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宮崎駿の美少年


昨日、国民的大ヒット作である『千と千尋の神隠し』が金曜ロードショーにて放映されていたので、何度目かわからないがちらちらと観ていた。
やはり、演出も素晴らしいが、あの海列車のシーンは何度観ても素晴らしい。『銀河鉄道の夜』もそうだが、あの光景はどこかで観たことがあるし、これからも子供たちはどこかで見ることになるのだろう。
押井守も、あのシーンだけは絶賛していた。所謂三途の川のイメージをあそこまで的確に表現しているのは流石だと舌を巻いていた。

然し、私は今回観ていて、今までの思い違いに気付かされた。宮崎駿の作品は、基本的には聖少女が主人公であり、宮崎駿は少女愛の人だと思っていた。然し、改めて見ていると、ハクが美しすぎるのである。そして可愛すぎるのである。
思い返せば、初期作を除けば、『もののけ姫』で一番美しいのはアシタカ彦(或いはエボシ御前?)であるし、『千と千尋の神隠し』ではハクがおり、『ハウルの動く城』ではマルクルだ(ハウルももちろん美しい)。さらには、『崖の上のポニョ』では宗介が愛らしく、『風立ちぬ』の堀越二郎の少年期は日本の少年の美しいのが詰まっている。

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宮崎駿の映画には、真っ直ぐな少年と聖少女との交友が欠かせないわけだが、映画を観ている男性陣は、皆が主人公に自分を重ねる。客観視して観ている人でも、『もののけ姫』で俺は誰かと問われればアシタカになるだろうし、『ハウルの動く城』ならば、なぜかハウルの目線になっている。
誰もが美しい少年でありたい、美しい青年でありたいという願望がそうさせるわけだが、然し、事実はこの主人公たちは宮崎駿自身の理想の少年であって、それを明示しているのが『紅の豚』であり『風立ちぬ』であるが、どの映画も、ヒロインを初め美しい女性たちは皆主人公に恋をする。

この美しい箱庭とイマジネーションは、本来は宮崎駿による宮崎駿の為のものでしかないのだが、人々の理想ともそれはマッチしていて、受け取り手は誰もが作品を愛してしまう(然し、元来汎ゆる物語は基本的にはそうである。理想の顕現により、人はその物語に魅了される)。

美しい少年たちは、女性たちにも憧れの的であるが、それは全男性も愛する所でもある。

ヒロインを並べてみると、垢抜けない、少女漫画の主人公のような娘が並ぶが(失言失礼)、男性の主人公格の人々たちは美しい。つまりは、女性の夢も、男性の夢も、どちらも内包しており、ロリコンだなんだの言われているが、実は、美しい少年にこそ興味があるようである。
事実、『風立ちぬ』の菜穂子はただの添え物でしかなく、精彩を欠いている。代わりに、二郎(というか監督自身)は少年期から一貫して美しいのである。

美少年をイマジネーションで包んだのが宮崎駿作品の本質ではないだろうかと、ハクを観ながらそのように思えた。
宮崎駿の作品には性の、セックスの匂いがしない。それは、聖少女への恋慕がそうさせるのかと思っていたが、理想の自分を描くからこそ、そこにはセックスが生まれ得ないのかもしれないと、そんなことを考えたりしてみたりして。
何故ならば、セックスは理想の自分を顕現させる手段であり、それが作品内で既に完成しているのであれば、仄かな恋心だけで、もう満たされるからである。



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