【徒然草 現代語訳】第九十三段
神奈川県大磯の仏像専門店、仏光です。思い立ってはじめた徒然草の現代語訳、週一度程度で更新予定です。全244段の長旅となりますが、お好きなところからお楽しみいただければ幸いです。
原文
牛を売る者あり。買ふ人、明日その値をやりて、牛を取らむといふ。夜の間に、牛死ぬ。買はむとする人に利あり、売らんとする人に損ありと語る人あり。
これを聞きて、かたへなる者のいはく、牛のぬし、誠に損ありといへども、又大きなる利あり。その故は、生あるもの、死のちかき事を知らざること、牛既にしかなり。人また同じ。はからざるに牛は死し、はからざるに主は存せり。一日の命、萬金よりも重し。牛の値鵝毛よりも軽し。萬金を得て一銭を失はむ人、損ありといふべからずといふに、皆人嘲りて、その理は牛の主に限るべからずといふ。
またいはく、されば、人死をにくまば、生を愛すべし。存命の喜、日々に楽しまざらむや。おろかなる人、この楽を忘れて、いたづかはしく外の楽しびを求め、この財を忘れて、あやふく、他の財を貪るには、志、満つることなし。生ける間生を楽しまずして、死に臨みて死を恐れば、この理あるべからず。人皆生を楽しまざるは、死を恐れざるが故なり。死を恐れざるにはあらず、死の近きことを忘るるなり。もしまた、生死の相にあづからずといはば、実の理を得たりといふべしといふに、人いよいよあざける。
翻訳
牛を売る者がいる。買う人は、明日代金を支払い、牛を引き取ろうと云う。ところが、当の牛が夜のうちに死んでしまった。この場合、買おうとした者に利があり、売ろうとした者は損をした、と語る人がいた。
この話を傍で聞いていた人が、牛の売り主は確かに損をしたことになるが、同時に大きな利を得たことにもなる。何故かと云うに、生きている者で自らの死が近いことを知っている者がいないのは、この牛がいい例だろ。人間だっておんなじだ。思いがけず牛は死に、思いがけず持ち主はまだ生きている。一日の命は金に替えられない。牛の値段なんぞは、鵝鳥の羽根ほどもない。万金に価する利を得たのだから、たかだか一銭ぽっちの金を失ったところで、損をしたと云うのはおかしい、と講釈を垂れると、その場の者は皆嘲笑し、そんなもん、なにも牛の持ち主に限ったことじゃないだろが、と云った。
そこでまたさっきの講釈垂れが、つまり私が何を云いたいかというと、死を嫌うより、生を愛せということ。生きていることの喜びを日々満喫しなきゃいかんということなのだ。愚か者に限ってこの楽しみを忘れ、わざわざ外部に享楽を求め、持てる宝のことなんぞ脳裏の片隅にもなく、軽々しく他所の財を貪ってばかりいる、これではいつまでたっても満足するはずがない。生きている間に生を存分に楽しまず、死に及んでそれを怖れるなら、これを矛盾と云わずしてなんと云おう。誰一人として生きていることを思い切り楽しまないのは、死を怖れない、いや正しくは死の近いことを知らないからだ。とは云うものの、中には生や死の境地から脱却している人もいる、そういう人を悟りを開いた人というんだな、とわけのわからない能書きを並べ立てたので、周りはますますどっと吹いた。
註釈
○いたずかはしく
いたずく=骨折るの形容詞形。
どーなんでしょ、この段。
兼好が、講釈垂れた奴を嘲った側に立っているのか、講釈垂れに基本同意しているのかが、何度読んでも今ひとつピンと来ないんですよねー。自家中毒というか、そもそも文章の切れが悪い。
おそらく後者だとは思うんですが、論語風な仕立てでお得意の「メメント・モリ」ネタを書き進めてゆくうちに混乱をきたし、うまくまとまらなくなって投げ出した感なきにしもあらずです。
要は説教に向いてないんですね。
追記
子供の頃、「人は死んだらどうなるの?」と訊ねたら、「蝶々になるんだよ」と教えてくれた人がいました。蝶々になるんなら死ぬのも悪くないな、と思いました。