勢いよくアーチを描きながら噴出するように喋り始めた。
「よし、いいですか。私の素晴らしい淑女の皆さん。その類の話を、もうこれ以上は私に聞かせないでくださいね。お礼は不要だし、望んでもいません。実際、貴方が私の奉仕を認めることに対して、貴方がきちんとお約束をしてくださらない限り、私は二度とこの場所には近づきません。なぜかなのか、はどうか気になさらないでください。私のユーモアだと受け取ってください。ですから、すぐに私の条件に同意してくれたら、それで終わりです。これで完璧だ。よろしい。では、それじゃあ、舟と、そして2人のbarcaiuoliー、あの少年たちだ。ああ、彼はハンサムですね。彼らは全員ー。聞いてください。毎日、我々はあの舟を漕ぐつもりです。たくさんの人がいようが、空っぽだろうが、有益だろうが、ただ徒に漕ぐだけだろうが、、漕ぐつもりです。
だからお願いです。ぜひ注文してください。電話して頂いても構いません。Numero Due Quaranta。私は単なる便利屋だということを、貴方方にお伝えしたいのです。それ以外の何者でもないのです。そう覚えておいてください。来週、落ち着き次第、すぐに仕事を始めようと思っています。」
彼はそう叫ぶと、オールをそのフォルコラにぶつけ、一気に漕いだ。
「旦那様、あの女に侮辱されたんですか?」
とジルドが橋の下から飛び出して来て尋ねた。
「私を侮辱?いいや。どうしてです?」
「旦那様、言い訳みたい。私には旦那様が彼女を叱っているようにみえましたもの。」
ニコラスは笑った。
「彼女にキリスト教の教義を教えていただけですよ。」
と、彼はそう言った。
薄暗くなってきたので、二人は家路を急いだ。というのも、パッパリンにはランタンが付いていなかったからだ。それから輝かしい法律に違反することをニコラスは望んではいなかった。二人は急いでズエッカ運河とカナラッツォを横切った。ゴンドラリオ・デル・パラッツォ・レアーレでは不法侵入のゴンドラを見つけた。
そして、王宮の庭の海辺にあるボートクラブに停泊した。チェーンはエール錠で施錠した。ニコラスはその鍵の1つを少年に渡し、もう1つは自分で持った。そして、ジルドを従えてクラブハウスの中に入っていき、クラブの使用人たちがジルドを覚えるように周知させた。櫂を保管する場所や、夜にパッパリンの家具などの調度品をどう片付けるのかを見せてやった。
そこの使用人は、暗く勤勉な小さなmarangonで、櫂をひっきりなしに作ったり直したりしていた。唯一有能な英国人メンバーは物乞いをしていないときは、掃除をするふりをして歩き回っていた。ビリヤード場で肉刺を切ったり、ツギハギのパンタロンの裾を直したりしていた。あるいは、外の庭園には失業者が出没し、口論をしていることもあった。彼らは、クラッブのbarcaiuoliをたくさん見てきたからか、この新しい客に興奮することも、特別な注意を払うこともなかった。
「疲れましたか?」
ニコラスが尋ねると、
ジルドは欠伸を噛み殺した。
「全然です。」
少年は素早く、力強く答えた。
ニコラスが尋ねた。
「21時までは天下御免だ。夕食に行きなさい。もし挨拶したい友人がいるなら行ってくるといいよ。」
「私にとっての友人は世界中にたった一人しかいませんから。その人はここにいます。」
「ハハ……!」
ニコラスは苦々しい表情で言った。
「君の給料の5リラをポケットに入れておきます。キネマトグラフで気でも紛らわせなさい。」
ホテルには煩わしい程に手紙が山積みだった。クラッブは座り込んで一時間、通帳を調べた。彼の計算能力はいつも所在がない。それはいつも悪い方に出て、彼に不利益を与えた。ある事柄に関してはもっと熟考しなければならないし、これらのことには、おそらくは禁欲を持って扱わなければならない。けれども、それを無意識のうちに、齧ったり噛んだりする可能性を持った、心の鳩小屋に仕舞った。
