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私のいろんな考察

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私の考察をまとめた作品集です
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2024年1月の記事一覧

知恵と勝負勘と芸術性をもって

知恵と勝負勘と芸術性をもって

新規の依頼が来るとき
いつも私は泡立つ情感と向き合う必要に迫られる
その情感の主なものは不安

そして自分との相関図を簡単に覗き
私の月や水星などの主要な感受点と
依頼者の間に何かしらの接点がある事を願う

感受点の接点が見つかれば
その部分を支点にして
依頼者の世界観との調整が比較的上手くいくから

特に内向的な感覚の接点があれば
不安は比較的消し飛び
自然とお会いするのが楽しみになってくる

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ユダヤ教にとってタルムード(聖典)が
「すべて思考されている」完全なテキストであるように

占星術にとってサビアンシンボルは
完全なテキストであると言えるのではないだろうか

しかし残念に思うのは
サビアンシンボルについて常にその思考を紐解いていく
ラビの存在が少なすぎることだ

「私」という枠を超えて

「私」という枠を超えて

人には「私」という身体的・精神的な枠を超えて
もっと広いものと繋がる瞬間がある
もちろん代表的なのはセックスや食事だが

例えば村上春樹は翻訳を通して
「自分の家」を出て「他人の家」に入る事で
著者にしか分かりえない感覚を感じ
翻訳が成立している時があるらしい

また恐らく岡潔のような数学者は
その数学的概念の海に漂っている時
数学と身体性の結びついた
超身体性の中にいたのだろう

もしかしたら私

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「ある言葉」

「ある言葉」

聞いた言葉に『私、世界、完全、これひとつ』
という浄化の文言がある。

今思うと、これは
『私、世界』で『私」という皮膚を透過して入ってきてしまったものに対し、もう一度『私』という皮膚を世界との間に作り直す作業と。

『完全、これひとつ』でもう一度世界と自分をひとつにもどす作業を示しているのだと気が付いた。

私と他人を隔てるもの

私と他人を隔てるもの

森田真生さんの著書「数学する身体」の中で、思いがけず目が留まった話があった。それはラマチャンドランという脳科学者の行ったミラーニューロンに関する実験の内容で、それによると「人は他人の行動や痛みであっても、見ているだけで同じ現象を自ら受けているような状態の、脳の反応になっている」らしい。

この実験結果からラマチャンドランは、「ならば、なぜ。見ている側は痛くならないのだろうか?」と疑問に思い、恐らく

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娘との会話の中で

娘との会話の中で

論理的な思考を愛し
雰囲気に代表される論理に内包されにくい周辺の情報を愛さない人に対し
私達が出来る事はどこまでも相手の論理的思考上で
ドライに言葉を交わしていくことだろう

それはまるで相手の土俵にわざわざ入るような行為だが
まずそこに入らなければ会話のパイプさえ繋がらない

しかし同時に交わしている本体が人間である限り
「私達は息をする自然である」という
己自身が自身の言う”理論上”だけでは存

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一晩中生まれる断続的な痛み
朦朧とした意識の間にまに
数限りない夢をみる

しかし覚えたての夢は
次なる痛みの波にかき消され
残るは茫洋とした存在としての私

「セッションの終わり」
あなたとわたし
二人の間に温度差が無くなるほど
何かを話す必要もなくなるのだ
そのときあなたとわたしは
多分同じところにいる

だからその沈黙こそが
セッションの終わりを告げている

だからこそ沈黙は
愛しいものに変わるのだ

出生図でDCにある天体は
その周期の長さに比例して
鏡としての役割を果たす

つまりそこに月があるなら
自分自身を見つめる鏡として
月の周期である28日間程度の
時間耐え抜く強度をもった内容がちょうどいい
つまり仮に天王星があるなら
80年程度の時間を耐え抜く内容がちょうどいい

「夢は」

夢は海の波のように
寝ているあいだ私を飲み込む
夢は芳醇な竜宮城

しかしひとたび目覚めると
夢はあっという間に去っていく
波が海たちが遠くへ返すように

そんな時 私はかろうじて 
その肌に残った水滴を
夢見ているに過ぎないのだろう

「ユダヤ的思考で考える」

レヴィナスのユダヤ的思考によれば
我々は「未来」から「過去」へ「進んでいる」

つまりそれによると占星術の示すものは
未来への「予測のようなもの」ではなく
母体の中に入った瞬間に描かれる「結果」であり
土塊である死体となった時に我々は「生まれた」

「樹木希林さんを見て」
ルール無視のボードゲームを楽しめる人は達人だと思う

それはルール無視の相手を”許容する”のとも
ちょっとちがう

それは元のルールを超えた別のルールを作るのとも
ちょっとちがう