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美しき稚き婦人に始まるA感覚童話映画『君たちはどう生きるか』の感想

先日、『君たちはどう生きるか』を初日に鑑賞し、それから、何度も頭の中で反芻する度に、今作はどう考えても、A感覚映画ではないかと、そのように思えてしょうがない。

それを確かめるために、2回目の鑑賞に臨む。その結果、私としては、この映画は測定不能、乃至は70点〜200点を行き来する、曖昧微妙かつ縹緲たる作品なのだということを理解する。

なので、前回の年間採点表に修正を施し、不動の貴族でもあり乞食でもある欄外に置かせて頂く。

まぁ、ここからは観た方だけ読んでいただけると幸いだ。
ネタバレ、というか観ていないと読んでも意味がわからないと思う。
まぁ、観ていても、意味がわからないかもしれない。私はこう観た、というだけの話だ。

さて、A感覚、つまりは、アナルエロティークの感覚、アヌスの感覚。

P感覚はペニス(男性)であり、V感覚はヴァギナ(女性)であることはタルホの読者なら承知のはずだが、今作『君たちはどう生きるか』は彼の著書、『少年愛の美学』的な世界、『山ン本五郎左衛門只今退散仕るさんもとごろうざえもんただいまたいさんつかまつる』同様の、少年のジュブナイルものであり、宮崎駿の幼心の完成である。
藝術とは幼心の完成であり、詩という藝術は女性をベースにした藝術であるが、これに対しての童話は少年から醗酵される藝術だと彼は論じている。
稲垣足穂が言うには、藝術とは、本当の藝術とは自叙伝である。

宮崎駿の作品は、これまでにも少年を主人公にした物語、『天空の城ラピュタ』、『もののけ姫』、『崖の上のポニョ』などがあり、その他にも美少年や美青年が作中には多く登場する。然し、大抵は正当な美少年として物語に置かれるのは主人公か、ヒーローとして登場する少年や男性であり、後はまぁ、基本的には少数のイケメン(『風立ちぬ』の本庄)などを除いて、唯一神として、そこに配置される。『ハウルの動く城』は例外ではあるが、あれもまたA感覚の映画であり、サリマン先生のお稚児さんの少年隊、それからマルクルなど、美少年や愛らしい少年には事欠かない。

今作で、主人公の牧眞人まひと以外の学友のその全ては芋男児として描かれ、然し、眞人だけは、白皙はくせきの美少年として描かれている。
美少女はルッキズムの権化であり、容姿こそが正義である。そして、そこには聖性が必要になる。
反対に、美少年には幾つかの諸条件が必要であり、①両親のいない乃至は片親である、②病気や怪我をしている、③薄命だったり孤独である、など、眞人はそれらを兼ね備えている。
美少年は、平凡で元気な姿のままではいけないのである。それではただの凡夫でしかない。宮崎駿自身、凡夫ではない、天才作家としての自覚がある。
そして、天才以上に聖なるものであること、また、同時に魔王であることが、美少年として必要な素養なのである。もうひとつ、とても大切な素養があるが、ここでは伏せ置く。


そして、この意匠以外にも、1人だけが美しく他は芋、というのは、2時間という劇映画での人物構成や作品の性質などを考えると妥当である。美男、というのは二人といないから美男であり、作中で輝く。然し、それ以上に重要なのは、先程も述べたように、自画像では豚である宮崎駿の自意識がそれら美男子、美少年に仮託されているところに他ならないだろう。
その自意識は『魔女の宅急便』のトンボや『となりのトトロ』の草壁、『紅の豚』のポルコ・ロッソに濃厚に顕れているし、何よりも『風立ちぬ』の堀越二郎はその極点であり、これは最早隠してもいない。濃厚に立ち昇っている。