18時頃、ちょうどニコラスが夕食のために着替える前に豚革のポートフォリオに鍵をかけていたとき、ジルドが戻ってきた。
「旦那様。」
少年は言った。
「地震のキネマトグラフを観てきたんですけど、裸の女性が出てくるシーンがありました。それで、私、吐いちゃいました。少し気分が悪いから、祈ったらベッドに行きますね。」
ニコラスは彼の突然の心遣いに敬意を抱いた。なんという恐ろしいほどの偶然だろう。しかし少年は釘のように硬かった。彼の体調不良は表面的なものだった。それはもちろん、旅と新しく出会う景色への疲れで、彼を病気にするには充分だったのだろう。彼の親族を殺した恐怖そのものが、キネマトグラフの陳腐なつぶやきにより蘇ったのだろう。
「君は栄養を摂らないと駄目ですよ。」
「旦那様、お許しを。今は食べられそうにないの。」
「部屋に行きなさい。でも、私が行くまで自分を粗末にしてはいけませんよ。」
ジルドは従った。ニコラスはリスのような目をした小さなピエロを呼び寄せ、スープ、ロールパン、赤ワインをトレーに盛るよう命じた。
「二階へ持っていきます。」
と彼は言った。
トレーを持った彼は暗闇の中でジルドを見つけた。けれども、ドアの電灯のスイッチがわからなかった。料理は化粧台の上に置いておくとニコラスは説明した。
「お腹が空いたら食べなさい。」
続けてー
「そして眠って、忘れることです。おやすみ。」
「旦那様、こんなにも私を喜ばせてくれるの?千のありがとうをあなたに。おやすみなさい。旦那様。」
クラッブはドアを閉めながら、小さなピエロに言った。
「両親が亡くなった地震のキネマトグラフで、裸の女性のスクラップを見たからだ。あの子は病気なんですよ。」
「なんてことだ。それは無理もないですね。」
運動神経抜群のウェイターは答えた。
「私自身、昨日サンマルコのキネマトグラフでそれらを観たんですよ。あれは恥ずべき代物ですよ。女性たちはそれを観て泣いていましたからね。そして私は、それを抑え込むのに自治体が関与したとも聞きました。」
「さて、私は夕食の後、すぐに行かないといけないんです。」
とクラッブは言った。しかし、結局、彼は行くことはなかった。
本を手に取ると、彼は一人で食事を取った。窓際のテーブルでむしゃむしゃと食事をしながら本を読んだ。部屋には他に、ドアの端に客が一人いるだけだった。ニコラスの目に、その来客は鷹揚な印象を与えた。まさしく神父で、上品かつ質素で、男前であり、間違いなく学術的でもあり、非常に起立正しい物腰だった。
ニコラスは夕食を食べながら読書に没頭した。おわかりだろうか、彼はボブーゴ牧師を除いては、ローマ・カトリックの牧師とは口をきくことはなかった。彼は聖職者たちを避けていた。なぜならば、彼が関わってきた幾つかの良心的な人々ですら(前述のB.B.を除いて)、彼の知る限りでは未だかつて、誠実で素直な人物に遭遇したことがない。
彼は彼らが恐ろしかった。彼がどこかにはまともな神父もいるはずだと理解はしていた。猥褻な神父にしか出会わなかったことによりその幻想を払拭されたことは、彼に大きな傷みを与えた。猥褻、という言葉はもちろん、言葉通りの意味でである。
その上、彼は個人的な実験の本『イギリスのピーター』を神父と一緒に出版した。火傷を負わなかった人の皮を剥ぐような、ひどく大胆な本だった。だが、彼は報復を競う気分ではなかった。
「私がアテネ人を失ったのではなく、アテネ人が私を失ったのだ。」
彼は高慢にそう言った。だから神父たちが彼に擦り寄ってきた時、彼は礼儀正しく彼らに警告した。もし彼らが親切さと継続の二つを備えた賞賛を彼に与えてさえいたら。
