【徒然草 現代語訳】第八十九段
神奈川県大磯の仏像専門店、仏光です。思い立ってはじめた徒然草の現代語訳、週一度程度で更新予定です。全244段の長旅となりますが、お好きなところからお楽しみいただければ幸いです。
原文
奥山に猫またといふものありて、人をくらふなると、人のいひけるに、山ならねども、これらにも猫のへあがりて、猫またになりて、人とることはあなるものをといふ者ありけるを、何阿弥陀佛とかや、連歌しける法師の、行願寺の邉にありけるが聞きて、ひとりありかむ身は心すべきことにこそと思ひける頃しも、ある所にて夜更くるまで連歌して、ただひとり帰りけるに、小川のはたにて、音に聞きし猫また、あやまたず足もとへふとよりきて、やがてかきつくままに、頸のほどを食はむとす。胆心も失せて、ふせがむとするに、力もなく、足も立たず、小川へころび入りて、助けよや、ねこまた、よやよやと叫べば、家々より、松どもともして走りよりて見れば、このわたりに見しれる僧なり。こは如何にとて、川の中よりいだき起したれば、連歌のかけものとりて、扇、小箱など懐に持ちたりけるも、水に入りぬ。希有にして助かりたるさまにて、はふはふ家に入りにけり。
飼ひける犬の、暗けれど主を知りて、飛びつきたりけるとぞ。
翻訳
奥山に猫またという妖怪がいて、人を喰うんだってよ、と誰かが云うと、いやいや、山ん中だけじゃなく、ここいら辺でもうんと長生きした猫が猫またになって、人をとり殺すことがあるらしいじゃないか、と云う者もいた、そんな頃、何々阿弥陀仏とか名乗っていた連歌をたしなむ坊さんで、行願寺付近に住んでいた人がその話を耳にし、一人歩きをする私のような者はくれぐれも用心せねばと思っていた折も折、某所で夜更けまで連歌を楽しみ、一人きりで帰宅する途中、小川のほとりで、聞き及んでいた猫またが、狙い定めたように足下にすっと寄ってきて、やにわにまとわりついた挙げ句、首筋に噛みつこうとした。すっかり魂消た坊さんは、防ごうとしたものの、足腰が抜けてしまい、小川にまろび入って、助けてくれー!猫またじゃー、おおいおおい誰ぞおらんかー!と叫び声をあげると、近隣の家々から松明を灯して駆けつけた住人たちが走り寄って灯りに照らして見たところ、顔馴染みの僧侶だった。こりゃまたいったいどうしたことで、と川底より抱き起こしたら、連歌の賞品、扇や小箱を懐に入れていたのが、すっかり水浸しになっていた。奇跡的に命拾いした坊さんは、ほいほうのていで自宅に辿り着いたという。
なんのことはない、飼い犬が、暗い中にも飼い主を見分け、飛びついただけだったそうだ(ちゃんちゃん)。
註釈
○行願寺
ぎょうがんじ。天台宗の寺院。
○小川
読みは「こがわ」。いわゆる小川(おがわ)ではなく、こちらは実際にある川の名称。
幽霊の正体見たり枯れ尾花。
定家の「明月記」にも猫また(表記は「猫胯」)は登場します。
今で云う都市伝説って、この頃(鎌倉時代中期)から口にされ始めたのかもしれません。
それにしても、犬は喜ぶとワンワン吠えるので、気付きそうなもんですけどねぇ……。
追記
連歌って、賞品が出てたんですね。ま、あれはゲームの一種ですから、ある意味賭事だったのかも。