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照子の一生


て〜るこの一生は
うたかたの〜
花〜のごとく
咲きわた〜る


私の祖母花江が歌う子守唄は、広く一般的に知られている子守唄とは違っていた。私を寝かしつけるときは決まって、祖母のオリジナルの子守唄を聴かされていた。

普通なら、歌の意味やなぜ、てる子なのかとか疑問に思うかもしれないが、不思議とそういうことを尋ねることはなかった。例え、疑問に思ったとしても、いつもきつく私たちを叱っていた祖母からささやくように優しい歌声がすると、ストンっと心地よく眠りの世界に誘われてしまうのであった。1個下の妹のゆきも一緒に子守唄を聴いていたし、3歳上の兄圭三もきっと同じ歌を聴いていたことは想像がついた。

私たち、きょうだいはずっと祖母に育てられた。男はつらいよに出てくるとらやの女将さんみたいな頼りがいのある人で、身長も170cm弱あり、がっちりとした体躯をしていた。

両親は、私が3歳の頃、交通事故で亡くなった。ほとんど両親との記憶はなく、祖母から聞いた話で、父はずっと演劇をしていたらしい。アルバイトをしながら、空いた時間は演技の稽古に明け暮れていたそうだ。母は、そんな父の劇団の作品を見たときに父の演技に一目惚れした。母の猛烈なアタックで結婚することとなった。母も次第に演劇の世界にのめり込み、父と同じ劇団に所属して、日々アルバイトに稽古に明け暮れていたそうだ。

子どもが出来ても、2人は演劇中心の生活をしており、祖母は、そんな2人に半ば飽きれながらも辞めろとは言わなかったとのことだ。3人目の妹が生まれても、演劇熱は冷めることはなく、2人は公演のため、地方に車を走らせているときに高速道路で反対車線に飛び出して、事故で亡くなった。亡くなったとき、2人は手を繋いでいたことは私が大人になってから祖母から聞いた話だ。それから、祖母は私たち、きょうだいの面倒を見ることになった。

祖父はどうしたかというと、50代で胃がんをしてからだんだん弱っていき、寝たきりになっていた。祖母は祖父と私たちきょうだいの面倒を女手ひとりで見てくれた。昼間は、祖父がいるため、自宅で家事をしながら内職をして、私たちが寝ている間に、夜間の工場のパートに出掛けていく。

兄がやんちゃもので、同級生と喧嘩になればきちんと学校に行き、謝罪していた。帰ってくれば、兄をしっかりと叱り付けるが、そのあとにはちゃんと好物のコロッケを用意してくれていた。両親がいなくて寂しいときに泣けば、そばで例の子守唄を何度も何度も聞かせてくれた。当時は考えもしなかったが、祖母はとても苦労していたんだと思う。頭はだんだんと白くなっていた。しかし、私たちに疲れた素振りはまったく見せることはなかった。

そんな祖母を見て、育った私は物心ついた頃から手伝えることは手伝うようにしていた。妹のゆきも私のマネをして、皿洗いなどを手伝うようになった。そういう手伝いをしたときの祖母の子守唄は、なぜかいつもより優しく聴こえた。妹を挟んで、祖母と3人で川の字で寝る時間はなんとも幸せな気分になれたことを覚えている。気がつけば、兄はひとりで寝るようになっていた。

月日は流れ、私は高校3年生になっていた。祖母とは一緒に寝ることはなくなっていたが、仲良くしていた。兄は就職して、家計を支えてくれ、私も妹もアルバイトをしていた。祖母も昼間だったが、相変わらずパートをしていた。決して裕福ではないけれど、決して不幸を感じることもなかったのは、祖母のおかげだと思っている。

もうすぐ夏休みに入るというある日、入院していた祖父の状態が悪化した。医師の話では、もういつどうなってもおかしくないとのことで、祖母をしばらく病院に泊まり込み、付き添うことになった。もちろん昼間はパートに出掛けて、大丈夫と言っても私たちの食事の支度もしてくれた。祖母は気がつくと、頭は真っ白で、顔も手もシワだらけになっていた。

付き添い始めて、3日目の学校終わりに、3人で祖父のお見舞いがてら祖母に差し入れを持って行った。病室に入ろうとすると、あの子守唄が聴こえてきた。祖父にも歌ってあげてるんだと私が思っていると、「なつかしいな」と兄の圭三がつぶやいた。兄もちゃんとあの歌を覚えていたことがなんだか嬉しくて、妹のほうを見ると目が合って、2人で笑っていた。祖父に優しく歌いかける祖母の眼差しは暖かく、2人の愛というものを感じた瞬間だった。次の日に、祖父は祖母に看取られ、安らかに眠った。

私が25歳になったとき、祖母が家でつまずいて転び、大腿骨を骨折して入院した。高齢のお年寄りにはよくあることらしい。全治3ヶ月と診断され、それまで風邪すらひくこともなかった祖母は、気落ちして食欲もなくなり、あれよあれよという間に痩せ細っていった。かろうじて会話はできたが、私は祖父のときを思い出して、不安に襲われた。

妹のゆきと相談して、しばらく病院に寝泊まりして付き添うことにした。親孝行ならぬ、祖母孝行もできていないから後悔したくなかった。兄も毎日のように、奥さんと孫を連れて、顔を出してくれた。祖母はなんとか持ち堪えて、食欲が戻ってきて、顔色も良くなってきた。

それから3日目の夜、狭い病室に3人で横になっていると、祖母が唐突にあの子守唄を口ずさんだ。途切れ途切れではあるけれど囁くような歌声に思わず涙がこみ上げてくる。隣に寝ていた妹も手をぎゅっと握りしめてきた。優しい歌声なのになぜだか悲しい予感がした。

祖母を見ると、祖母の目からも涙がこぼれ落ちていた。
「照子はね。私のことよ。私は昭和天皇の子どもなの。訳あって、離ればなれになってしまったの」
3人して、泣いた。会話することもなく、ひたすらに。外には、梅雨の初めの温かな雨が降り注いでいた。翌朝、母はひっそりと息を引き取った。子守唄を歌っていたときの優しい微笑みをしていた。

自分が親になるまで、祖母は幸せな人生を送れなかったのではと思っていた。自分の子どもとお嫁さんを交通事故で亡くし、旦那の介護しながら孫の面倒を面倒を見る。趣味にのめり込むでもなく、旅行にいくこともなく、空いた時間は仕事をして、愚痴や弱音を吐き出しても良さそうだが、そんなことをおくびにも出さなかった。自分の人生を生きるだけが幸せでなく、他者の人生を支えることも幸せのひとつだと親になって知った。

「ねぇ、ママ、歌を歌って」
梅雨空から雨がしとしと降っていた夜、寝る前に、娘がいつものように歌をリクエストしてきた。
「てーるこの 一生は〜」
祖母の子守唄を歌うつもりはなかったのに、口ずさんでいた。その歌声はなぜだか自分のものとは思えなかった。娘は一瞬、不思議そうな顔をしながら「ママのおばあちゃんはやさしいひとだったんだね」そう微笑んで、すやすやと眠ってしまった。

私は窓辺で降り注ぐ雨を眺めながら、てるこの一生を思った。






















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