見出し画像

春が目ざめて


私はイエズス・キリストの花嫁になります。

森が目ざめると、百合はそのように囁いた。夏至の夕暮れ。
森は、百合がジャンル・ダルクを気取るなら、自分はジル・ド・レ候だと思った。お父さんから聞いた話。ジル・ド・レ候はジャンヌ・ダルクを聖女だと思うと同時に、聖なる少年だとも思っていた。所謂、ふたなり。
ジル・ド・レ候は、ジャンヌ・ダルクに付き従って、後年、八百人もの愛した少年を惨殺した。
百合はくすくすと笑って、そのまま林の中へ逃げていった。
まるで、モーリッツだ。だって、ここは王様のろうそくの咲く林の川べりで、彼の自殺した場所にそっくりだ。違うとしたら、使われなくなった教会が朽ち果てていることくらい。森たちの学び舎の裏手にひっそりとある、上級生たちが遊ぶ、寒々しい秘密の花園。ちょうど、下方に校門が見えて、街路樹には青信号が咲いている。
立入禁止のはずだけれども、百合はフェアリーめいて、翅を羽ばたかせながら、ロープを超えて、するりとその石垣の中へと入ってしまった。
森は、お父さんのことを思い出していた。お父さんの悲しい顔を見るのは、森に苦痛だった。然し、自分は劣等生で、昇給試験も難しい。もはや、目の前にあるのは、転校という名の堕天である。何一つ上手くいかなくなったのはいつからだろうか。
ハンノキの林を流れる川べりに腰をおろしてせせらぎに耳を澄ませていると、たちまち銃声が聞こえた。百合だった。手には森と同じく、銀色のピストルがあって、百合は森の横に腰をおろすと、それを見せびらかせた。森もポケットから彼女のものと同じにピカピカ光る銀色のピストルを取り出して、二人してそれを眺めた。
百合が、自殺の計画を立てたのだった。
「ねぇ、こんなところで死ぬの。」
「風情あるじゃん。」
質問には上の空で、百合は森のピストルの先端に、自分のピストルをカチャカチャと当ててみせて、森はその音にカスタネットを思い出した。
百合は森の顔を見つめた。そうして、額に銃口を押し付けると、
「あんた、女の子みたい。」
「お父さんも、そんなこと言ってた。小さい頃。」
「女の子がいるのね、男の子の中に。」
森に、百合が少年に見えるときは確かにあって、それが不思議だった。
然し、その百合はまた、今のように、森が女の子みたいだとも言うのだ。
あべこべである。
森は、お父さんが青い月を彫って作ってくれたピストルを手の中で遊ばせた。もう少し幼い頃には、この銀色のピストルで怪物を相手に闘って、お父さんはそんな森を神童だと言ってくれた。その嬉しそうな顔が嬉しくて、森は何度も引き金を引いたものだが、今はこの指先が重い。
死を選ぶのならば、刃物よりも、ピストルのほうがよっぽどいいと、そう百合が言うのだった。それは、百合が男の子たちの秘密基地にやってきて、ジャンヌ・ダルクのように男子の制服を纏ったあの日、森から取り上げたピストルが、彼女の心を掴んだからだろう。
あれから、だんだんと大きくなって、森はいくつもの本を読んで、彼の読書は、マリア様のお祈りするその横手での日課になった。お気に入りは、ウェーデキントの『春の目ざめ』だった。お父さんに勧められた本。
「『春の目ざめ』。読んでご覧。お父さんの好きな本だよ。」
「『春の目ざめ』って…?」
「少年少女の物語。戯曲だよ。まぁ、悲劇だね。」
「春が起きると、どうして悲しいの?」
森の質問に、お父さんは微笑んで、
「春が目を覚ますと、子供は神様じゃあなくなるから。」
森の聯想は続く。お父さんと林を散歩した折、その姿を見失って、少しの間だけ迷子になった。雨が降っていて、それが森の身体に降り注いだ。森は、自分が怖いもの知らずで、勇敢な少年探偵か何かのように勘違いをしていた。然し、一人になると、猛烈に恐ろしい。森は、熱を帯びた身体を自分自身で抱きしめた。自分の吐息が熱い。その時、自らのgoldenballとcockを握ると、安心した。しばらく一人で震えていると、捜しに来てくれたお父さんに見つけられて、抱き上げられた。安心したよと、そう呟いて、お父さんは森を抱きしめた。森に、その声は二重に聞こえた。それは、今から思えば、ゲーテ乃至シューベルトの書いた『魔王』の声だったのかもしれない。お父さんの腕に抱きかかえられながら見た景色、それは、ちょうど、今この場所のように、ハンノキが群生していたのだった。心細く、お空には星が瞬いていた。雨は、いつの間にか止んでいた。
百合は、大きな欠伸をしている。これから心中をしようとしているだなんて、露にも思えない。
然し、百合はピストルを手にしたまま、ちょうど、瓦礫から覗き込む星々に向けて、引き金を弾いた。
このピストルで自分を撃てば、お父さんは、もう一度だけ、僕を抱きしめてくれますか?だって、そうすれば、僕はまだ目ざめることはないのですから。
森は、天に向かってそのようなことを呟きながら、銃口に触れた。イエズス・キリストの花嫁になりたいのは森の方だった。
曰く、お父さんの言葉をここに記す。
ー『春の目ざめ』とは、美しい少年の最後の一瞬の淡いであって、神童であることからの目ざめでもある。まだいとけなき童話の君よ。ー
お父さんは、幼い僕の中に、貴方を見ていたんだ!
そうして、今はハンノキの王になって、僕にこの銀のピストルを撃たせるのです。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?