ワンダーがない『すずめの戸締まり』
新海誠監督の最新作『すずめの戸締まり』を鑑賞した。
ここからネタバレを交えて書く。
私は、新海監督の作品は『言の葉の庭』が好きで、これは映画館で観た時、
その年では『風立ちぬ』や『かぐや姫の物語』があって、これには及ばないものの、とても好きな映画だった。
で、『君の名は』や『天気の子』の確変を起こしてウルトラにブレイクしてしまった新海誠監督、『星を追う子ども』なんかはウルトラに大コケしていて、まぁそれはブレイク前前夜だから仕方なし。
やはり社会現象的ヒット、というものは読めないものだが、『アナと雪の女王』にせよ、『ONE PIECE FILM RED』にせよ、『鬼滅の刃』(これはちょっと違うか?)にせよ、そして『君の名は』にせよ、キャッチーな歌、音楽、つまりアクセルを加速させる装置が作品と一体になっている場合が多い。
で、『すずめの戸締まり』を観て思ったことは、新海誠監督は、本当にこの映画を作りたかったのであろうか、ということである。
まず、『すずめの戸締まり』という映画は、粗筋を書くのは面倒くさいので公式ホームページで読んで頂きたいのだが、映像は大変綺麗である。
これほど美しい画面はなかなかアニメ作品でお目にかかることは出来ないだろう。
特報が出た時、朝も昼も夜も星空も全ての景色が一つにある世界が提示されたが、なるほど、物語を最後まで観れば、それはただ映像美のためだけではなく、鈴芽という主人公、乃至は、この物語を観る喪った何かを持つ全ての人々の人生であり、歴史そのものの表象であり心象であることは間違いなく、それが詰まるところ、あの世なのである、ことが理解できる。
このように美しい映像が煌めき、そこには美しい女子高生と、清廉なる美青年の旅人がいて、彼女たちが日本の災厄を封じ込める旅を続けるというプロットは大変に魅力的だ。
新海誠監督は宮崎駿監督と比較される程に期待を背負った監督である。
もう1人、細田守監督もいるが、細田守監督は昨年、『竜とそばかすの姫』が昨年大ヒットしていたが、然し、細田守監督が本当に描きたいのは、ショタであり、ケモナーのはずであって、無論、『竜とそばかすの姫』にもその要素は多分にあったものの、『サマーウォーズ』の焼き直し的な作品に終止し、『未来のミライ』のコケからの起死回生の一手としか思えない。
入道雲、女子高生、というのは細田守監督のイメージとして万人の心に頒かちがたく結びついており、それは『時をかける少女』が決定づけてしまった細田守監督を封じ込める縛鎖である。
『すずめの戸締まり』もまた同様で、前作『天気の子』の方が、本人の資質が出ていたように思えるが、然し冒険作であったせいか、賛否両論だった。本来、賛否両論こそが健全なのだが、大ヒットを狙うには危険な作風でもある。100億円、200億円到達のためには、700万人だとか、1500万人だとかを動員しなければならない。
もはや産業と化してしまった新海誠作品において、作家性は重要なファクターであると同時に、過去の成功例を担保として物語や演出に組み込むことは決定づけられてしまっている。
1時間半の、『言の葉の庭』的な文芸路線で作ることも可能だろうが、それはなかなかに難しく、大衆映画としては、スペクタルを求められるようになる。
宮崎駿は、『もののけ姫』のラストなどを語る際に、インタビューなどで、
「結局最後には爆発しかない、爆発で終わってしまう」と言っている通り、スペクタル作品というものは最終的には大爆発(それをカタルシスと呼ぶのである)を起こすよう運命づけられていて、今作も丁寧に起承転結が描かれた作品で、多くの観客の涙を誘うような導線作りに余念がないが、それはあからさまな作為に満ちている気もする。
新海版『ハウルの動く城』、と言われているように、たしかに今作のメインキャラクターの草太は、ハウルに似ている美青年で、ほぼパーフェクトな人間である(寝相が悪い、というギャップ的な演出が、またあからさまである)。
