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谷崎 秋の変態祭り

谷崎潤一郎の『鍵』は当時大ベストセラーだったそうで、センセーショナルな内容も相まって刷りまくったそうだが、これと同じようにカタカナだけを使用した文体の『瘋癲ふうてん老人日記』は不人気なのかあまり感想を書く人がいない。


新潮文庫では確か同じ単行本に収められているので、合わせて読むべき作品なのかもしれない。『瘋癲老人日記』は晩年の谷崎の私小説的な内容で、老いてなお性欲、それも『足』に対しての異常なフェティッシュが炸裂する話である。
仏足石ぶっそくせき』という釈迦の足跡が刻まれた石があるのだが、それを自分がミューズとして崇拝する息子の嫁の足で作ろうと企てる爺さんの話のわけだから、まぁ馬鹿である。然し、至って本人は真剣であり、この息子の嫁の颯子さつこは妻の谷崎松子の連れ子の嫁の渡辺千萬子であり、いつもの身内の女で妄想する谷崎作品である。
実は、この渡辺千萬子に大変入れ込んでいた谷崎は、構想作品の中でも重要な役として出す予定だったそうだ。これは谷崎の口述筆記をしていた秘書の伊吹和子の著書、『われよりほかに』に結構詳しく構想が出ていて、『夢の浮橋』の主人公のただすのように、京都の地名から名前を取ってきたりしていて、二人の女がメインを張る話のようだ(確か、深泥池の深泥を使っていた)。
ここでは谷崎は『武州公秘話』の続編も書こうとしていたと書いてある。


谷崎は今まで、自身のミューズと呼べる女たちをノスフェラトゥの如く味わい、創作の糧にしてきた男である。そして、飽きたら次の女性をロックオン、妄想を繰り広げながら、あわよくば食べようとする……。

川端康成との違いは、川端はキモオタなのでアイドルに妄想しているだけだが、谷崎は実際に食べてしまうわけで、それが作品にも如実に浸透している。川端作品の女は清潔でありどこか肉体がないが、谷崎作品の女は肉体を与えられている。
『細雪』とかでは美しい女性である雪子に下痢をさせたり、谷崎は急にスカトロジストとして汚物を作品に登場させる。
かわやのことならオイラに任せろぃ!」ってなもんで、急にう○こ事情を語りだし、それには男女の違いを慮るつまりは微塵もなく、「う○こは誰にでも平等だい!」ってな感じでそういう汚い話を作中に入れてくる。

谷崎は『悪魔』では風邪をひいた女の噛んだ鼻紙をペチャペチャ舐めたり、『少将滋幹の母』では不浄観(腐っていく死体を凝視しながら世の無常を感じる、そして克服する)の説明に延々とページを費やし、ここでも平安の世の厠事情を語りだし、『武州公秘話』でも蛾の翅を敷き詰めた中国のトイレットの話を説明したり、『過酸化マンガン水の夢』では下痢に苦しむ谷崎が放り出した糞便が、その日観た『悪魔のような女』の主演、シモーヌ・シニョレに視えたりと、どこまでもアヴァンギャルドに自身の嗜好に忠実である。

まさに、これこそが谷崎潤一郎の狂想曲エキストラヴァガンザあり、肉体派(違う意味で)だからこそ書ける女神というものがいるのである。

シモーヌ・シニョレ。すごい美人なのに、谷崎はなんちゅうヤツや……。



谷崎は正しくう○こ野郎であり、それは彼には褒め言葉である。彼はその事象を殊更糊塗して隠そうとしない。
そういうものもキレイに書こうとするのが川端だが、川端はそんなにう○この話はしなかった。

『鍵』や『瘋癲老人日記』あたりの装丁などは日本のゴッホこと棟方志功が担当しており、この二人は気があったようだ。
反対に、川端康成は東山魁夷と親交が深かったが、どちらも現在う○こ高い額で作品が取引されており、日本の美の代表選手である(と、いうことになっている)。
作家、というのは自分の世界を具現化する描き手に逢いたいものである。

とにかく、秋は読書の季節なので、しっとりと楽しむのいいが、少し刺激的な(不衛生的な)谷崎作品を楽しむの一興である。

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