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私の夢  文章について思うこと

兎角言葉に世知辛い時代である。

言葉、というのは刃物であって、上手く扱わないと自分も怪我をする。

私の好きな漫画の『どうらく息子』においても、「噺屋は言葉で商売しているんだ!普段から言葉遣いに気を配れ。どんなに気を配っても配りすぎるということはない。」というようなことを言っていた。


万人が全て受け入れられる言葉などはない。具象を表した言葉もあれば、
抽象を表した言葉もある。それは全て主観によるから、愛一つとっても同一ではない。
言葉を人は幸福にも不幸にもするし、立場を作り、社会を構成し、戦争を起こす。政治家も言葉が武器である。

落語家も言葉に気を遣う職業だが、文章藝術を嗜む人も同様だ。

私はこういう(SNSの)文章や小説は推敲はあまりしないが、メールや手紙は推敲する。読み手が限定されているものに特に気を遣う。少し慇懃無礼すぎるほどだ。手紙やメールの受け取り手を失望させたくない。

誤字脱字、語彙の誤用など、私はよくやるので、気をつけてはいるが、然し間違えて無作法になること多々ありである。私は無学であり、無知である。だから勉強しなければならない……。

小説家を目指す人に重要な資質、それは

①書くこと(それも終わりまで書くこと)
②本を読むこと
③人の話を聞くこと
④意味を察すること
⑤全体を見ること
⑥常に考えること
⑦気を配ること

であるように思う。

つまり、基本的には、生きていくことである。
私の嫌いな、丁寧な暮らし、的な(誤用かな)、文章に丁寧に接するということである(丁寧な暮らしは否定しないが、ていねいな暮らし、と宣言するのは品がないということだ。そして、真に丁寧は暮らしとは人や物事に真摯に向き合うことである)。

全ては繋がっていて、ただ書けばいいわけではない。私は書くのは1割、読むのが9割大事だと思っている。書けば文章は巧くなる。然し、読むのは文章を育てることになる。美味くなるのはよく読むことが肝要だ。

山のように書いても巧くならない人もいる。それは読書が決定的に不足しているからだろう。
小説とは、物語という器の中で、風俗を書くものであって、情緒を書くものである。そして、思想を混ぜて、社会を描き、感情を炙出し、自己の聖魔や根源を辿るものである。
自己を識るためには、たくさんのことを識る必要性がある。

私は読書が嫌いである。好みのものは読めるが、それ以外はなかなか頭に入らない。
世の中の読書家は本当にたくさんの本を読んでいる。一度、どれだけ読んだか書いてみたら自分の読書量がわかるはずだ。小説を300冊読んでいる人間はそうはいない。ここは1000冊は読みたいところである。1000冊読んで、趣味は読書と言えるだろう。

映画と小説の異なるのは、映画は受動のメディアであって、時間がごく一部の例外を除けば、2時間〜3時間ほどで完了する、お手軽なメディアだということだ。まぁ、乗れば自動的に山頂まで辿り着くリフトである。そこから見える景色は、万人に共通だが、幾らでも深堀りはできるし、知識見識のある人には奥の深いものだ。汎ゆる藝術はレイヤーを重ねて創られている。映画もその例外ではない。

そして、小説は登山である。山道は整備されてはいるが、登り切るのは忍耐がいる。

映画と小説との違いを考えると、客層に大きな違いがあるように思える。
つまり、読書家と映画オタクで、映画オタクはとにかく雑食が多く、広くジャンルで映画を観る。無論、作家性なども見るので、監督で観る人もいるが、然し、山のように観る。話題作、名作を手当り次第。これは視聴に対するハードルが極端に低いからである。

然し、小説は濫読する超読者家もたくさんいるが、映画以上に作者志向が強い。気に入った文体、思想の作者を深堀りしていく。

小説は読むのに10時間とか下手したら30時間などかかるので、なかなかハードルが高いのだ。
また、語彙数がないと意味がわからず、さらに文体によっては読み解くのが難しいため、中途で放り投げてしまう。

然し、小説は無限であり、映画は有限である。それは、文体という形を備えて産まれてはきても、朧気な輪郭で触れた人にだけわかる肌触りを持つからだ。映画は、万人が同一の幻想を観るが、小説は万人が違う幻想を抱く、然し、思想は通底している。

文章を読んでいると、それはその人の裸形に触れたような心地だが、それでもなお化粧を纏った文体も山とある。
それらを脱いで、それでいて美しい文章、そういう文章をこそ私は書きたい。それが私の夢で、それはただの一文でも構わない。

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