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「(文系の)『大学教員』になりたい大学教員は社会的に害悪」という記事を文系大学教員が読んだ感想

ある記事を読んだ。言い争うつもりは毛頭ないので引用はしない。その記事の筆者は、概ね以下のように述べる。文系という学問の大半は、図書館と議論する相手さえいれば成り立つ。真理を探究し社会の構造そのものに異を唱えることがそもそもの学問の目的なのだから、雑務の多い大学に所属する必要などない。生活保護を受けながらでも精力的に取り組むくらいの気概が必要。そういうわけで、金銭的にも恵まれ教育にも大学業務にも携わらなければならない「(文系の)大学教員」になりたい研究者など、社会的に害悪でしかない。

私は文系の大学教員である。「大学教員」を目指して何とか今の座を射止めた経験がある。上記の記事によれば「社会的害悪」の部類だ。一方、研究者の端くれとして自分の仕事には誇りを持っている。大学教員としての身分が研究にブレーキを掛けていると感じたこともない。記事を読み、自分の感覚とかけ離れている部分を感じ、気持ちが冷めぬうちに書き留めたいと思った次第だ。ただ、冒頭でも述べたように、言い争うつもりはない。誰がどう思おうが個人の勝手だと考えている。批判も反論もあろう。

文系の学問は、理系と比較すれば大掛かりな設備等は確かに必要ない。研究課題も分かりにくいものが多い。しかし、それでも図書館と議論相手だけで完結するだろうか。私の分野では無理だ。統計やアンケートは必須であり、海外の国を研究対象としているため現地でのフィールドワークも必要だ。今日の研究は、文系であっても「日本のことだけやっていればよい」というのは稀だと思う。各国との比較の中で日本を相対化することが求められる。外国のことは本だけではかり知ることはできない。実際に足を運び、人と接し、雰囲気を感じ、それらを日本と比較しながら研究成果を分析する必要がある。研究対象が日本の場合ですら、海外の研究者らの知見を欠かすことはあり得ない。図書館の中だけで、そして仲間との議論だけで事足りる学問のほうがむしろ少ないのではなかろうか。

学問の究極の目的は真理の探究である。一般的には、確かにそうなのだろう。正直なところ、学問で食っている身の割にそのような自覚はほぼない。私の意識が低すぎるだけなのかもしれないが。

私は、研究としての学問は宝探しのようなものであると考えている。自分が興味をもったテーマが社会の真理の一側面を構成しているのか、はたまた社会構造を根本から変えることに資するものなのか、研究開始時にはわからない。ハズレの可能性だって十分にある。結局、指導教員や先人たちの知恵を借りながら、自分が興味をもったことがアタリだと仮定して研究するのだ。しかし、それに先行して面白いから研究する、これに尽きる。大それた自覚もない自分に対して、「お前の学問の目的は真理の探究だろ!しっかりせい!」と言われてもあまりピンとこない。興味を持ったことをひたすら追求する、運が良ければ自分の研究が真理の一側面をとらえているのかもしれない。学問とはこういうものではなかろうか。2016年にノーベル賞を受賞した大隈氏は、「”役に立つ”という言葉は社会を駄目にする」と語った。名言であると思う。役に立つかどうかわからないが、とにかくやってみる。これが学問、研究の本来の姿ではなかろうか。