お父さんの声は糸井重里だ。ジブリはプロの声優を使わない、というが、だからこその味がある。特に、庵野秀明の演じる堀越二郎など最高だと思う。

藝術家の素養の一つはナルシシズムである。そういう点では、鈴木敏夫もまたナルシシズムに満ちているが(最近、大判の自分の本を出した。凄まじい顕示欲であり、今回の宣伝をしない広告、というのは凄まじい自制心と勝算に裏付けられている。とにかく、凄まじい)、宮崎駿はそれ以上に彼の心に美少年を飼っている。つまりは、幼い頃の少年時代の美しい姿の自分だ。
反対に父親の正一はどうなのであろうか。彼は眞人の危機の最中、さながら『八つ墓村』の山崎努の如しゲートルを巻いて、日本刀を手に、白雪姫の七人の老婆(1人は不在)を連れて、もののけインコたちに猪突猛進するのだが、このシーンは2度見ると、やはり眞人の父親だと思える。まっこと似ているのである。

『まひと〜!なつこ〜!』といい、インコの群れに突進するしょういちさんの図。

眞人の父親も良い香水をつけて、仕事ができ、エリートである。彼は息子を愛し、息子はある程度の尊敬を彼に向けているはいるようだ。
今作は母恋いの映画であると同時に、父と息子の同一性の映画でもある。


今までの作品は、女性を聖少女として、ミューズとして描き、その美神がイコンとなって作品内外で崇め奉られていた。
それは、『カリオストロの城』のクラリス、『風の谷のナウシカ』のナウシカ、『天空の城ラピュタ』のシータ、『風立ちぬ』の菜穂子、『もののけ姫』のサン、サンもまた、室町時代の刹那を生きる人間と獣の狭間の存在ではあるが、アシタカは「そなたは美しい」と伝える。

聖少女菜穂子。
もののけ姫サンもまた聖少女であり、聖処女である。宮崎駿の聖処女信仰はある種、両性具有の顕現である。

まぁ、『もののけ姫』は『風の谷のナウシカ』のやり直しなので、結局はアスベルとナウシカでしかないのだが。アスベルとアシタカは声も顔も同じだし。

これらの美少女たちは、『ボーイ・ミーツ・ガール』或いは『ガール・ミーツ・ボーイ』という現代物語の王道でありながらも、本来的には邪道を地で行っているものであり、それは恋愛至上主義で育った近世の多くの観客の心を満たした。

今作はそれとは対象的に、母、という女性を配置しながらも、然し、魑魅魍魎や鳥の化物たちに翻弄される少年だけの世界がある。

『君たちはどう生きるか』、これは宮崎駿の畢生の童話であり、だから、美少年が主人公でなければならなかった。
主人公眞人は、御曹司であり、美しく凛々しい少年であり、負けん気も強く、小狡さもあり、優しさもあり、同時に陰湿な面もあり、ひどく人間的である。作中で言われているように、まことの人であり、彼は前述の『山ン本五郎左衛門只今退散仕る』に登場する主人公平太郎少年と同様、受難を受ける。
この眞(真)の人とは、異界とは別世界から来た人間という意味もあるだろうが、人間的本質としての真の人間、という響きもあると思われる。真の人間は、清濁併せ持つ。それは幼子の頃からそうである。

今作は、美しきいとけなき婦人から始まる。まぁ、実際には冒頭に美しき稚き婦人が亡くなり、その代わりとなる、新しき美しき稚き婦人が現れる。
『美しき稚き婦人に始まる』は、稲垣足穂の30代の時の私小説的な小説である。元々の題名は『山風蠱さんぷうこ』だ。
この作品は稲垣足穂のミューズとも言える女性を描いている。まぁ、描いているといっても、基本的には明石帰郷の不遇の時代を描いた、大枠のピースの一つではあるが。
この美しき稚き婦人である小川繁子夫人は、彼の窮乏時期に住まわせてくれた寺の住職の妻であり、彼女は稲垣足穂の童話集『ヰタ・マキニカリス』の清書のために、原稿用紙を用意してくれた。

