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試しに、背中あわせで話すってのはどう?

真正面から向き合うって、すごく大変だ。緊張するし疲れるから。
正直のらりくらりと避けていきたいものである。

だけど、向き合いおわってみると新たな発見があったり、気持ちがスッキリしたり、いつもの景色が違って見えたりするから、なんだか憎らしい。
まぁ、私のこの人生で誰とも何事とも向き合う事なく生きていくのは、私が吉岡里帆に変身するらい無理だってこともわかっている。

向き合う相手はいろいろだ。
家族や恋人友人などと呼ばれる「人」や、操作方法がわからない機会のような「(物理的な)モノ」、またあるときはグルグルし続ける思考のような「抽象的なこと」なんてこともある。

抱えている問題や課題を考えるだけで、いや、考えようとする段階で、一種の緊張感のようなものが頭と体を一足先にかけめぐる。
そして向き合う時間が長くなると頭も気持ちも疲弊してくるし、ぐったりと疲れた感覚になる。
自分にとって重要度や影響が大きければ大きいほど、疲労感も大きくなるように思う。

これまで私は、「もう嫌だな〜全部どうでもいい」と投げやりでネガティブな言葉で頭を埋め尽くして、「いま私は大変な立場に立たされていてこれは自分の本意じゃないんだ、本当はもっと・・・」
そう考えて自分を正当化して保とうとしていた。
そう思い込んで自分の気持ちをどこかエスケープさせていた。

だって、そう思っておいた方が楽だから。
誰かのせいにしたほうが楽だから。

でも気づいたんですよね、
それじゃあ解決もしないし何も進まんぞって。

とっておきの解決策がある。
そう、どれだけ嫌でも、面倒でも、対峙すること。
(言うは易し、行うは難しとはこのこと・・・イヤよねぇ)

こう書いていながら、逃げたくなる「向き合わなければならんこと」が断続的に筆者のところには訪れる。なんで??と問いたくなるくらい。
だけど最近は「向き合う」に対して、前よりは少し気が楽になっているように感じる。

そんな私の頭の中は、

極論、自分以外の人はもれなく皆が「他人」であり、「管轄外」だということ。

人であれば、たとえ家族であっても、大好きだから全てを知り尽くしているぞ!と普段はそう思っているような相手であっても。

自分の気持ちですら訳がわからなくなることがあるのだから、他人となればきっと宇宙のカケラくらいしか分かってあげられない。
これは悲観することではなくて、肯定的に捉えたい事実。

モノに対しては、自分が研究開発して発明して、創り上げたわけじゃないのだから「知らない・わからない」が最初にきて当然。それで大丈夫。

自分を含めた人のことも、世に存在している物事のことも、
これから知っていけばいいし、知ろうとしていけばいい。
知りたくなれば「向き合うこと」がきっと自然にできるから。

心で感じる距離感を直感のバロメータにして、そのときに必要な人・物事と向き合えばいい。

そして、もうひとつ、「真正面から向き合う」と冒頭に書いたけど、別に真正面じゃなくてもいいじゃない。
横並びでも、斜め45度からでも、そうやって向き合ってもいいじゃないと思うの。

何かの記事で読んだ、「初デートはテーブル席で向き合って食事して会話するより、カウンター席で横並びの方が心理的に近づくことができる」って。

私はこの説に共感派である。
相手から顔をじーっと見られていたり、相手の顔をずーっと見ていると、話したいネタが飛んでしまう感覚を味わってきたから。
夫との初デートはカウンター席の鶏屋さんで大変心地よかったなぁ。(笑)

あっ。えーっと、つまり、
向き合う方向や角度は自分で選んで、出来るところからでいいじゃないってことが言いたかった。

こりゃダメだ!ってときは堂々と逃げて、時々は向き合ってみる。
またちょいと逃げたら、またちょいと向き合う。
心のバロメータと一緒に、そんな感じで生きていけたらいいな。


追伸.
向き合うものが物理的なモノ(例えばPCとか、イラレとかそういうもの)だったら、背中あわせで向き合ったところで解決できないんだったな・・・
タイトル気に入ったから修正しないことにした。(笑)


今回もここまで読んでくださった方、ありがとうございました。
また次回の記事でお会いできたら嬉しいです。

おわり









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