しかし、それからは決して、彼の渡った城の吊り橋の前に彼らを行かせることを認めなかった。難攻不落の城壁の高みから彼らの前まで和平交渉に来ることは決してなかった。
正午に、"白旗"とそれは示す "適切な計測器 "を携えて彼らがやってくるのでなければ、もう決して、彼は彼らを探すことはしないだろうが、しかし、彼に仕えるための恩寵の手段であるのならば話は別である。
彼は美味しそうな夕食を食べ終えると、自分の本、つまりあの、本当に巨大なロマンスである『Antichrist the Humanitarian』を読み耽った。彼の友人であるボブーゴが書いた不埒千万なドタバタ作品で、ニコラスの本から言葉や文体を盗用しており、しつこく他人に付き纏ってくる作者の作品に、この完璧ともいえる文学的細工(最終章で起こる出来事に聖歌を織り交ぜる手法)を採用したことを後悔した。
彼がテーブルを離れた時、神父の姿は消えていた。彼はコーヒーを飲もうとホールに向かった。そこの肘掛け椅子に、その椅子が似合う神父が座っていた。彼の父性がそこには漂っていた。クラッブが火を点けると、質問が飛んできた。
「ここには長いのですか?」
「申し訳ない、耳が悪いんです。本を読んで物思いに耽っていました。」
「耳が聞こえないのかと思いましたよ。」
神父はそう言って、
「先程、食堂で同じ質問をしたからです。私は言いました。ここに来て長いのですか?」
「誠に申し訳なかった。」
クラッブは答えた。
「本当に貴方の言葉は聞こえていなかったのです。貴方の質問に答えを返すべきですね。ここには来て半年になります。」
この退屈なやりとりから始まり、タバコとコーヒーを飲みながらの対話が始まった。
神父は自分を英国の伝道師で、教皇庁のヒュー神父と名乗った。ローマ博士号の予備試験から戻ってきたばかりだという。彼は、ヴェニスの本当の価値のある場所を2日間でどれだけ見て回ることが出来るのかを知りたがっていた。彼の見事な作法は、とても英国教会的なもので(船乗りや株式仲買人の海軍趣味を別として考えれば、世界最高峰の作法であろう)、クラッブを大いに喜ばせて、クラッブは改めて、
「貴方のお役に立てるようで光栄ですよ。ただ、その前に、まずははじめに私の名前をお伝えすべきですね。それから、私が『イギリスのピーター』を書いたことも。というのも、私は貴方の御父上方々のような職業の紳士たちから非常に不快な人格だと言われて、敬遠されていることを理解していますから。」
「なんと素晴らしい方だ!」
彼は叫んだ。
「なんという出会い!なんという謙虚さ!そして、なんという間違いなのだ!何故なら、私達の多くが貴方の本を素晴らしいと考えているからです。もし私たちが司教だったのなら、明日にでも神秘機密のために戻るよう、貴方に促すことでしょう。私はイギリスに戻ったら、偉大なるクラッブに会ったと言いますよ!」
これで当然のことながら、会話の流れは速くなった。聖ドミニコはサン・マルコとドージェ宮殿を御覧になったと言った。
クラッブは、ドミニコ会のサン・ザニポロ教会、サンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ教会、奇跡の聖母ラ・ラビダの聖マリア像、スロベニア人の聖ジョージ教区教会、サン・ジョルジョ・デイ・グレチ教会、そしてカナル・グランデの名前を挙げた。これらで1日分である。そして、碧く、碧く、この上なく碧いラグーン、二つのビザンチン様式のバシリカ、ヴェニスの祖母でもあるトルクセーロの荒廃したバシリカを見ずには帰ることはできませんよ、と。
彼が話している間に、皇帝教皇主義のウォーデン氏とその夫人が通り過ぎて行った。二人は遅れて夕食に向かう途中だった。婦人は、酸っぱく枯れた木片のようで、にやにや笑いを浮かべた非常に痩せた女性で、唇は摘んだように薄く、鼻筋は通っていた。いみじくも秋めいた服装で、ガチャガチャと音を立てていた。狭い鎖に繋がれ、敬虔な心配りのためかお腹はペコペコ、喉も渇いていた。
