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【徒然草 現代語訳】第百八段

神奈川県大磯の仏像専門店、仏光です。思い立ってはじめた徒然草の現代語訳、週一度程度で更新予定です。全244段の長旅となりますが、お好きなところからお楽しみいただければ幸いです。

原文

寸陰をしむ人なし。これよく知れるか、おろかなるか。おろかにして怠る人のために言はば、一銭軽しといへども、これを重ぬれば、貧しき人を富める人となす。されば、商人の一銭を惜しむ心切なり。刹那覚えずといへども、これを運びてやまざれば、命を終ふる期忽ちに至る。

されば道人は、遠く日月を惜しむべからず。ただ今の一念、空しく過ぐることををしむべし。もし人来りて、わが命、明日は必ず失はるべしと告げ知らせたらむに、けふの暮るるあひだ、何事をか頼み、何事をかいとなまんむ、我等が生ける今日の日、なんぞその時節にことならむ。一日のうちに、飲食、便利、睡眠、言語、行歩、やむ事をえずして、多くの時を失ふ。そのあまりの暇幾ばくならぬうちに、無益のことをなし、無益のことをいひ、無益のことを思惟して時を移すのみならず、日を消し、月を亘りて一生を送る、最もおろかなり。

謝霊運は法華の筆受なりしかども、心常に風雲の思ひを観ぜしかば、慧遠白蓮の交りを許さざりき。暫くもこれなき時は、死人に同じ。光陰何のためにか惜しむとならば、内に思慮なく、外に世事なくして、止まむ人は止み、修せむ人は修せよとなり。

翻訳

寸暇を惜しむ人はまずいない。重々承知の上で敢えてそうしているのか、それとも単なるバカだからなのか。おバカさんのために云ってあげられることがあるとすれば、一銭は確かに軽い、だがそれを積み上げ積み上げした暁には貧乏人を大金持ちにすることだって出来るということ。商人をご覧なさい、一銭たりとも疎かにはしないでしょう、その心掛けはそりゃもう大したもんですよ。時間もまったく同じ、一瞬は意識すら出来ないほどの間だけれど、その状態がずっと続けば、忽ちのうちにご臨終となるのです。

よって、仏道を志す者は、遥か先々の日々を惜しむのではなく、今、まさにこの一瞬間が無駄に過ぎ去ってしまうことをこそ惜しまねばならない。もし誰かがふいに目の前に現れて、お前の命は今日限り、残念ながら明日はない、と告げたなら、今日一日何を心の支えにして、何をやろうとするだろう、我々の生きている今が、そのシチュエーションとどれほど異なるというのだろうか。その上、生きていれば飲み喰いし、排泄し、眠り、話をし、歩く、そんなどうあっても避けられない事に多くの時間を費やす。しかもそのわずかばかりの空いた時間にさえ、無駄な事をし、益体もない事を云い、愚にもつかない事ばかり考える、そればかりか、一日を空費し、その一日がやがて一月に、そして一月がついに一生となって死んでゆく、愚の骨頂とはこのことに他ならない。

謝霊運という人が支那の南北朝時代にいた、法華経の翻訳を筆写したほどの人物だったが、常にたぎる野心を胸に秘めていたため、慧遠は念仏結社白蓮と交わることを断固として許さなかった。ほんのわずかな間にも、一瞬を惜しむ気構えのない者は死人も同然。一瞬間をなぜそれほどまでに惜しむか、言葉を替えれば、雑念を払い、世の交わりを断って、その段階で満ち足りるのならそれもよし、その先、仏の道を突き進もうとするならおおいに修行せよということだ。

註釈

○商人
読みは「あきびと」。

○飲食
読みは「おんじき」。

○睡眠
読みは「すいめん」。

○言語
読みは「ごんご」。

○無益
読みは「むやく」。

○思惟
読みは「しゆい」。

○謝霊運
しゃれいうん。南北朝時代の詩人。門閥貴族の出だったが、傲岸不遜ぶりが災いし、処刑により非業の死を遂げた。

○慧遠
えおん。南北朝時代の高僧。浄土教の創始者。

○白蓮社
慧遠の結成した念仏結社。


こんな(立派な)こと云う人に限って、よしなしごとを徒然なるままに書き記したり、色恋にうつつをぬかしたりしているもんです。
ご愛嬌ですね。

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