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スタンド・バイ・ミーとは告白である。


『スタンド・バイ・ミー』が2021年の5/28の金曜ロードショーでリクエスト放送される。

『スタンド・バイ・ミー』はとても好きな映画で、1986年に公開された作品だ。ロブ・ライナーが監督を務め、原作はスティーブン・キングの『the body』、即ち死体であるが、この作品は1950年代のオレゴンが舞台で、
そこにある田舎町、キャッスル・ロックに住む4人の少年のひと夏の冒険である。
新学期の始まる前に、悪友4人で列車に轢かれた死体を見に行こうとシュラフと僅かな金を持って、小旅行に出かける。

この映画を傑作足らしめているのは、やはり作中から匂い立つ郷愁感だろう。郷愁を伴う作品は、どの世代が見ても、そこには強力な引力が存在している。

以下には、ネタバレを書いているので、注意されたい。

『十二歳の頃のような友達ができることはない、もう二度と。』という、
主人公ゴーディの最後の言葉は、誰もが実感として持っていることだと思う。

映画は旅立ちから帰路までを描くが、原作小説はキャッスル・ロックに戻ってからのエピソードも描かれていて、死体を横取りしようとした不良のキーファー・サザーランドをピストルで脅したことで、町に戻るとお礼参りをされて、ボコボコにされる。より、現実的である。
そして、時間は更に進み、ゴーディと親友のクリスは進学校に行き(この時のクリスと勉強時のエピソードがいい)、テディ(眼鏡)とバーン(太っちょ)とは道が別れた。彼らは不良になって、その後大人になり、それぞれの人生を送るが、最後には事故や火事で死ぬ。
クリスは映画で語られる通り、弁護士になるが、喧嘩の仲裁をしたことにより、刃物で刺されて呆気なく死ぬ。
ゴーディだけが生き残り、小説家になり、そしてキャッスル・ロックに戻ってきた際、太って見る影もないキーファー・サザーランドを町中で見かける。
そうして、戻ってきたキャッスル・ロックは少しだけ綺麗になっていて、
そこを流れる川を見て、自分もまた、こうして生きてきたのだと、感慨に耽るというものである。

私は原作の終わり方の方が好きだが、映画版はそれを十二歳の友人との思い出のみに焦点を当てたことで、普及の名作へと変貌した。
そして、この映画の象徴はまさに、リヴァー・フェニックス演じるクリスだろう。
兄貴分で頼りになり、容姿も端麗で、優しい、少年の憧れである。
このような少年は、どこの世界にもいて、彼らは小さな王国のリーダーだった。そのクリスが、作中ゴーディにだけ吐露する胸の内と涙は、彼もまた十二歳の少年であるのだということを知らしめると同時に、ゴーディを、強いては彼に感情移入する観客たちをも特別なものに変えてくれる。

リバー・フェニックスは『マイ・プライベート・アイダホ』などでも
(この時の共演者のキアヌ・リーヴスの美しさは宛らギリシア彫刻である)、存在感を発揮していたが、ジョニー・デップの経営するクラブのヴァイパールームで死んでしまった。
ヘロインとコカインの過剰摂取である。作中のクリスさながらに急に旅立ってしまった。それは、図らずもこの映画における、懐かしい友達を偲ぶことを、この映画を観る折々、人々に疑似体験させる。

作中の主人公ゴーディからは、淡い同性愛にも満たない、友愛よりも幽かだけ深い思いが溢れている。少年が初めに愛するのは母親であり、憎むのは父親であり、そうして、恋するのは友人の少年である。
恋、とは焦がれることで、承認欲求の萌芽であって、誰にでも、大抵は特別な友人がいるものである。
特別な友達に、特別に思ってもらえることは、十二歳の頃だけ、少年の頃だけの特権である。それは、どんな恋よりも清らかである。

ゴーディが森も起きたばかりの朝方、線路に出てきた鹿を見るシーンがある。彼はこの遭遇を自分だけの秘密として大人になるまで胸に抱いてきた。
とても好きなシーンで、私も自分だけの特別な思い出はいくつも隠している。それは他人から見ればくだらないことかもしれないが、だれにも共有しない、神聖なものだ。

彼らはこの二日間で、『死』を経験し、『他者との対立』の最中に置かれ、『友人の人生と悩み』を識る。それは最終的に、全て自分を見つけることに繋がっていく。
彼らは旅先で子供を置いてきて、最終的に大人になる。これはイノセントを殺す旅である。彼らが幸運なのは、その旅にかけがえのない友人たちが一緒にいてくれたことである。

この映画はスターも多く排出した。
キーファー・サザーランドはジャック・バウアーになったし、
ジョン・キューザックはジョン・キューザックになって、たくさんのヒット作に恵まれた。

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