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【徒然草 現代語訳】第百三十七段

神奈川県大磯の仏像専門店、仏光です。思い立ってはじめた徒然草の現代語訳、週一度程度で更新予定です。全244段の長旅となりますが、お好きなところからお楽しみいただければ幸いです。

原文

花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは。雨に對ひて月を戀ひ、たれこめて春の行方知らぬも、なほあはれに情深し。咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ見どころ多けれ。歌の詞がきにも、花見にまかれけるに、はやく散り過ぎにければとも、さはることありてまからでなども書けるは、花を見てといへるにおとれることかは。花の散り、月の傾くをしたふならひはさることなれど、ことにかたくななる人ぞ、この枝かの枝散りにけり。今は見所なしなどはいふめる。

萬の事も、始終りこそをかしけれ。男女の情も、ひとへに逢ひ見るをばいふものかは。逢はでやみにしさを思ひ、あだなる契をかこち、長き夜をひとりあかし、遠き雲ゐを思ひやり、浅茅が宿に昔を偲ぶこそ、色好むとはいはめ。望月のくまなきを千里の外まで眺めたるよりも、暁近くなりて待ちいでたるが、いと心深う、青みたるやうにて、深き山の杉の梢に見えたる木の間の影、うちしぐれたるむら雲がくれのほど、またなくあはれなり。椎柴、しらかしなどのぬれたるやうなる葉の上にきらめきたるこそ、身にしみて、心あらむ友もがなと、都恋しう覚ゆれ。

すべて月花をば、さのみ目にて見るものかは。春は家を立ちさらでも、月の夜は閨のうちながらも思へるこそ、いとたのもしうをかしけれ。よき人は、ひとへにすけるさまにも見えず、興ずるさまも等閑なり。かたゐなかの人こそ、色こく萬はもて興ずれ。花の本にはねぢより立ちより、あからめもせずまもりて、酒のみ連歌して、はては、大きなる枝、心なく折り取りぬ。泉には手足さしひたして、雪にはおりたちて跡つけなど、よろづの物、よそながら見ることもなし。

さやうの人の祭見しさま、いとめづらかなりき、見ごといとおそし。そのほどは桟敷不用なりとて、おくなる屋にて、酒のみ、物くひ、囲碁、雙六など遊びて、桟敷には人をおきたれば、渡り候ふといふ時に、各胆つぶるるやうに争ひ走りのぼりて、落ちぬべきまで簾はり出でて、おしあひつつ、一事も見もらさじとまぼりて、とあり、かかりと物ごとにいひて、渡り過ぎぬれば、又渡らむまでといひておりぬ。ただ、物をのみ見むとするなるべし。都の人のゆゆしげなるは、睡りていとも見ず。若く末々なるは、宮づかへに立ちゐ、人のうしろにさぶらふは、さまあしくもおよびかからず。わりなく見むとする人もなし。

何となく葵かけわたしてなまめかしきに、明けはなれぬほど、しのびてよする車どものゆかしきを、それか、かれかなど思ひよすれば、牛飼、下部などの見知れるもあり。をかしくも、きらきらしくも、さまざまに行きかふ、見るもつれづれならず。暮るるほどには、立てならべつる車ども、所なくなみゐつる人も、いづかたへか行きつらむ、程なく稀になりて、車どものらうがはしさもすみぬれば、簾、たたみもとりはらひ、目の前にさびしげになり行くこそ、世のためしも思ひ知られてあはれなれ。大路見たるこそ、祭見たるにてはあれ。

彼の桟敷の前をここら行きかふ人の、見知れるがあまた
あるにて知りぬ、世の人数も、さのみは多からぬにこそ。この人みな失せなむのち我が身死ぬべきに定まりたりとも、ほどなく待ちつけぬべし。大きなる器に水を入れて、細き穴をあけたらむに、したたること少なしといふとも、怠るまなくもり行かば、やがてつきぬべし。都の中におほき人、死なざる日はあるべからず。一日に一人二人のみならむや。鳥辺野、舟岡、さらぬ野山にも、送る數多かる日はあれど、送らぬ日はなし。されば、棺をひさぐもの、作りてうちおくほどなし。若きにもよらず、つよきにもよらず、思ひかけぬは死期なり。けふまでのがれ来にけるは、ありがたき不思議なり。しばしも世をのどかには思ひなむや。ままこだてといふものを雙六の石にて作りて、立てならべたるほどは、取られむこと、いづれの石とも知らねども、数へあてて一つを取りぬれば、その他はのがれぬと見れど、またまた數ふれば、彼是まぬき行くほどに、いづれものがれざるに似たり。兵の軍に出づるは、死に近きことを知りて、家をも忘れ、身をも忘る。世をそむける草の庵には、閑かに水石をもてあそびて、これを餘所に聞くと思へるはいとはかなし。しづかなる山の奥、無常のかたき、きほひ来らざらむや。その死にのぞめること、いくさの陣に進めるにおなじ。

翻訳

花見にせよ月見にせよ、何も盛りや隈なき姿ばかりを愛でるものとは限らない。雨が降ったら降ったで月が見たいものよと恋しさが募り、引きこもりがちの日々を春の行方を知らないままに過ごすのも、いっそ興が乗るというものだ。ほころびかけた枝や、花の散りしおれた庭などの方が、はるかに見処がある。歌の詞書きにもあるではないか、「花見に出向いたら思いのほか早く散ってしまっていたので」とか「拠ん所ない事情により出掛けることかなわず」とか、そんなふうに詠まれた歌が、「花を目にして」と前置きして詠まれた歌より劣っているなどということがあろうか。散った花、傾いた月を見て感情がゆさぶられるのは人のならいではあるけれど、朴念仁に限って、この枝もあの枝もすっかり散ってしまった、これでは見てもしょうがない、などとぬかすようだ。