そして幽霊のような紳士は、痩せこけて膝をついていた。彼の顔はゴーグルのおかげで、鼻孔は45度、上唇は平らで薄長く、卑しい笑みを浮かべている。頭蓋骨の顔と頭だった。彼は異常に子供好きだった。彼の歩き方は嫌がらせのようでもあり、媚び諂うかのようでもある。
彼は通り過ぎるとき、英語を話す2人の男をおずおずと一瞥した。そして、もし彼の目を引くことがあったのならば、彼は来ていただろう。けれども、誰も彼の範疇に投げ込まれることはなかった。
「そして今ー」
クラッブはこう続けた。
「私にはもうひとつ提案があるのですが。私は誡めになりたいと思っています。私は司祭を食べるようなやつだと言われていますが、本当にはそうではないと証明するチャンスなのだと思う。
私はこの2日間、特段することはありません。だから貴方に私の舟の中を案内させてもらえませんか?そして、貴方が仰るところの私の特徴を断片的にではありますが、お見せできればと思います。」
「それは素晴らしい。」
小柄なピエロが市内の意見の食い違いのある寺院の礼拝時間が印刷されたカードを食堂から持ってやって来た。そして、二人の座るコーヒーテーブルの上に、いたずらっぽい笑みを浮かべながらそれを置いた。
「ああ、これは。」
クラッブはそれを見ると、味わうかのように笑った。
「馬鹿みたいな冗談ですね。このウォーデン氏は、エラスチャン礼拝堂の何かの重鎮だと私は理解していましたが、必死に頷こうとするあたり、もしかすると、あなたの父性は、日曜日の秘密集会での説教を解く貴方の兄弟牧師のものなのかもしれないですね。」
「そのような間違いは初めてではありませんが……。しかし、私がそんなに軽いプロテスタントに見えますか?」
「いやいや、まさか。あなたは清潔で、髭も剃っていないし、コソコソもしていないし、それにペコペコしたり、膨らんだりもしていません。何人かの神父が激しく恋い焦がれるような、真珠のボタンが付いたサテンやベルベットの在庫品などを身につけてはいない。私はティアサーク、そう、ウォーデンと話すことに、全く心配などしていませんよ。」
ドミニコは続けた。
「私は彼を説得した人について何人かは知っています。まずまずでしたよ。」
「私もその一人です。」
クラッブは叫んだ。
「私が知る中でも最高の男たちですね。『ティアサーク』とは美味しいですね。『宗教的コミュニティのボスー』。漠然としていて、定義が曖昧で、冷笑的で、当たり障りのない。彼は実際の会長ではなく、常駐している牧師なんです。ウォーデンという名前だけでもう十分だ。ただ、私は彼をティアサークと呼ぶことにしています。しかし、私は新しい知り合いを作るつもりはない。」
「あなたは親切にも、私と仲良くしてくれることを躊躇わなかったじゃないですか。」
「手厳しいですね!私はあなたの優しさに借りがありましたから。でもね、あなたが先に言いました。私にいいことをね。同じことです。 私はここでは好ましくない人からは距離を置こうと思っています。わざわざ反対する人とはね。ここに来て半年が経ちます。けれども、私は何者でもない。誰もが電話をする価値がある人物とは思っていません。たとえ彼らがそうだったとしても……ええ、わかるでしょう。大陸の都市にいるイギリス人のメトイコイたちの大抵は、警察からの忠告で祖国を離れている。病人、奇人、純粋で利己的な動機から祖国を離れている外国人たち。そのようなタイプの人々に私は育てられたのです。そして、私はそのような人々とも距離を置くことにしている。それと、もうひとつ理由があります。私は自分のゲームをプレイしなければなりません。決して簡単なものではありません。私の手が社会的な義務に縛られていなければ、責任を持ってそのゲームをプレーすることができるわけだ。」