このパーフェクトな青年に一目惚れをして、彼を助けるために、愛を伝えるために会いに行く、というのが今作の要約で、正しくセカイ系の系譜だが、そこに至るまでの過程にあまりにも瑕疵が多く、鑑賞中にノイズが大量に走るのである。
そして、何よりも『ハウル』的なのは、ソフィーが幼い頃のハウルに出会うシーンで、「未来で待っている」とういう、あの、『時をかける少女』的な語りであると同時に、時間軸の交差であって、それは隔たれた時間を超えて出会う静止した、『君の名は』の一時であり、『インターステラー』におけるタンスの裏側である。
まぁ、簡単に言えば、『のび太の大魔境』である。
今作は多くの、大多数の人が鑑賞する映画としては大変によく出来た作品であると同時に、それを生み出すために多くのディティールが破壊され、作家性が薄められた仏作って魂入れずの作品だとも言える。
後半、草太の友人が車でかける曲(これに『ルージュの伝言』を持ってくるところもまたあからさまだ)が懐メロに満たされているのだが、その懐メロは有名な曲ばかりであり、初めて耳にするような驚きはなく、これもまた、大多数の観客への目配せだろうか。
新海誠監督が心から愛するアニメの懐メロとかをかけて欲しいものなのだが、それは逆に一般の観客のノイズになってしまう。感情移入を妨げてしまう。
つまりは、大多数の人間をターゲットにしたがゆえに零れ落ちて砕けた何かがある、そんな作品だと言える。
東日本大震災という、日本の最大級のトラウマを扱った作品であり、私だってそのような設定を持ってこられると、感情を揺さぶられる。それは当たり前のことである。
それが上手く機能しているのかどうか、と言われると、やはりノイズになってしまっていて、上手くいっていない気がする。
別の災害、では現実との地続きではなくなってしまうからだであろうか、然し、地震を持ってきたことで、3.11に起きた大震災は、閉師がしくじったがために起きた帰結だったのだろうか、というように思えてしまい、混乱してしまう。
そのようなことで片付けるには、日本神話というものを持ってきても、
なかなかに上手く機能させたとは言えないのではなかろうか。
私は小説版を読んでいないので、なんとも言えないのだが……。そのへんは書かれているのかしら?
そして、要石として生贄に捧げられていたダイジンに関する物語、これこそが、鈴芽が過去のトラウマと向き合うと同時に、自己犠牲者として彼女を救う真の意味での要石としてこの作品に楔を打ち込む筈であるのに、それがおざなりになってしまっている。
映像は美しいし、俳優声優陣の演技も素晴らしかった。
だから、大変に良く出来た作品であると思うが、ワンダーがなかった。
『君の名は』にはワンダーがあった。荒削りだが、真摯だった。
今作は、途中のマクドナルドのハッピーセットなどの描写からも、一層のスポンサーがついているのだろうが、大所帯になれば、作風は殺される。
強いて言うのであれば、初めに鈴芽と草太が出会うシーン、あの辺りの静謐な、異界の感覚は良かった。
そして、フィティッシュ的とも言える、鍵を回すシーン、あれも音を伴って大変に良かった。
二人の男女の視線が再び交わるエンディングはもはや様式美の域に達しており、今作も例外なくそれは登場する。
「いってらっしゃい」、「ただいま」は、野村哲也イズムに通じており、これはまさに正しく厨二病的な感覚の一つである。この辺りを持ってくる辺り、これはとても恥ずかしい映画(いい意味で)なのであるが、やはり、類型に落ちてしまって、ワンダーがない。
新海誠監督は、心象を描くのがとても得意である。
そして、それは彼の描く世界、あの、美しい空や雨の滴り、そうして、日本的な繊細な叙情に、美しい男女の視線が交わり、例えようのない、一つの日本的美学を体現していると言ってもいい。
それは、宮崎駿監督の天才性とは異なるが、芥川龍之介の言葉を借りるのであれば、文芸的な、余りに文芸的な映画表現である(意味は違うが)
だからこそ、今作で一つの三部作が終わるとのことなので、心象を描いた、淡々とした、美しい作品、を小品でも良いから観たい。
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