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川端康成の『エンジェル・ウォーズ』

ザック・スナイダーのベスト映画は、と聞かれた場合、個人的には『エンジェル・ウォーズ』を推す。

原題は『Sucker Punch』なので、初めて邦題を聞いたときは衝撃を覚えたが、これは精神病院を舞台にした物語である。
主演はエミリー・ブラウニング。日本人の好みそうな女優さんで、今作ではセーラー服を来て巨大な武者やドラゴンと闘うのだ。

物語としては、主人公のベイビードール(すごい名前だ……)が精神病院に来るところから始まる。
まぁ、説明するのが面倒くさいので、あらすじは調べて頂きたいのだが、今回の売りは多層構造の物語性と、中学生でも赤面しそうなジャパニーズカルチャー&サブカルを詰め込んだゲーム的BATTLEシーンの連続、である。

本作はこの映画の公開前年の『インセプション』のように夢の入れ子構造的な構成を持つ作品であり、精神病院にいたと思ったら実は娼館で、その娼館でベイビードールはダンスを踊れば急に異世界ファンタジーと言うか日本のゲームの世界のような場所で華麗に闘って見せるシーンへと移る。
ダンス=戦闘、という感じ、そしてダンス=性技、という暗喩であり、つまりは性技=戦闘として、主人公やその仲間の女性たちの娼館での日々をファンタジーとして描いているのである。
つまり、セックスとしての戦闘である。彼女は実際にはセックスをしているわけだが、それをダンスとして表現し、そのダンスは異世界ファンタジーでの彼女の活躍となって劇中で描かれる。
然し、本当の場所は精神病院であり、このように心の中だけでも現実を塗り替えないと精神が破壊されてしまうわけである。

個人的にはやっぱりノーランは『インセプション』が最高!『TENET』でもこれでも後半なぜいつもダレるのだろうか……。導入から中盤は神がかっているのだが……。

エミリー・ブラウニングといえば、川端康成の『眠れる美女』が原作の映画、『スリーピングビューティー/禁断の悦び』の主演である。

すごくつまんない映画で途中で寝た。映画版はなんかバイト的な感じで始まった記憶が……。小説は普通に若い娘はみんな寝てるからね、起きないのよ。

退廃デカダンスの極地とも言える、眠る美女を愛でる秘密倶楽部に通う老人の話で、まぁ、川端本人の願望の話なのだと思うが、これはドイツでも映画化されており、古今東西、男の夢、というのは誠にしょうもないものであり、普通に性犯罪組織で破壊されて然るべき場所なのだが、とにかく川端康成は最後には誰かと心中したかったくらいなので(絶筆の『隅田川』で、「若い娘と心中したい」「咳をしても一人」などと宣っている)、こういう謎めいた怪しい部屋で、意識もない若い娘をただ愛でるだけがノーベル文学賞作家の最後の到達点だったわけである。


レイアウト一緒じゃね?

まぁ、エミリー・ブラウニングの映画は完全に失敗である。
結句、川端康成はポロシャツを来て逗子マリーナで自決したわけだが、まぁ俗物であり、孤独だったわけで、彼は、孤独、虚無であることを終始文学として描き続けてきたわけだ。それは、天涯孤独となった『十六歳の日記』から最終作に至るまで、恐ろしいほどにブレない。
日本の美、というのはあくまでも建前であり、描かれるのは常に孤独、それを癒やすための聖少女、或いは野生の少女たちであり、そしてその関係との破綻の予感である。

その極点の一つがこの作品であるのならば、原作同様の孤独な老人、孤独な男性の視点こそが重要であり、美しいものと相対し愛でるうちに破滅的な虚無が顔をのぞかせるという彼の文学の本質を、エミリー・ブラウニングや起きている女性たちが破壊する要素になってしまい、そこに美は顕現しない。耽美派、まぁ、YASUNARIは新感覚派であるが、ぶっちゃけ作風では耽美もド耽美、平気で女性を不幸にしてそれを肥やしにて美を創出するわけであるから、彼の文学においては女性というものはあくまでも人形でなければならないのだ。
全て、末期の眼で天上から見ているのである。
ちよ、駒子、葉子、薫、菊子、久子、町枝、全て、汎ゆる女性たちはYASUNARIの牢獄に閉じ込められて、『エンジェル・ウォーズ』よろしくセーラー服を着せられて戦わせられているわけである。

最終的には中絶した『たんぽぽ』において、その異様な世界はよりグレードを増して、最早肉体もない声だけの世界へと到達しようとしていた。
康成は完全に肉体のエロスは捨てて、魂=声のエロス、つながりへと深化していったわけだ(『みずうみ』において、冒頭、湯女の声に惹かれるシーンもある)。

然し、結局はどれも哀しい孤独な男の虚無を満たすための表現でしかなく、『エンジェル・ウォーズ』も、『眠れる美女』も根底は同じ、寂しさの裏返しの奇想なのである。







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