稲垣足穂は彼女に対して恐らくは恋心に近しい思慕を抱いていて、彼女と星空の下で散歩した時間を、数多の作品の中で書き残していて、それは、タルホのユリーカと繋がる全ての答えを見つける時間であり、全てそのものである。
稲垣足穂が数多書いてきた作品の中でも、彼女は人格を持つ数少ない女性であると同時、女性を抽象化した少女めいた人である。一個人としての人格を与えられているが、然し印象派のように朧げで未来派のように先鋭的である。これは、今作の婦人(1人は子供)たちにも該当する。

宮崎駿映画において、活劇や冒険は女性に捧げられる傾向が強い。若しくは、聖少女化して描く。聖処女である。処女性、つまりマリア信仰に近い。マリアとは、かつては童貞様と呼ばれていた。童貞は少年であり、童貞こそが両性具有の資格、神話の主人公の資格を得る。

今作はマリア信仰が崩れる。眷恋けんれんの星としての女性である母がヒロインであり、そこには異性としての関係性ではない、まだ母胎の中にいる少年としての物語が展開される。
今作は明確に童話として描かれており、今までの詩想とは異なり、甘い恋心は介在しないし、発展もしない。
明確はヒロインはいない。ヒロインは童貞であり処女である自分自身であるからだ。つまりは、これもまたナルシシズムの形である。

今作『君たちはどう生きるか』は眞人少年の新しい母となる夏子が人力車に乗せられて駅まで眞人を迎えに来る。
美しい女性、母に似た女性、そして、今父親正一の子供を妊娠しており、「ほら、ここ、赤ちゃん。今、お腹に貴方の弟か妹がいるの、私、とても嬉しいの」と、自らの手で導いて、眞人にお腹を擦らせる。
これは、恐らくは宮崎駿映画の中でも最高レヴェルのエロティークなシーンであろうが、この夏子という女性、女性という謎そのものが少年を惑わしかどわかすのである。
この美しい誘惑に、眞人は動揺するが、然し、彼女と慣れ親しむことは選択せず、距離を保ち続ける。

物語は魑魅魍魎にも誘惑されている眞人が、その総本山へと趣き、そこに逝って新たな生命を産もうとしている夏子を助け出す、という軸なのだが、ヒロインは夏子であり、夏子の姉であるひさこの若き頃の娘ヒミ(火魅?火見?)でもあるが、ヒミは夏子の若い頃の瓜二つの姿であろうことも想像できる。何よりも、久子として青鷺が作り出した偽物の器は、産屋で苦しむ夏子と同じ顔である。
姉妹というものは同一人物であり、半神である。夏子と久子は別人格であるが、しかし、同一人物であり、眞人の同一の母である。
同様に、物語の通底した存在だが、最後までパッとしないまま終わった彼の弟も、本来的には眞人の半神であり、彼は自分自身が産まれる以前の、時間が一つになったかのような世界に在する鏡として存在している。
ヒミは物語の最後に眞人を産むことの悦びに感極まり、夏子は作中、眞人のような子を産もうとして心が揺れている。

『君たちはどう生きるか』の1つ目の意味はここではないだろうか。まずは、君たちはどのように生まれてくるのか、その母胎での冒険。
全てが、一つの子宮めいた塔の中で展開していく。
ある種のエロティシズムは、全くの他者ではない、近親姦によって顕現する。それは、息子への思慕、父母への思慕もそうであるし、今作は父親は姉妹を娶るわけだ。全て血族の中にて、今作の重要なピースは構成されている。

さて、『いざなわれ行きし夜』という随筆は、『山ン本五郎左衛門只今退散仕る』の流れを組む足穂の天狗考の一つであるが、天狗は何時でも美少年を拐かし、連れて行こうとする。今作の天狗は、同様に翼を持った青鷺あおさぎが担い、彼は眞人を拐かそうとする。
女人からのいざない、化物からのいざない、この2つが眞人を天空へと導く。