記事に話を戻す。一番問題だと感じたのは、「最悪生活保護を受けてでも学問をしようとする」気概を重要視している点だ。

率直に言って、私は、これはあらゆる研究者に対する侮辱のように感じた。上記の言説の裏を返せば、(特に文系について)最悪生活保護を受けてでも学問をしようとする気概をもった大学教員などいないことになる。しかし、私は(文理問わず)現職の大学教員のほとんどが、大学教員の座を射止めるためにここで「最悪」とも表現されている生活保護以下の水準の生活を耐え忍んできたことを経験的に知っている。少なくとも、学問に対して並々ならぬ情熱がなければその期間を乗り越えることはできない。この苦境の期間とは、主に博士課程・ポスドク・公募戦士の期間である。博士課程在学中はおよそ75%が無給か年収50万円以下である。生活保護の水準にすら遠く及ばない。一人暮らし院生の多くは、アルバイトをしながらその月暮らしの生活をしている。親の支援が望めない場合、そのような院生は下手をすると修士課程時代から、こういった生活をすることになる。私も、この期間のことはよく覚えている。自分を支えていたのは学問への情熱に他ならない。運よく学振の特別研究員に採用されたとして、ようやく生活保護に毛が生えたレベルの生活を送ることが可能となる。博士課程修了後、うまいことポスドクの食い口が見つかれば幸運だ。しかし基本的には公募戦士まっしぐらである。この間、生活の保障はない。なんとか非常勤の口を見つけるかアルバイトでギリギリ食いつなぎ、疲労困憊の中で研究を進めるのだ。

現在大学教員をされている方のほとんどは、みな「最悪生活保護を受けてでも学問をしようとする」くらいの気概は持ち合わせている。そして実際にそのような厳しい水準の生活を経験している。さらに、そうした生活を経験した者全員が無事大学教員になれるわけではない。現に、ぎりぎりの水準で生活の中で何年間も学問をしている人は数えきれないほどいるのだ。

さて、そのように必死に大学教員を目指すわけだが、無事達成できたとして、大学教員としての地位が研究に与えるメリットはないのか。記事によれば、教育と学内業務に忙殺され研究など進まず、意欲も低いらしい。換言すれば、大学ならではの特徴を研究に生かしている人は非常に稀ということだ。本当に稀なのか。

私は、教育活動に携わる中で学ぶことが多い。授業を準備している中で改めて勉強することもあれば、学生からハッと気づかされることもある。研究で頭が固くなっている私にとって、柔軟な発想に基づく意見は非常にありがたい。学内業務は確かに研究時間を割かれる。一見マイナスだ。一方で、業務をしているときは他の教員と関わることも多く、様々なことを語り合う機会となる。共同研究の話や共著の話がでることもある。かならずしもマイナスばかりであるとは言えない。教育も学内業務もマイナスばかりではない。外部の人はマイナス面ばかり指摘するが、捉え方・意識の向け方によっては十分研究のうま味になりうる。

加えて、大学教員になった暁には様々な研究助成に挑戦できるようになる。大学によっては個人研究費もでる。研究を前進させるうえで最も重要な部分だろう。先にも述べたが、研究には文系であってもどうしても金がかかる。私も、先述のように研究の性質上海外での調査は必須だ。資料を得るためのデータベースの取得や日本の図書館には所蔵のない雑誌の購読にも金がかかる。図書館をフルに使っても年間ウン十万ではきかない。それを私費ですべて捻出し、かつ時間も確保せねばならない場合、これは現実的にどうなのだろうか。会社勤めでは時間的に厳しい。フリーターでは金銭的に難しい。フリーランスか起業すればあるいはなんとかなるかもしれない。それかやはり生活保護か。受給要件を満たす必要があるが。一方、大学教員であれば、授業をせずまとまった時間をとれる期間(夏季休暇、春期休暇)がある。様々な業務との調整は必要だが、その期間に向けて国内でできることをし、一定期間海外で調査をすることは十分に可能だ。研究をするうえでこれ以上ない環境であろう。サバティカルなど研究を前進させるための制度もある。

記事の筆者は、このように大学ならではのうま味を活用して研究を前進させる教員は好意的に評価している。しかし、そのような教員は「非常に稀」だそう。どれくらい稀なのだろうか。私は狭い世界の中で生きている人間なので一般化することも断言もできないが、少なくともこれまで所属した研究機関においては大学のうまみを十分に活用している方のほうが多数派であった。

当然、大学教員も人間だ。比較的収入的に恵まれ社会的にも恥ずかしくないこの職は、俗的な意味でも目指し甲斐がある。しかし、そのことと学問や研究への姿勢を混同されては困る。研究への情熱を維持している人は少なくないし、維持しなければ論文なんて書けない。確かに、一部で意欲を失い屍同然の大学教員はいる。しかし、それを「文系の大学教員」と一般化されることに対しては反感を覚える。

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