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レプリカントの形而上学 ブレードランナー2049考


まくら

『ブレードランナー2049』が最も愛している映画だと何度も書いているが、無論、『ブレードランナー』オリジナルも同様に堪らなく好きな映画である。
私は、『ブレードランナー2049』が公開される際に、『ブレードランナー』の続編など馬鹿げた考えであると思っていたが、それは見事に作品によって覆された。
私はそもそも続編ものに懐疑的なので、この物語の続きが観たい、という感覚は薄く、いや、もう終わってるやん、という考えである。然し、それも『ブレードランナー2049』に関しては全面的に過ちであった。
少し前に、Amazonオリジナルドラマシリーズで、『ブレードランナー2099』の制作が正式に決定したとのアナウンスがあり、これにはリドリー・スコットも絡むわけで、まぁ楽しみではあると同時に、やっぱり続編懐疑的な私には少し不安である。

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1982年公開の『ブレードランナー』はサイバーパンク映画のビジュアルを決定づけた作品の1つであり、人間とは何か、という哲学的な問いかけをしている作品だという世評が高いが、人間とは何か、魂とは何か、という根本的な考えの他に、少年少女たちの物語であることが、私の琴線に触れてならない。

『ブレードランナー』は天才科学者であるタイレル博士に作られたレプリカントという人造人間が存在しており、彼らは今作では第6世代まで制作されている。ネクサス6、最新型のレプリカントは知性も、肉体も人間のそれを凌駕する。ブレードランナーとは、その人間の代替品として消耗される模造品の人間であるレプリカントが何らかの叛乱を企てた時に廃棄(処刑)する捜査官のことであるが、この死刑執行人がハリソン・フォード演じるデッカードである。
『ブレードランナー』の舞台は2019年11月のロサンジェルスで、冒頭の物語背景を語るテロップからの近未来の夜景を背景に日付が出る演出は神がかり的でもあるが、『ブレードランナー2049』もまた、その演出を踏襲しており、続編の『2049』ではその寂莫とした光景に虚無的な世界の広がりがより濃厚に広がっている。


『2049』は2049年6月のカルフォルニアを舞台に幕を開けるが、今作では海抜が上がり、巨大な防波堤シーウォールが人々を守っている。そして、6月なのに雪が街に降り注いでいる。世界は壊れ始めている。
雨の『ブレードランナー』と『雪』の『2049』は、どちらも消えてゆく水子の魂のような孤独を孕んでいる。

『2049』ではネクサスは9型まで作成されており、7型が恐らく前作のヒロインであるレイチェルで、8型が『2049』で主人公に追われる立場の旧型、そして主人公であるKは最新型のネクサス9である。それぞれに特徴がある。6型は安全装置として4年で死ぬ。それは、4年で自我が芽生えるからだ。
7型は、恐らくは妊娠が可能である。これはレイチェルだけの奇蹟で、タイレルの遺したブラックボックスだ。
8型は寿命が長い。9型は?彼らは更に強靭で、神(造物主)の言うことに従順であり、天使である。『2049』の世界において、神はタイレルから二アンダー・ウォレスに引き継がれている。

『ブレードランナー』の敵方となるレプリカントを率いるのはネクサス6のロイ・バッティであるが、彼は演じるルトガー・ハウアーの素養も相まって、詩人的な一面を持つ美しいレプリカントである。
ロイ・バッティは、ただただ生きたいためだけに逃走し、神であり父であるタイレルに会いに行く。そして、それは否定されて、彼は絶望し、神殺しの果てに、ブレードランナーのデッカードと死闘を繰り広げる(一方的なハンティングになるが)。

『2049』の主人公であるKもまた、父に会いに行く。彼は、ネクサス7だったであろうレイチェル(それからデッカード?)の奇蹟の子供が自分でないかと、そのような甘い疑念を抱き、それは確信へと変わり、愛を求めて父を探しに行く。そして、それはまたしても否定される。
Kは、絶望的な日々を送っている。仕事はブレードランナーで、旧型の廃棄という、仲間殺しの日々の中、友人もおらず、同僚からは人間もどきと差別されて、恋人のjoiはAIデータであり、その姿はホログラムでしかない。
ただの恋愛の遊戯に興じるだけの日々だ。そして、彼は作られた存在には魂はない、という言葉を信じている。だから、自分には魂はない、と絶望している。
二人の主人公(ロイ・バッティは主人公である。デッカードはどちらの作品でも狂言回しに過ぎない)は、どちらも命を、そして、命を得てもなお魂を求めて、父へと会いに行く。それが否定された時に、彼らはどう生きるのか、そのような物語である。

親父?との危険な再開

そして、レプリカントはどちらの作品でも(ネクサス8を除いて)、子どもたちである。
4年の寿命で命が燃えゆくロイ・バッティやプリス、自身がレプリカントであることを知り、アイデンティティの崩壊の末に子供帰りしたレイチェル、父(ウォレス)に一番と認められたいだけのラヴ、そして、愛を求めているK。そしてレプリカントのレイチェルとデッカードから産まれた本当の奇蹟の女の子であるアナ。アナは、8歳からずっと免疫不全のために、卵のような無菌室にいるが、彼女もまた子供のまま、外界を識らない。