さて、少年愛作品の要素の一つに、弓矢がある。今作では、その弓矢の矢羽に青鷺の落とした羽根を使うのだが、それを矢に取り付けるその際に、お米を咀嚼して糊を作り、それでもって矢に取り付ける誠に美しいシーンがある。眞人は前髪であり、本来、菊座にはネリギであろうと南方熊楠翁や稲垣足穂翁は言うだろうが、宮崎駿翁は、それを米にて代用している。弓道というのは衆道に通じるのである。彼が弓を穿つシーンは少ないが、同性を弓で射ることに対してのその寓話性は、今作に通底する異様なエロティシズムと無関係ではない。
本来的には眞人が弓で射られる立場であるのだろうが、今作では友達である青鷺を射る。
青鷺は友達であると同時に誘拐魔であり、美少年である眞人の尻を狙う怪鳥である。彼からの求愛の経験が眞人を変化させていく。

公開初日に書いた記事に、今作は青鷺を始めとした妖魔たち魑魅魍魎からの眞人への愛の体験だとしるしたが、私が非常に『山ン本五郎左衛門只今退散仕る』の物語が『君たちはどう生きるか』に親しいと思われるのは、その構造もさることながら、眞人自身は至って普通に大人になることを予見させるからだ。

一体、愛の経験は、あとではそれがなくては堪えられなくなるという欠点を持っている。だから主人公たち大抵身を持ち崩してしまう。若し稲生武太夫が至極平穏な生涯を送ったのだったら、それは又それでよいではないか。

『山ン本五郎左衛門只今退散仕る』より

『山ン本五郎左衛門只今退散仕る』の主人公平太郎少年は、この異様な妖怪たちとの七月の経験のあと、山ン本五郎左衛門が残した小槌を振るい再び彼を呼び出すようなことはせずに、ただ、「気が向いたらまたおいで!」とだけ心の中で朗らかに呼びかけて、そうして、後年は立派な侍になり、引用文をもって物語は完結する。

『君たちはどう生きるか』はタイトルにメッセージ性のインパクトが大きいため、それに引き摺られてしまうが、子供の頃の愛の経験を失ってもなお、真っ直ぐ生きていくことになる少年を描いている全うな童話であり、物語は精神的に大人になった眞人が部屋を出るところで終わるわけで、少年が遭遇する一時期の逢魔が時を描くことで、全ての種を明かしてしまっている。
このタイトルは観客への問いかけではなく、過去の自分への呼びかけ、美少年だった頃の自分への呼びかけであり、構造自体がタイトルと連動しているのだ。

大叔父という存在。彼の存在は、様々なメタファーだと言われているが、あれは宮崎駿自身であり、眞人は宮崎駿であり宮崎吾朗である。宮崎駿が父親であるのならば、宮崎吾朗の中に自身の美少年時代を見ていたことは想像に難くない。少年愛の極点は父親が視る理想の息子であり、ナルシシズムである。
然し、眞人は大叔父を拒絶して、自分の道を生きることにするわけであるが、けれども、その拒絶を行う少年こそが美しい聖人であり魔王であるこの矛盾、鳥の糞に塗れながらも母を救い出す自分であり息子であるその美少年の冒険譚は、一つの円環を成して、そしてそれは宮崎駿の自家薬籠中の童話となる。

君たち、とは、自分と息子である。或いは、息子に仮託した理想の自分である。
夏子は、ヒミは、この姉妹もまた宮崎駿である。じっくりと、眞人の美しい寝顔を見る夏子の横顔は、性別が異なるが、父親としての宮崎駿の姿でもある。
性別が異なる自分が、自分を、自分の息子を見ている。作品は、表面だけでは捉えられない。『見えぬものこそ』は、息子の処女作『ゲド戦記』のコピーだったか。

これは美少年考の萃点すいてんとも言える作品だ。

暫定2023年ベスト(映画館で観たものに限る)

測定不能…君たちはどう生きるか

1位:ザ・フラッシュ…96点
2位:ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー.Vol.3…93点
3位:フェイブルマンズ…83点
4位:AIR/エア…80点
5位:スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース…78点
6位:クリード/過去の逆襲…75点
7位:アラビアンナイト/三千年の願い…74点
8位:シン・仮面ライダー…62点


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