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秋の夜長の村上春樹

私は、今までただの1ページたりとも村上春樹の小説は読んだことはない。

今年もノーベル文学賞の候補だと一部界隈で騒いでいて、結局いつものパターンだったようだが、そもそも、私は村上春樹の小説をただの一行たりとも読んだことがないのだから、なんとも判断のしようがないが、まぁ、とにかく、然し、村上春樹の小説を一行たりとも、というのは嘘かもしれない。
なぜならば、よく、なにか雑誌とかWEBの記事とかで、村上春樹の文章を目にすることがあるからである。

それと、村上春樹の文章を真似た、村上春樹っぽい文体。これもよくネット上で見る。それから、メタファーがどうとかいうのも、村上春樹の小説においては重要なことだそうで、なんの苦労もなく美女と寝てやれやれ、というのもお決まりだと聞いている。
どう考えてもなろう系の小説にしか思えないのだが、然し、大変に人気がある。海外でも読まれていて、というよりも、どうやら、その翻訳調の文体は、最初にまず英語で書いて、それを日本語に訳したりしたりする経験から生み出された、的な感じのことをエッセイで語っていたのである。
なので、正確に言うのならば、私は村上春樹の小説はただの一作も読んだことはないが、村上春樹の文章のいくつかは読んだことがある、というのが本来らしい。

なぜ、私が村上春樹について考えているかというと、やはり、秋は藝術的センスが爆発乃至は暴発しそうになり、私のような文学賤民ですら、たまにはハルキストのように、大手を振って日本が世界に誇るという文学者のことを語ってみたくなる、そのような気分がこう、にわかに、にわかだけに盛り上がる、そんな感じ。

いや、お前一度も読んだことがないって書いてるじゃないか、と思われたかもしれないが、最近、私はようやく『ドライブ・マイ・カー』のインターナショナル版を観て、以前観た『バーニング劇場版』と照らし合わせて、村上春樹の世界観って心地良のかもしれないな、と思い始めたからである。

どちらも原作が村上春樹で、1本は日本映画、もう1本は韓国映画で、そのどちらも良質で上質である。映像もキレイでね、なんというか、間延びした時間が続くようでいて、そこは張り詰めた糸の上のようでね、緊張感が常にあるんだけれども、然し、心を追い立てるような演出はなくて、ただただ、個人の魂に迫っていくような感覚。
どちらも映像が美しくてね(大事なことは2回言うよ)。

そういえば、『バーニング』に出てくる超高級マンションの美術は本当にとろけるように洗練されていてね、ぼかぁ腰を抜かしたなぁ。あんな家に住みたい、ってね。え、村上春樹じゃなきゃ無理?そりゃそうよ。でもね、憧れるよ、あんな空気感の家。僕はね、昔から美術館みたいな家に住んでみたいと考えていたんだけれども、ああいう、『陰翳礼讃いんえいらいさん』?的な、まぁ、なんというかね、タニジュンみたいな陰影の美っていうのには、見る分には楽しいけれども、住む分には辛そうではある、とかね、そんなふうにね、思えてしまうんだね。と、私の中の第3の人格が喋りだす。俺たち七人で墓を掘る。まぁ、その『バーニング』のセット美術を見ていると、『パラサイト/半地下の家族』の豪邸のセット美術を思い出したんだよ。プロダクション・デザイナーっていうのはね、映画の骨子を作る仕事だから、やっぱり美術は何よりも大事。

あえてこの部屋でも壁際に足の裏をぴたりとつけて床に寝たい。

で、『ドライブ・マイ・カー』に話を振ると、これはそんな美しい家は出てこないけれども、家が持つ匂いとか時間の流れが、非常に『バーニング』にも『パラサイト』にも似ているわけだ。と、思ったらさ、やはりこの韓国映画2本は同じ撮影監督で、なるほどね、とも思ったね。やはりね、映画は撮影監督ですよ。

それはね、今ならホイテ・ヴァン・ホイテマとかすごい撮影監督の映像は、やっぱり観ていて恍惚としちゃうしね。『アド・アストラ』の、あの美しい映像、本当にキレイでやっぱり撮影監督誰やねん、映画はクソやけどな!ってなるもんね。宇宙で『闇の奥』?コンセプトはいいんだけどなぁ〜。
映画は撮影ですよ、それはヴィットリオ・ストラーロのあの『ラストタンゴ・イン・パリ』のむせ返るようなオレンジ、それから『暗殺の森』の絵画よりも綺麗な青色とか……。

ああ〜デッカードとレイチェル……。

で、村上春樹に立ち返ると、今の話を総括すると、ん?それなら、村上春樹作品と映画の出来は関係ないのでは?と思われるかもしれないが、まぁ、私が言いたいのは、村上春樹、という存在が持つ、なんというか、もはやあの男そのものが既にメタファーになって久しいこの事実が、映画にも通底していて、それを飲み下してみると案外気分がいいという驚きである。
なにか、これらの映画にはどうも発熱の際に飲む風邪薬、或いは座薬的な、そのような効能をもたらす錠剤のようなのだ。村上はるみ、いや、間違った、村上はるみって誰だ、まぁ、村上春樹をただ一度たりとも読んだことのない私ですら、全方位から村上春樹的なるもの、というのが読まずとも理解できる、それほどまでに、村上春樹という存在は、ある種一つの感覚にすら変化しているのかもしれない。まぁ、読んだことないので、読んだら、「なんだこのクソ小説!」となるかもしれないし、反対に、腰を抜かして、「なんまいだぁなんまいだぁ」と念仏を唱えるほどに衝撃を受けるかもしれない。

で、私が読んだ村上春樹の対談で、カーソン・マッカラーズの『心は孤独な狩人』について言及していて、これは自分でもいつか翻訳したいんだわ、的に語っていたが、それが最近書店の本棚にささっていたのである。
発売されたのは3年前なので、全然気が付かなかった。
そう、『The Heart Is a Lonely Hunter』である。

私は、この原作の映画、『愛すれどこころさびしく』が結構好きな映画で、今回調べてめちゃくちゃプレミアついてんじゃん……と慄いたのだった。


ソンドラ・ロックがかわいくてね、大好きな映画だよ。まぁ、変な映画だけどね、でも、なんというか、このタイトルが好きなんだよね。
愛すれど心さびしくっていう、秋の夜の気持ちみたいな、そのタイトルが。



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