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カデンツァ


 極楽鳥の羽をまとって先生は横から鍵盤を鳴らした。山猫のような女だった。虫唾の走る香水に、文樹は息を止めた。この山猫を娶ろうというのだから、父親は狂人だった。交わりの余韻に浸っているのか、目が潤んでいる。盛りのついた雌猫だった。
文樹は「お手洗い。」と呟くと、教室から逃げて、トイレに隠れた。その場所は、山猫の悪趣味か、ベルサイユ宮殿も斯くやと言わんばかりの、狂想曲(エクストラヴァガンザ)の極みだった。
 どうして、あんな女が好きなんだろう。流れる水を眺めながら、文樹は今一度先生の顔を思い出す。ピアノを弾く時、先生の睫はきらきらと、漆黒の竪琴を思わせた。指先の動きも見事だった。いつか、あんなふうに弾けたらなと、そう文樹は思っていた。父親も、初めての発表会を訪れた時には、まだあのようではなかった。いつの間にか、先生を先生としてではなく、一人の女として、愛するようになっていた。急に催して、文樹はトイレに吐いた。トイレットペーパーで口を拭くと、とんとんと、背中を叩かれる。彼女が横から覗き込んで、文樹の背を擦ってくれていた。
「派手にやったね。」
「うん。もう、帰りたい。」
「だろうね。」
彼女は立ち上がると、文樹を首で促した。
「何?」
「連弾。」
彼女の後について、教室に戻ると、ビロードの絨毯の上で先生が寝息を立てていた。彼女はふっと微笑むと、そのまま椅子に腰掛けた。文樹もそれに倣って、小さな椅子に二人で押合いながら座った。
「パパは?」
「お仕事。あと一時間で、迎えに来る。」
文樹は鍵盤に指を置くと、そのまま演奏を始めた。彼女は、何も言わずに、鍵盤を撫でているだけだった。
「なんだよ。弾かないのかよ。」
「ねぇ。あの先生さ、どんな風にパパを誑かしたのかな?」
文樹も、それが気になっていた。男の人も、女の人も、十を超える頃には異性にどうしようもなく惹かれるものなのと、ママがそう言っていた。文樹はまだ八つだった。
どうして、十になると、そうなるの?
男の人、女の人、それぞれに変わるから。それまでは、一緒なのにね。
一緒?
そう。あなたも、一緒。
知らないよ、と、そう独りごちて、文樹は演奏を続けた。彼女は立ち上がると、この小さな自宅を改装した個人教室をぐるりと睥睨して、そうして、寝室を指差した。先程、あそこから嫌な声が重なって聞こえた。不快な声で、文樹の心を刺激していた、獣の叫びである。
「覗いてみましょうよ。」
「だめだよ。悪いよ。」
「先生は、もっと悪い。それに、寝てるからバレやしない。寝てる方が、バカ。」
机の上には、香水瓶と酒瓶が散乱し、きらきらと星が散らばったようで、真紅の絨毯は、先生の血のようにも思えて、先生は死体だった。
文樹は少し躊躇したけれど、立ち上がって、彼女の後についていった。ぎいと、ドアが音を立てた。文樹は振り返った。先生は、まだ寝息を立てている。乳房は上に行ったり、下に行ったり。
ママも、十歳くらいのときに、好きな人が出来たの?
出来たよ。何回も、何回も。
パパは何人目?
パパは、確か、二十三の頃。何人目だろう。初めは、好きじゃなかったのに、パパは、何かをつかもうとして、間違えてママの手を掴んじゃったのね。それで、慌てて、でも、外さなくて。それだけ。それだけなのに、どうしてだったのかなぁ。
部屋にもまた、様々なものが散乱していた。机の上には、大量の楽譜や、生徒たちからもらった似顔絵、それから、発表会の写真。音楽家の成れの果て。
「ああ。これ。見てよ。これだよ。」
彼女は嬉しそうに、引き出しの中から一通の便箋を取り出した。そうして、それを捲ると、つらつらと読み上げた。
君の中にトルコキキョウの夢を視た。
「バカな男。ただ、セックスがしたいだけじゃん。」
文樹はその恋文を覗き込んで、また吐き気を催した。
「大丈夫?」
「ううん。なんか、変な感じ。」
「こういうのが、本当の悪なんだ。ねぇ、こんなラブレター、燃やしちゃおうか。」
「ええ。だめだよ。悪いことだよ。」
「いいよ。ねぇ。燃やしちゃおう。ほらっ。燐寸か何か、持ってない?」
「持ってない。」
「じゃあ、キッチン。ガスの灯で、燃やしちゃおう。きっと、きれいだよ。」
彼女はそう言うと、またもと来た道を戻って、キッチンへと向かった。教室に戻ると、先生はまだ寝ている。香水瓶がきらきらと、目に眩しい。
キッチンでは、青白いガスの火が、静かな音を立てていた。彼女は、そっと、その、先生の花束である紙片をガスの火に向けた。待ってと、文樹は彼女を止めると、僕も、とつぶやいて、少年と少女の片手は一色になって、紙片はぼっと溶けていった。

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