森羅万象、始めと終わりにこそ心惹かれる。男女の仲にしてからが、ただ逢って睦み合うことだけが恋愛じゃない。逢いたくて逢えなかったことの辛さ、儚い約束に嘆き悲しみ、長い長い夜をひとりぼっちで過ごし、遠く離れた恋人への想いが募り、荒れ果てた家を前にかつての恋の追憶に浸る、こういった心情に加担できる者が恋愛上手というものだ。曇りなき満月に照らされた千里の道を眺めやるより、待ちわびた月が明け方にほれぼれするよな姿を見せてくれ、蒼みがかり、山深い杉の梢から光が洩れている、もしくは先ほどの俄か雨を降らせたむら雲の隙間からちらりほのかに見えている、こういった風情はこの上なくそそられるではないか。椎の木や白樫の艶やかな葉の上に、月光が煌めいている、身に沁み入るようだ、ああこんな時この想いを共有出来る友が傍らにいてくれたら!と、つい都を懐かしんでしまう。

そもそも月であれ花であれ、目で見ることだけに重きをおいているのが納得いかない。春は家から出ずとも、月夜は寝ながらにして、それぞれに想いを巡らしているだけで実に心満たされるもの。心ある人は、殊更に好き好きと大騒ぎせず、情緒を解してもあくまでさらりとしている。洗練されていない田舎もんに限って、ああでもないこうでもないとはしゃいで面白がってばかりいる。満開の木の下ににじり寄り、まんじりともせず凝視していたかと思えば、酒をかっくらいの連歌三昧、挙げ句見事な花咲く枝を無神経にも折り取る狼藉に及ぶ。泉に手足を突っ込み、雪にはばたばたと足跡をつけてまわる等々、そっと眺めるという姿勢とは無縁なのだ。

こういう無粋な輩が葵祭を見物している珍妙さ加減といったらなかった。肝心の行列がえらい遅れだ。それまでは桟敷なんぞ要らんわ、とばかりに桟敷奥の部屋で呑んだくれ、ガツガツ喰い散らかし、碁や双六に打ち興じ、桟敷席に立たせている見張り番が、行列が参りますよ!と知らせるや心臓をバクつかせながら全速力で我がちに桟敷席に駆け上がり、ギリギリ桟敷から落ちるくらいまで簾を張り出させ押し合い圧し合いしながらひとつたりとも見逃すまいと目を見開き、ああでもないこうでもないと行列の細かいひとつひとつにいたるまで寸評し、いざ行列が行き過ぎてしまえば、じゃ次を待つとするかと奥に引っ込んでしまう。こやつらは単に行列を見物したいだけなのだ。方や、都の高貴な方々は、うとうとしながらつぶさに見ようともしない。若輩かつ下々の者は、お仕えするのに忙しく、後ろに控える従者もはしたなく人にのしかかるようなことはしない、無理してまで見ようとする者はいないのである。

そこかしこにさりげなく葵を掛け渡しているのはなんとも典雅、夜が明け切らない頃合、忍びやかに渡ってきては桟敷に近づいてくるゆかしげな車に、何方が乗っておられるのかしらんとそぞろに胸が騒ぎ、ふと見れば牛飼いや下僕には知った顔もいたりする。優美かつ綺羅綺羅しい車が行き交うのが、夢見心地にさせてくれる。日暮れ時になれば、立て並べてあった車も、犇めきあっていた人々の姿も、何処へ消え去ったのか、ほどなくまばらになり、車たちのざわめきも止んでしまえば、簾も呉座も取り払われ、みるみるもの寂しい景色になってゆくのも、この世のあり様を映しているようでいやおうなしに込み上げてくるものがある。行列のみ見るのが眼目ではない、一連の大路の移り変わりを眺めてこそ、葵祭を見たと云えるのだ。

あの桟敷の前を行きつ戻りつする中に顔見知りがいたりしたことから、解ったことがある。世間の人の数もさほど多くはあるまい。仮に彼等が皆この世を去った後で自分が死ぬという宿命だったとしても、程なくその時はやってくる。大きな噐に水を張り、ほんの小さな穴を開けておくと、水の滴りこそ僅かなものだが、間断なく洩れ続けてゆくならば、たちまち噐は空になるだろう。都は人口が多く、人の死なない日はない。それも一人や二人というはずがない。鳥野辺、船岡、その他諸々の名もなき山に、何人もの人を葬る日はあっても、一人も葬らないという日はない。そんなわけだから、棺屋は作り置くいとまもあらばこそ、作るはなからさばけてしまうのだ。若いも強いも関係ない、誰にも予測出来ないのが死ぬ時である。どうにかこうにか今日まで生き長らえているのは、奇跡以外の何物でもない。だとすれば、しばしこの世をのんびり過ごそうと思っても赦されるのではないか。綴子というものを碁石で作れば、作った時点ではどの石が取られる羽目になるのか判るはずもないが、数え当ててそのうちの一個を取ってしまえば、その他の石は取られずに済んだと胸を撫で下ろすけれど、再び数え当て数え当てし、この石あの石と抜いてゆくうちに、どの石も抜き差しならないこととなるのによく似ている。兵士が戦場へ赴く際には、自分が今まさに死と隣り合わせているという強烈な自覚があり、家も身も頭から吹っ飛んでしまう。一方で世捨て人の庵では、のほほんと庭いじりなんぞして死は所詮他人事、死?何それ?という顔をしているのはなんとも浅はかで情けない。山深い静かな棲家、そこにも無常の敵、すなわち死がやってこないことがあろうか。死が目前に迫っていること、それは出陣する兵士と同じ境遇なのである。

註釈



兼好法師のいいところが全部出ている、「徒然草」最長にして最良の段です。

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