都築響一 『圏外編集者』における編集スタイルと小説に関する共通項
編集者の本が好きである。
漫画編集ならば『重版出来』が好きだし(そういえば、今月最終巻か……)、ついつい文学コーナーでも、出版社関係の本は手に取ってしまうが、都築響一の今作もまた規格外の面白さに満ちた本である。
マガジンハウスで『POPEYE』や『BRUTUS』を編集していた頃から、フリーになり、様々な企画を作り、様々な本を作成していたそれぞれの時代を語る。
その中で、都築氏が考えている編集感、編集者としての仕事のあり方を話している。
一貫しているのは、物事に優劣はなく、表現にも優劣がない、ということであり、編集者は自分で動いてなんぼ、読みたい本があれば自分で作れ、ということである。海外などでの僻地であってもコーディネーターは使わない。『単独潜入、武器は現地調達』という、完全に『メタルギアソリッド』におけるソリッド・スネーク的な、単独行を推奨している。
そして、何よりも、現場に行かなければわからないことがある、ということである。
現場に行く。これは小説を書く上でも重要である。
編集者は、記事を書く上で正確な情報を知る必要性がある。小説家は、そこに正確性よりも叙情性や物語を面白くするために虚構性なども必要になるため、必ずしもその現場を事細かに知る必要性はない。無いのだが、行くことで、その現地に立ち上る匂い、或いは、行ったことで思わず生まれる偶発的閃きとの出会いが、作品に深みを与えることがある。
そして、何よりも習え右をするな、ということである。
なぜ画一的な小説を書こうとするのか。その一点である。
そういった小説が駄作であることは、小説の読み手が一番理解しているはずではないのか。
誰かのエピゴーネンになる、というのは、一番の罠であり、恐怖だ。誰かの真似の作品で褒められるのと、その人独自の表現で黙殺されるのならば、後者のほうがよほど文学的(嫌いな表現)であり、尊い(これまた嫌いだ)ではないか。
よくある文章の書き方、という指南には、小説で賞を獲るための傾向と対策が描かれているが、これが最早藝術家の考えから程遠い、スーツ族の考え方であり、そのことに気付かない愚かさは悲しさすらあるほどだ。
基本的に、あまり反応がよくないほうがいい文章、ということがあり、本著でも都築氏はネット媒体における反応に関しても同様に語っていて、その言葉は正鵠を射ていると何度も頷いたものである。
まさに、人に理解されるために文章を書くと、それは作文か報告書の何れかになってしまう。その報告書を、面白おかしい記事に変えることができる人は才能があるが、基本的には社内報に尽きる事が多い。
受手・読み手が理解できる文章を書く、というのは重要なことであるが、万人がわかるように書く、ということとはまた別問題なのだが、これを混同してしまう誤謬が彼方此方で発生している。
川端康成はこう言った。「素人は文章を書くときは、素直に、見たままに書くことだ。プロはそれだけでは足りない。」
まぁ、上記は私の意訳だが、彼の担当していた綴方教室において、講評でいつもそのようなことを書いていた。これは、新潮版全集に掲載されている。非常に勉強になるので是非読んで欲しい。
丁寧に、わかりやすく、見たままに。これはいい文章の条件である。
然し、プロ、若しくは文章玄人を目指すのであれば、やはりそれは基本でしか無いのだ。
文章にレイヤーを持たせる。作品を書く際に、汎ゆる文章に幾つもの層を持たせる。多層性を持たせる。それらが有機的に繋がっていて、一つの世界を構築している。
それくらいが最低限の技術であり、テーマなどに関しては何かに仮託して描かなければならない。命がテーマの作品で、明確に『命にまつわる』会話をしてはいけないのだ。
美しいものを書くときは、美しい、という言葉を使ってはいけない。ここが作家の腕の見せ所である。美しい女性が、というと楽だが、何か明確な意図がない限りは、どのような印象で美しさが与えられたのか、それを書かなければならない。
そして、レイヤー。多層性。優れた映画はシンプルであるが様々な暗喩に満ちている。色、背景、演技プラン、言葉、音楽、そして様々な小道具に意味を持たせている。それは、勉強をしていない人には理解できないが、理解できずとも良い映画だと思わせる、若しくは心にささくれを残す。
そして、理解できた時は脳天を貫くほどの衝撃と出来栄えに感動を覚える。
文章も同様である。例えば、文章で言うのならば、川端康成の最高傑作ともいえる(個人的に)、『名月の病』などは原稿用紙4枚か5枚くらいの分量だが、そこには見事なレイヤーが敷かれていて、舌を巻く出来栄えである。
まぁ、完全に話が脱線してしまっているが、とりあえず、右に習えは駄目である。
あいつ、壊れてるな、あいつ、やばいな、あいつ、狂ってるよ。
これくらいが評価としては有り難いだろう。あいつの書く文章は俺にはわからんよ、これがある種最高の評価であろう。
ただ、まぁ下手な場合もあるので、どちらにも転びうる言葉だが…。
まぁ、編集者にせよ、作家にせよ、他人様とは変わっていないと駄目である。
変わりがいない存在が誰よりも強いし、そして、趣味で文章を書く人ならば、一層に自由だ。なのに、認められたい欲によって、逆に文章が不自由になるのは、あまりにも愚かである。
そして、何よりも1人で立つこと。常に全員をぶち殺す構えで文章を書くことである。無論、攻撃性は秘めておいて。
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