ネクサス8型であるサッパー・モートンや娼婦のマリエッティ(彼女は9?)は、寿命を得ているからだろうか、過酷な日々の中で大人になっている。
彼らは、魂の孤独を埋める術を、奇蹟の子、革命の種である、ある種のシンボルである偶像に頼っている。神の子である自分たちではなく、他人という神の子を称える宗教的な考えが、自身のアイデンティティの確率へとつながっている。
子どもたちにはそれが理解できない。何故ならば、七歳までは神の内だから、である。
レプリカントにも、子供である者(神のままであり、天使である)、既に人間になってしまった者がいる。
神様に救いを求めるのは、基本的に大人たちである。神を利用するのも、大人たちである。

人間とは何か、とは表面上的な問題でしかない。そこは、『ブレードランナー』シリーズの表面上のテーマでしかなく、本当に重要なのは、今作は全て、稲垣足穂の言葉を借りるのであれば、「夭逝の形而上学」を描いた物語であること、それが見るものに郷愁を与える最大の理由である。

『ブレードランナー』、『2049』、共に主人公乃至はレプリカントたちは、子供のまま、いや、大人ごっこをしながら、傷つき、夭逝していく。ロイ・バッティは美しい詩を呟きながら天に召されて、Kは父と娘を会わせるという、優しい兄のような気遣いを見せて、寂しそうに雪の中、天に昇っていく。

4歳で死んでしまう少年の魂。美しい最後の言葉は、彼の本当の記憶だろうか。


雪も、雨も、同様に消えてしまう。

子どもたちは、愛を、命を謳歌しようと懸命になり、そしてそれが叶わずに夭逝する。彼らは天使たちであり、少年少女である。少年少女だからこそ、美しい煌めきがそこにある。

反対に、長く生きているレプリカントたちは、死ぬことはない。彼らは長生きすることで人間になってしまっていて、つまりは悪魔になってしまっている。だから、利己的で、感情の起伏が乏しく、寂しさがない。懐かしさがない。

そうなのである。懐かしさ、神様、天使だったころの懐かしさが、レプリカントをレプリカント足らしめているものであり、彼らが大人の姿形をしていても、幼心の記憶をこそ大事にしているのは、彼らが懐かしさに限りなく近い存在であり、それが作られた記憶であることが、彼らが懐かしさを愛している、逆説的に人間に最も近い証左である。

誰しもが覚えがあると思うが、大人になれば記憶の中で、何故か覚えている、時折思い出すいくつかの特別な記憶があるはずである。なんということはなく、何故覚えているのかわからない記憶。それが、レイチェルにおける蜘蛛の子の記憶であり、Kにおける木馬を守る少年の記憶である。
この、たった一つの記憶への郷愁こそが、あの懐かしい未来と言われる『ブレードランナー』世界の天上界において響き合う少年たちの哀しみの正体である。

自身がレプリカントであることを知り、子供に帰っていく。もう一度、新しい自分を生き直すように。
ヴァンゲリスの『LOVE Theme』がかかる。暴力的であると同時に、美しいシーンだが、『最後の決闘裁判』的でもある。当時、かなりきついシーンでショーン・ヤングは辛かったそうだ。リドリー・スコットを袖にしてから厳しくもされたらしい。

稲垣足穂は、謡曲に郷愁を見ていたが、なんと驚くことに、『ブレードランナー』では芸者が謡曲めいた曲を謡い、それが未来の摩天楼に通奏低音として響いている。


そして、『2049』においては、父であるかもしれない人、デッカードとの再開の直後に、フランク・シナトラの『One For My Baby』が流れる。この曲は映画では全編流れないが、歌詞を読み込むと見事に作品とリンクしていてそれも感動的だが、メロディが懐かしいアメリカの時代を思わせてならないが、この、いつの日か父の膝の上で聞いたような、或いは、父の書斎へと入り込んだ時に流れていたような、あの、はしけき頃の自分を想起させるような、そのような郷愁に満ちている。

Kはフランツ・カフカの小説『城』の主人公のKも名前の由来の一つではあると思うが、然し、一番にやはりKidのKなのである。彼は子供であり、名前はジョー。その名前を呼んでくれたのは、joiと、そして、少しの間、お父さんだったデッカードである。
私達は、Kに、お父さんを慕っている少年の純粋な思いを、懐かしさを持って観ているのである。

『ブレードランナー』『ブレードランナー2049』は共に、Kidたちの物語であり、デッカードは彼らの保護者であり、お父さんなのである。デッカードが人間か、それともレプリカントか、それはどちらでも構わないが、然し、長生きしてしまったデッカードは既に『夭逝の形而上学』の外側に置かれてしまっている。
デッカードもまた、ユニコーンの記憶を持っているが、
それは『2049』にはKの木馬へと変わり、微塵も出てくることはない。

『ブレードランナー2099』はそれから50年後の未来を描くわけだが、生きていてもアナ・ステリンだけだろう。つまり、アナが奇蹟の子供として、レプリカントと人間の関係性をどう変革させたのか、その前提で話を描くと想像される。
サイバーパンクの側だけを描いてもそれはもどきでしかない。『2099』において、未来のレプリカントたちの存在について、『夭逝の形而上学』が生きているかどうかが重要なのである。





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