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クナーベンリーベ


ハンノキの森の奥深く、その灰色の館はありました。
白薔薇の咲き乱れる門からは、少年たちの歌声がこちらまで届いてきます。
トランクを片手に持ったお父さんに手を引かれてその門を潜ると、館の色よりもグレーな口ひげを蓄えた紳士が、私に微笑みかけました。
私は怖くなって、お父さんの手をぎゅっと握ると、彼のスーツの後ろに隠れるように身を縮こまらせました。
お父さんからは、白檀と煙草のような、大人の男の人特有の匂いがしました。
そして、お父さんはスーツの胸ポケットから、玩具のような青い月が描かれ、その周りに美しい銀色の星を散りばめられたインビテーションカードを取り出して、その紳士に渡しました。
紳士はそれを注意深く見ると、何度か頷いて、私たちを館の中に招き入れてくれました。
私は、その時に、自分たちが特別な御客様なのだと、そのように感じて、心が浮き立ちました。それは、お父さんが特別な人だという優越感に他なりません。
入ってすぐのロビーは、ガラス張りの壁面から陽の光が差し込み、そうして、天井からは揺らめく火をたたえた何十本もの蝋燭が立ち並ぶシャンデリアがぶら下がっています。所々に薔薇の花や百合の花が飾られていて、甘い匂いがしています。私がはっ!と驚いたのは、ロビーから2階へと続く巨大な階段に並ぶ少年たちの姿です。それは、シャンデリアの蝋燭のように高さは不揃いではありましたけれども、皆一様に美しい少年たちで、私よりも四つから十ほど、年が上の子らでした。どうやら、その甘い匂いは、少年たちから漂うようでもありました。彼らは、指揮棒を振る先生と男性ピアニストを見つめながら、バレないように薄目を開けて、私達を盗み見ました。皆、白詰襟のシャツに、紺色の半ズボンを履いています。そこから伸びる足が、火を受けた蝋燭の色と一緒だよと、お父さんに耳打ちされて、初めて気づきました。喋りながら、お父さんはゆっくりと私の足を撫でるから、心臓がどきん!としました。
少年少女の楽隊が、美少年美少女であることは、制服に寄るものだということを、誰もが頷くところです。そうしていると、一人の大柄の男性が私の元にやってきて、それは、ベースボールの試合で見たあの憧れのスーパースターのように背の高い、浮世離れした、しかし、とてもあどけない顔立ちの男性で、しゃがみ込むと、
「今日は見学だけでしたね。」
と微笑み、私のほほを撫でるとゆっくりと立ち上がり、何事かをお父さんと話しています。その口ぶりで、私は、この人はここの先生なのだということがわかりました。先生は、何度か私へと視線を移しながら、お父さんと談笑していました。そうして、暫くすると、お父さんにお辞儀をして、私にはウィンクを送ると、少年たちの所へとそのまま行ってしまいました。
「彼はアドニスだね。」
お父さんはそう言うと、私の手を牽いて、静かに少年たちの歌声に耳を澄ませていました。
私がそっと顔を上げてお父さんを見上げると、お父さんは眉根を少し寄せていました。お父さんは、家で静かに本を読んでいる時、詩を書いている時、私の食事の作法を厳しく注意する時、どれもが少し怖いように思えていました。今も、その時と同じような顔をしています。
少年たちが歌う曲名を識りたくて、こわごわとお父さんに尋ねると、
「あれはシューベルトの『魔王』だよ。ゲーテの詩だ。あの曲を、彼らはこの夏に歌うんだよ。」


父上よ父上よ、聞きたまわずや?
魔王のささやきいざなうを


歌声が響いてきています。今日はプラクティスなのだと、お父さんは言いました。この七夕に、コンサートホールでこの曲が歌われるのだと言うのです。私には、魔王とは何のことかわかりませんでしたから、少年たちの軽やかに伸びる歌声をただただ聞きながら、口を空けて呆けていました。
そうしていると、一人、私よりも幾つか年長のお兄さんであるところの美しい少年が、私と目が合うと微かにほほえみました。その人の睫毛はうばたまの弓が立ち連なるようでした。また、美少女めいた髪の長い少年も、きらきらとした歯並を見せて歌っています。私は、こんなお兄さんたちと一緒に並んで歌えたら、あの先生に歌を教わることが出来たのなら、どんなにか楽しいだろうと、自分が並んで歌っている姿を想像しました。お父さんもそんな風に思っているのでしょうか?
すると、お父さんは私の手を牽いて、また歩き出しました。私は後ろ髪をひかれるように、お兄さんたちを諦めきれずに、何度か見ましたが、すぐに見えなくなってしまいました。
お父さんは大階段とは正反対の方向にある、もう一つの螺旋階段、その下の窪んだ小部屋のドアノブに手をかけました。その部屋の中は真っ暗で、何も見えません。少し暗いなと、お父さんは燐寸を擦ると、燭台の蝋燭に火を灯しました。そうすると、パッ!と赤、青、橙、緑、黄、桃色と、とりどりの色の衣装が現れました。それは、聖歌隊だけではなく、どうやらジプシーや奇術師、剣士、そして兵隊さんのものもありました。まるで、劇団が着るような、夢のような衣装たちです。
この衣装部屋で、私は着てきた洋服を全て脱がされて、あれよあれよとパンツと肌着にだけになってしまいました。私は、先程の少年たちと同じように、自分もまた蝋燭のようにてらてらと白い肌が光っているのを感じて、
お父さんの目が火のように揺れたのが見えました。そうして、お父さんは衣装の中から、様々なものを手にとって、私にどれが似合うか試そうとして、それから何事かを独りごちると、ゆっくりと、先程の少年たちの着ていた制服と同じものをトランクから取り出して、白詰襟のシャツに、茶色の半ズボンを私に着せました。ただ、それは私には合わないようで、若干大きいのです。これはお父さんが子供の頃の制服なんだということに、なんとはなしに気づきました。ただ、違うのは、お父さんが持っていたせいで、煙草だとか、お香だとか、そんな匂いがしていて、お父さんの服なのに懐かしい気がしました。
最後に、私を部屋の長椅子に座らせて、私の胸元にピン留めで菫のリボンを取り付けると、お父さんは、私の顔を見て、それからそっとおつむりに口吻くちづけをして、髪の匂いを嗅ぎました。それから、お父さんは小声で囁きかけて、私はお父さんの唇にそっと軽い口吻くちづけをしました。私は、そっと唇を離して、歌声が聞こえてくるのに耳を澄まし、あの歌詞はどういう意味なんだろうと、足を椅子にコツコツとぶつけながら、そんなことを考えていました。


愛らしくも心ひくそなたの美しき姿よ。
進みて来ずば、力もて引き行かん。
父上よ父上よ、
魔王はわれを捕らえたり!魔王はわれをさいなめり!

それは、私がまだ五歳の、百合ひらき香る五月のことでした。

ゲーテ『魔王より』ー高橋健二訳ー


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