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両腕のない女神

ミロのヴィーナスは両腕の欠損があるから美しいと書いたのは清岡卓行である。
清岡卓行は芥川賞作家で、詩人である。
彼の作品、『手の変幻』のそのことが記されているが、私にもふと思い当たることがある。

いや、大多数の方々も同様だと思うが、要は、漫画ばかり読んでいると馬鹿になる、という言葉に通じるものだ。
小説は、空想力を養う。それは、視覚の欠損があるからである。
漫画は立派な表現媒体であるが、個人のビジョンをある種強制的に見せる。それは絵画も同質であり、視覚、という単体の感覚においてはどちらも表現者の作り出した幻想を観ているわけだ。
小説もまた描かれていることは誰が読んでも同じだが、誰もが違う景色を視ている。それは、受け手の想像力、教養、経験により大きく差異が存在するわけだが、映像化される際に、イメージは固定されてしまう。

『ハリー・ポッター』はある種90点のビジュアルを提示したのかもしれないが、その他の『ハリー・ポッター』の可能性を殺してしまった。
受け手は、見たこともない景色を、空想で補う。自然、小説に書かれていないことまでも補完する。
然し、恐ろしいのはその実表現者の方で、美しい文章というのは、大抵の人間が美しいと感じ、美しい情景を個々人で思い浮かべるもののそれは玉響のように意識下で通底している。

欠損、というのは、空想を育む。
今、ヴィデオゲームの世界は日進月歩の末に、どこまでも広がる強制されたビジュアルを獲得した。けれども、30年前、例えば、『FFⅣ』などの攻略本に掲載されていた、どこかヨーロッパの古城の写真、或いは、深い森の中や、どこかの昼間の月は、そこに人物も、説明も何もなくとも、幻想世界を脳内に誕生させていた。
それは、子供らしさの特権かもしれないが、欠損された世界すらも、イマジネーションでより巨大な空想が膨らむものだ。

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そして、そのような話と、清岡の話は少しばかり異なるが、然し、美しい人、得難い人、というのは、どこか歪な所があるものだ。
歪なところには、人はどこか惹かれる。藝術も然り。完璧なものなどはなにもない。完璧なものがあるとすれば、それは、取るに足らないものである。

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