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創作のざわめき


松井良彦監督の1988年公開の映画に『追悼のざわめき』という作品があって、これは名実ともに松井監督の最高傑作だろう。
2時間半もの上映時間があるモノクロ映画で、内容は極めてデリケートな素材を扱っている。
この映画には、不具や差別、近親相姦や殺人、強姦、ネクロフィリアなど、
人が目を背ける、蓋をしたがる内容が詰まっている。

然し、この映画の持つ、恐ろしいほどの吸引力は他ではなかなか味わえないものがある。
舞台は釜ヶ崎である。ここをトポスとして、幾つもの愛の物語が描かれる。
二組の兄妹が描かれる。一組は少年少女で、もう一組は小人症の兄妹である。二組は照応するかのように描かれている。
登場人物は全員が孤独であり、ただ彼らの魂だけが白と黒のフィルムの中を彷徨する。その先行きには、常に死が纏わりついている。

一人、際立って美しい少女が、この作品には登場する。彼女には台詞もなにもなく、ただ兄と放浪するだけの存在だが、モノクロームの映像に映るその姿はマネキンよりもマネキンらしく、唇の白いのが美しい。

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この人はこの作品1本だけに出演して、それ以外は出ていないらしい。兄妹で外を覗き込むこのカット、兄はまるで三島由紀夫である(顔が似ている)。

主要人物を演じた仲井まみ子さんが書かれたこの作品に関する思い出の本を読んだが、大抵のカルト映画というのは、現場では意外に和気あいあいとしているものだと、一読して思った。
然し、苛烈な撮影方法が幾度となく繰り返されて、その労苦が画面にもにじみ出ている。演者が皆、大変なストレスを抱えての仕事だったのは想像に難くない。
只撮るだけでは、この異様な世界は幻出しなかったろう。

私は映画という媒体において、傑作を作る核となるものは何なのだろうかと、常々考えてきたが、それは、監督という存在が映画においては、一番肝心要であるというのが、私の認識だった。
映画は、大別すると商業映画と個人映画が存在するが、インデペンデント、自主映画が匂い立つ魅力を放つのは、それは語る必然、作者の熱情が発露しているからである。その人の視線が、宿るからだ
脚本だけでは、おそらくはどんなに頑張っても、80点の映画しか作れないのではないか。特に、商業映画の脚本ならば尚更であろう。それは、客観性と複数の視線により是正されるからである。

だから、監督がビジョンを明確に抱いて、破綻寸前までにいくギリギリの現場……、それに従う現場こそが、奇蹟を手にするのだと……。私はそう思っていた。

例えば、リドリー・スコットは『ブレード・ランナー』で、撮影スタッフと闘争を繰り広げたし、ジェームズ・キャメロンも、『タイタニック』は会社ごと沈没しそうだった。『エイリアン2』でも、スタッフとは揉めた。
最近だと、『マッドマックス/フューリーロード』のジョージ・ミラーも、主演のトム・ハーディをして、何を撮影しているのかわからない、面白くなるとは思えないと、そう言わせるような撮影だったという。

私の一番好きな映画は『ブレード・ランナー2049』であるが、然し、この作品はものすごくスマートに作られたのだという。
ドゥニ・ヴィルヌーブ監督は、全員の意見に耳を傾けて、現場は終始穏やかに進み、大きな問題もなく、あの傑作は生まれ落ちた(勿論、ヨハン・ヨハンソンの降板劇などもあるし、一概には言えないだろうが)。
一家言ある『ブレード・ランナー』ファンへの目配せも忘れない、如才ない仕事ぶりである。
暴君の熱情でしか傑作は生まれ得ないという考えが、間違いであるのだと気付かされて、それは私に深い印象だった。

さて、それでは『追悼のざわめき』はどうであるかというと、これはまぁ、前者であろう。
暴君(というと、語弊があるかもしれないが)の熱情が作る芸術である。
この映画のマーケットは著しく狭い。100人の中のひとりに向けた映画だ。
而してそれは、強固な世界観の反映故の観客の少なさであろう。
けれど、このひとりは強固なひとりで、100人の感想を遥かに超えた愛を映画に捧げる。
100万人に消費される映画よりも、1万人の心に傷をつける映画の方が良いのではないか。
私はこの映画に心を傷つけられたけど、未だ忘れられない。
映画館で見た数多の映画は、もう筋も思い出せないのに。

小説はどうだろうか。

商業作品ならば、編集者というフィルターがあり、読者というマーケットがある。その中のどの沼(マーケット)を狙うかは作者や出版社、編集者の方針によるが、そこには、そのマーケットに向けてのそれぞれの定理が存在する。
方程式が存在していて、そこに落とし込んでいく。そこでは、綴り手の思いとは裏腹の作品を書かざるを得ないこともあって、必然、生理と反対的な作品を書くことで失敗に繋がったり、実力が発揮出来ない場合もあれば、或いは思いもよらず、それが上手くハマる場合もあるだろう。

新人賞へのアプローチも、似たような部分がある。様々な傾向を勉強して、その賞のカラーを研究し、そこに寄せていく……。
そういう話を見聞きすると、果たして、順番が逆になってしまっているのではないかと思えるし、本当に書きたいことがあるのかと思ってしまう。

今は、こうしてInternetが存在し、SNSや小説投稿サイトは、ある種、ごく限られた閉鎖空間であった同人誌よりも遥かにハードルが下がり、いくらでも世に作品を問えるようになった。例えば、このnoteに書いた時点で、作者の方々、作品は、私から見れば、商業作品と変わらないと思う。そうじゃない、というのならば、それは単に権威主義者だと気づくべきである。
苦労(それで食べている)と芸術とは、本来何ら関係はなく、切り離されるべきであるから。

Internetで書くのならば、時間は、無限にある。締切もなにも無い。自由な世界が広がっている。
そして、何十、或いは何百という人が目を通してくれる場所である。
それで、充分ではないのか。

何よりも、他者の視線を、自由に無視できる。ある種、荒野である。視線を書かなければ、意味がないと思う。小説とは、自分であって、他者であるから、傷つかないものは、嘘である。

然し、これも私の思い込みかもしれない。スマートに、様々な意見を取り入れて書かれた、そういう小説を、私が識らないだけかもしれない。



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