彼らの話題は本に移った。ポンティフェクス修道士は、イギリスのローマ・カトリックの出版社の疑問の多い習慣について述べた。
クラッブ は、ある作者の作品、『Eminency's Vinaigrette』執筆の内幕を語った。そして、『Deo Gratias』は同じ著者による単一のテーマにおいて円環になっていることも伝えた。『Towers near Hispana』は4回に渡り掲載された。彼の『Eminency's Vinaigrette』、『The Dame Dominant』と『My Friend Fortunate』は廃刊になったブルー・ボリュームの中でも論争を呼んだことも話した。※①
「それはそうと、ブルー・ボリュームの話だが、貴方が知っているかわからないが、『Tales of my Toso』※②という素晴らしい民間伝承の話がありますね。」
と神父が言った。
「ああ、なんということでしょう、お恵み深い神よ。それは私が書いたのですよ。」
クラッブは勢いよく言って、持ち上げる仕草をした。
歓声と大笑いとが起こった。その物語が偽名で登場したからだ。それは自然発生的に起こり、彼らはこれについて言及し、それは小気味よいものだった。ティアサークとその夫人は、気遣わしげな、可笑しな大笑いを皆としながら通り過ぎて行った。彼らは戯けに誘われたわけではないらしかった。
「明日はー。」
クラッブは結論づけるかのように言った。
「聖マルコ教会でミサがあると貴方は言いましたね、次の日はサンザニポロで。それでは、また明日。明後日にはヴェニスをご案内します。私のパッパリンに三人分の昼食を用意して、トルキセーロへ向かう途中、サンザニポロで7時のミサに与りましょう。ラグーンで10時間は楽しい時間を過ごせますよ。それでは、私はもう寝るとしましょう。」
※編者注釈 ※① ※②
※①「ブルーボリューム」は有名な「イエロウ・ブック」のことである。
クラッブが "内なる歴史 "を語っている作品とは、ヘンリー・ハーランドの作品である、i.e『Cardinals Snuff-Box』と『The Lady Paramount』、『My Friend Prospero』のことである。
※②i.eロルフ神父の最初の著書である『トトが私に語った物語』は、【フレデリック・コルヴォー男爵】の著書として出版された。
彼が戻った時、ジルドの部屋のドアが開いた。少年は裸足で、青いズボンと白いガーンジーシャツに身を包んで出てきた。
「旦那様、祈ってください。」
と彼はそう言った。
「Cossa?」
クラッブは短く尋ねた。
「旦那様、紳士らしく言ってください。」
「ラ・タスカの大虐殺で気絶している私を見つけたとき、誰が私を見たのか教えてください。」
「僕だけだ。」
「旦那様。そのときに許可を得て、私のキネマトグラフを作った者はいなかったのですか?」
「いなかったよ。生きているキリスト教徒は、私と君以外には一人もいなかった。」
「旦那様、嘘を言わないで。私は、キネマトグラフに描かれた女性の一部に似ていたでしょう?」
「僕はキネマトグラフは見ていない。だからわからないよ。でも、君の外見で覚えているのは、左肩の痣だけです。ジルド、痛むのか?」
少年はボタンで留めたガーンジーシャツの首と肩を引き裂き、大腕をひねり出した。痣は黄色くなっていた、 すぐに消えてしまった。
「大丈夫。何にもない。ありがとうございます。旦那様。おやすみなさい。」
「おやすみ。」
欲する者は、たとえ全世界が彼を妨害しようとも、自分の欲求を追求しなければならないのだ。欲する者は撒き散らされた障害を乗り越えていかなければならないのだ。
第8章へと続く。
次回は11/8頃更新になります。