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グラフィック・デザイナー(50代)の苦悩 テーマ#01  存在が薄まっていく怖さ

みなさん、こんにちは。フリーランス・グラフィックデザイナー(50代)のブブチチと申します。デザインを生業にして30数年。気がつけばシニアと呼ばれるにふさわしい年齢になっていました。noteでは、デザイナー人生においての出来事や学んだ事を自身の体験を交えながらつらつらと自由に書き連ねています。お時間ございます時にゆるくご一読いただければとても嬉しく思います。

さて、何から書き始めようかなとipadを手に取り、うぬぬぬと考えていたら良いテーマを思いつきました。今回は「怖さ」について少し考えてみたいと思います。

フリーランスのシニア・デザイナーには様々な「怖さ」が存在すると思います。

代わりの若いデザイナーなんて幾らでもいる怖さ。衰えていく身体パフォーマンスとはうらはらに何かあっても誰も助けてくれない怖さ。世間から見ればいい歳なのに社会的信用はゼロの怖さ。集中力の持続時間が短くなってきた自覚がある怖さ。金曜日夕方に依頼があったのに月曜日朝にはラフデザインが欲しいと要求される怖さ(これはシニアとか関係ないか(笑))・・etc

挙げ始めたらキリがありませんが、なかでも僕が一番怖いと思っているのがタイトルの通り「存在が薄まっていく」ことなのです。

過去の事例や経歴は何の役にも立たない

若い担当者やクリエイターが次から次へと生まれくる飽和気味のこの業界においては、望む望まざる関係なく世代交代はどんどん行われていきます。言うなれば僕と言う人間を知っている人の濃度が刻一刻とどんどん薄まっていく進行形の状況。これはもう死活問題です。だって、発注先として検討されるどころか、気がつかない間にそのリストの中からさえも消えているのですから。

恥を忍んで打ち明けますとフリーランスになったばかりの頃、勘違いしていたというか、はたまたうぬぼれていたというか、僕はしばらくの間、自分の過去の事例や経歴に依存してしまう過ちを犯していました。それはどういう事かと説明しますと、30年以上もデザイン業界で活動していれば露出が多くそれなりに評価してもらえた大きめのお仕事の担当であったこともひとつやふたつあるわけです。いわばデザイナー人生栄光の瞬間。で、歳をとればとるほどに、どうしてもその過去の栄光が忘れられなくて依存してしまいがちになります。「みなさんもよくご存知のあのデザインをした僕です!」なんて。頭の中お花畑状態。もうもう、今考えても恥ずかしい。

僕がやってきた仕事どころか、誰も僕になんて興味ない。

という事に気がつけたのはいつの頃だったかな(苦笑)。少し自虐的に聞こえるかもしれませんが、その自覚は絶対に忘れちゃいけないと常々思っています。過去の事例や経歴で誰かの記憶の中に残り続けたり、受け継がれるなんてことは余程のことがない限り期待しないほうがいいんじゃないかな・・・。

過去よりもこれからの心配りや気遣いを大切に

「この案件はブブチチさんにやってもらおうか」

そんな風に検討してもらえるリストの範囲内にいかにして踏みとどまり続けられるか。仕事を前提にもっと欲深くいえば、出来るだけ多くの人のリストの中にとどまっていたい。切実な本音。

もちろん、肝心の依頼された仕事においては自分の能力の限界まで良いクオリティでお応えすると言うのは大前提。その上で、どうする?ということ。

ごめんなさい、はじめにお断りしておきます。つまんない答えです。僕の場合はというと、年末年始の挨拶、暑中お見舞い、お誕生日、お祝い事・・・古き良き時代から受け継がれてきた格好のタイミングを言い訳に、ハガキやメール、LINE、DM、メッセンジャー、時にはちゃんとした便箋にしたためた便りなどで普段からの感謝の気持ちをお伝えすることを結構大切にしています。最近はやっぱりメールが多いかな。電話は相手の時間を拘束してしまうのでしません。お中元やお歳暮ももらった方が困るのでこれまた一切しません。そして返信は期待しない・・・といえば嘘になるけど(いただけるとやっぱり嬉しいし)、感謝を伝えることができただけで十分だと心がけています。

で、肝心の具体的な成果はあるのか?ということですが、それは・・正直わかりません(笑)。今もこうしてささやかながらデザイナーとして食べていけている事がその答えのような気もしますが、直接的な因果関係はわかりません。ただ僕は、この機会を自分のことを忘れられないように・・というためだけでなく、自身の心の中を確認するとても貴重な機会としても結構大切にしています。

いい歳して今更こんな事を書くのは恥ずかしいのですが、自分がフリーランスになって初めて気がついたことのひとつに「仕事がある」ということがどんなに嬉しくて、ありがたくて、恵まれているかということがあります。このことについてはまた別のテーマでしっかりと考察して書きたいと思っているのですが、とにかく会社員時代には全くわかっていなかった種類の感謝を痛切に感じるようになりました。

前述した格好のタイミングは、そんな深い感謝の気持ちが自分の中にあることを確認できる貴重な機会です。「ちくしょう、覚えてろよ!」と思う数よりも、「いつも本当にありがとう」と思う数をより多く持っておきたくないですか?確かなことはそっちの方がメンタル的にもずっと快適だってことです。

特別なメッセージや変なおべっかを使う必要はありません。いや、むしろそれはいらないんじゃないかな。「お変わりありませんか?いつも本当にありがとうございます」で十分。僕なら少しでも気にかけてくれるその思いやりや気配りが何より嬉しいし。そもそも時候の挨拶は本来そのためにあったもの。いつしか形骸化され、いつでもコンタクトできるSNSやメッセンジャー、時短や効率化を言い訳に省かれることが多くなってきた印象があります。日本の文化を守りましょう!なんて大それた事を言いたいわけではありません。せっかくの機会をうまく使って、絶対に忘れてはいけないことがちゃんと自分の中にあるかの再確認と未来の可能性を広げていくための機会になればいいなと思います。

最後まで読んでくださってありがとうございます。
今日という一日がみなさんにとってかけがえのない一日になりますように・・。

                                ブブチチ


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