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お能な聞書抄 タニザキ秋の変態祭りvol.2 フィーチャリング K.YASUNARI

『聞書抄』は谷崎潤一郎の作品であり、中絶した小説である。

『聞書抄』は今は中公文庫で購入できる。


今作は盲目の法師が語る、『殺生関白』である豊臣秀次の物語である。

まぁ、中絶というよりも、途中で書くのに疲れたのだろうか。まるで『ゼノギアス』DISC2のように、或いは『ネバーエンディング・ストーリー』の映画版のように、それはまた、別のお話。的に終るのである。

谷崎は歴史小説を得意としていて、今作は中々読むのに忍耐力が必要な作品である。青空文庫で今は全部読めるのである。今は著作権が70年守られているが、数年前は50年だった。谷崎は50年の時にパブリックドメイン的になってしまったのである。もう少し遅ければ、2030年代まで解放されなかった。

豊臣秀次は謀反の疑いで高野山に追われて自害して、その妻や子等計39名が三条河原で処刑された。
39名の大虐殺であるが、この大虐殺の悲劇が谷崎の琴線に触れたらしい。谷崎はこの地獄を美しく耽美的に書こうと画策して今作を書いたのではあるまいか。

谷崎は盲人の話をよく描いていて、まずは『盲目物語』があるが、これはほぼひらがなばかりでたまに漢字が入る作品なのだが、ある意味『蘆刈』や『春琴抄』の雛形、パイロット版とも言える。
『蘆刈』は夢幻能の形式を見事に小説化した作品で、まぁ、夢幻能は私の拙い説明で恐縮だが、

①ワキ(旅の僧とか)が旧跡に行きます。
②シテ(主人公)が現れます。夢幻能ではシテは霊的な存在です。ですが、始めは人間の姿であったりして、訳知り顔です。
③前シテ(前半のシテ)がこの場所の縁のことを色々説明します。
④ワキがまた色々歩きます。
⑤後シテ(後半のシテ)先程の人物が本当の姿になって、舞を舞います。

的な流れがベースとしてあり、この『夢幻能』の作り、というのは今作『聞書抄』でも踏襲されている。
『聞書抄』ではワキといえる零落した石田三成の娘に、シテ的な盲人の法師が地獄絵巻を語るわけであるから。

『春琴抄』は鵙屋琴という美しい盲目の女性の愛した佐助の『僕の大好きな人の人生をまとめた冊子』という熱烈な同人誌を発見した人が綴る話、というややこしい構成だが、傑作である。

『春琴抄』のヒントには、盲目の箏曲家の菊原琴治がいる。谷崎の家に稽古に来ていた彼の手を引く娘の初子の姿が、この奇想の始まりのなっているが、作家とは、このようななんということのないところからなんという美しいものを書くものだろうかと思う。
つまりは、世の中には綺麗なもの、汚いもの、様々なものが溢れているが、それらのどれを掬い取り、自らの指先の間から零れ落ちる砂の中から美しいものを濾過させ、現出させるか、それが作家の腕のわけで、ネタとは死ぬほど転がっているわけであるが、表面の上のものを終ぞ人間は選択してしまう。
見えぬものこそ。というのは『ゲド戦記』のコピーであり、この例えは適当ではないが、けれどもけれども、やはり見えぬものこそ、取り出してみせよ、ということだろうか。それをこそ見つける曇りなきまなこを持て、ということである。

息子の映画監督デビューに猛反対していた宮崎駿にこの絵を見せたら黙ってしまった……という設定としか思えない逸話が当時インタビューで語られていた。

然し、『春琴抄』もまた夢幻能的である。ふっと消えるシテのように、物語は唐突に終わりを迎える。不可思議な余韻を残しながら。
『春琴抄』は春琴と佐助の心情が書けていない、とディスられて、谷崎は自身の随筆の『春琴抄後語』において、「あれでもう心理は書けているではないか。」と若干キレ気味に反論していて、読解力のない馬鹿を罵倒している。
谷崎は今作で、「如何にしたら、この物語を本当にあったこと、だと思わせられるだろうか」に腐心して、結果、春琴の墓所を探す人まで出てきたのだから、谷崎の筆の魔力恐るべしである。
心理、というのは時代を超えても普遍的である、というのも一つの事実ではあるが、漫画家のつげ義春はインタビューにおいて、心理ではなく、客観的に書くことがリアリティに近づく、的なことを語っていて、これは『春琴抄』にも通じるだろう。
突き放した方が、現実性と普遍性を獲得する。確かにこれはその通りである。
もう一人のお能野郎、YASUNARI KAWABATAの『隅田川』も謡曲がベースとなっているが、ヤスナリお得意の叙情性が、感傷的な幻想性になり、リアリティが霧散していく。美しいことは美しく切ないのだが……。

三条河原は今ではそんな恐ろしいことがあった痕跡は微塵もないけれども、五条大橋の辺りは処刑場である。血飛沫が飛び散ったことであろう。
木屋町の飲み屋街沿いに、瑞泉寺というお寺があって、そこは秀次や処刑された女性や子供たちが祀られているが、街中にあって門を潜ると大変静かで厳かである。
私は一度そこを訪れた際に、家庭的な声が寺社の中から聞こえてきて、確かインターフォンか何か押したと思うのだが、お寺の人が出てきて、瑞泉寺の小冊子を下さった。これは薄紫色の本で、瑞泉寺にまつわることや秀次にまつわることが書いてあって、大変勉強になる美しい本だった。

秀次の側室候補に駒姫がいる。

美しい駒姫


駒姫は最上義光の娘で、15歳で亡くなった。処刑された。
東国一の美少女であり、彼女は秀次に見初められて、15の時に雪深い山形から京へとやってきた。
この、美しい少女までもが殺されてしまった悲劇は、『聞書抄』では触れられていなかったと思うが、この娘がシテとなり、悲劇を語れば、より美しい作品になったかもしれないなぁとか思ったりした。



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