ハートイレイザー
西野翔
高校二年の秋。心地よい温度に保たれている教室。
今、私―藤咲エレン―には恋焦がれている人がいる。
現代文の授業中、無意識に視線を向けている先に、その人はいた。今日も今日とて目線が合い、私はサッと目を逸らす。
彼の名は中田唯斗。クラスメイトからは信頼を置かれていて、リーダーシップに溢れる人物だ。
私はそんな彼に恋をしている。自分でもどうしてこんな気持ちを抱いてしまっているのか分からない。気付いたらいつの間にか好きになってしまっていた。まぁいわゆる一目惚れというやつだ。だから、今もこういう風に唯斗のことをチラチラ見てしまっている。
「じゃあ次のページを――藤咲。読んで見なさい」
「はい」
この流れにも大分慣れたものだ。現代文の教師は余所見している生徒を重点的的に当ててくる傾向にある。
最初は当てられる度に不意をつかれてオドオドしてテンパっていたが、今はもう大丈夫だ。
現代文の教師に指定された部分を読み終わる。教師の悔しそうな表情が眼に映り、してやったりという気持ちに包まれる。
「じゃあ次の所を――舞島。読みなさい」
「はい」
舞島アイラ、彼女も大体私が表れた前後で現代文の教師に当てられる。まぁ、つまりそういうことだ。私は恨めしそうな顔で彼女を見つめる。
アイラは私の唯一無二の親友だ。私が中学時代にいじめられていた時に、唯一心の支えとなってくれた。その時の御恩を、私は決して忘れていない。でも、私は今、彼女のことをどこか妬んでしまっている。チラチラと見る対象を、唯斗からアイラへと変更する。
「――だから私はこのように結論付けた」
アスハが、読むように指定されていた評論の最終部分を全て読み切り、着席をする。正面を見つめるその表情は、どこか幸せなように感じられた。
「きっと、今が一番幸せなんだろうなぁ」
私たちはつい少し前まで唯一無二の親友であり、同時に恋敵でもあった。昼休み、屋上でお弁当を食べながらお互いの好きな所を語り合ったり、夜通話をしながら、彼とのイチャイチャを妄想したりしていた。それが、私たちの日常であり、彼のいない生活など考えることができなかった。
でも、ある日私たちの毎日は崩壊してしまった。
私はアイラが意気揚々に話してきた、あの日のことを忘れない。
脳裏には、階段をもの凄い勢いで下って来たアイラの様子が浮かび上がっていた。
※ ※ ※
放課後、私は授業を終え、帰路に着くため靴箱にいた。そんな中、こちらに向かって響いてくる轟音が聞こえる。何の騒ぎかと思って振り返ると、そこには周りの目も気にせず高速ダッシュで階段を駆け下りてくる、アイラの姿があった。
「ねぇ、エレン! 聞いて聞いて!」
興奮状態、そして息絶え絶えの様子で、アイラが話しかけてくる。
「なに、どうしたの? 何かあった?」
「あの、あのね! 私……」
固唾を、呑む。
次にアイラから発された言葉は、耳を塞ぎたくなるようなものだった。
「私、唯斗君と付き合うことになったの!」
それは私を絶望に突き落とした。
別にお互いの許可なしで告白してはいけないなんていう、取り決めがあった訳でもない。これはアイラが勇気を出した結果。私が何か口を出す資格はない。
だけど、どこか裏切られた気がした。
ずっと近くにいた存在が、私の手の届かない境地へ行ってしまった感覚。そのショックのせいで、私は作り笑いを繕うことしかできなかった。
「よ、良かったじゃん。本当におめでとう、アイラ」
「うん!」
本当に眩しい。その笑顔は、眩しくて見ていられなかった。
※※※
だから、私はアイラを妬むようになってしまった。これは私の自己中心的で、勝手な感情だ。本当は心の底から祝福したいのに、余計な感情が邪魔をして妬みにという感情が湧き出てきてしまう。こんな風に感じてしまう自分が、本当に嫌だった。
私の視線を感じたのか、アイラもこちらに気付きにっこりと微笑んでくる。私もそれに社交辞令的に笑顔で応対する。でも、それはあくまで戯笑。中学時代は何度も救われたはずのその笑顔。それが今は、私が最も見たくないものだった。
―キーンコーンカーンコーン―
授業終了のベルが鳴る。今日の授業はこれで終わり。あとは家に帰るだけ、なんだけど……。
私の心配をよそに、予想通りの言葉でアイラが話しかけてきた。
「ごめん、エレン! 私、今日も唯斗くんと帰るから、先に帰っておいてくれない?」
「うん、分かった。楽しんできてね」
「ありがとー!」
これが私の新たな日常だ。今まで二人でおしゃべりしていた、昼休みのお弁当の時間も、放課後の帰り道も、当たり前は消失し私は一人になった。
所詮、アイラが居なければ私は一人ぼっちだったんだ。
「アイラ、行こうぜ!」
「うん!」
アイラと唯斗が教室を出て行き、クラスメイトも一人、また一人と教室をあとにしていく。最後に取り残されたのは、私だった。
一人きりになった教室で、しばらくの間放心して立ち尽くす。
「もう私には、誰もいない。こんな私が生きてる意味、あるのかな?」
中学時代も抱えていたその感情が、久しぶりに想起されていた。
―キーンコーンカーンコーン―
私が次に現実へと意識を戻されたのは、部活終了の合図によってだった。確か授業終了直後から硬直していたから、かれこれ2時間近くは他に誰もいない教室にボンヤリとして立ち続けていたことになる。
燦々とした太陽は、茜色の夕景へと変化し、そして今は漆黒に包まれようとしていた。
ずっと動いていなかった自分の席から一歩、また一歩と踏み出し、少しずつ黒板の方へ歩み寄る。黒板はもう闇に包まれており、かなり近くに行かなければ、正確な位置を識別することができなかった。
黒板に手が触れ、一歩ずつ歩んでいた足を止める。そして私は手頃な位置にある白チョークを手に取り、黒板の端に無性に何かを描き始めていた。それは私が意識的に始めたものじゃ無い。私の本能が自然とその何かを描かせていたんだ。
「カシュ!カシュ!」
本当に、一心不乱だった。力強く実線を引き、少しづつその何かを完成させていく。
数分後その何かはついに完成し、それと共にチョークが折れ、欠片が飛び散った。文字は私の想いを込めたかのように、太く、濃い物だった。
「唯斗、大好き!」
書きなぐった言葉を、かすれるような声で叫ぶ。本当は大声でこの思いを放ちたかった。でも、こんなことをクラスメイトの誰かに聞かれたら、ただでさえ無い私の居場所が完全に消滅する。唯斗と同じ空間にいるためにも、それだけは避けないといけない。
叫び、息を吐ききった私はそのままうなだれた。
「100%叶わない願いを抱くと、こんなに苦しいんだ……」
心が、痛い。なんで私は唯斗のことが好きなのに告白しなかったんだろう? なんでこんなに臆病だったんだろう? 律儀に片思いを保管していた私自身が憎い。気持ちを露わにしても、絶対結ばれるってわけじゃない。ないけど……少なくとも今の後悔に似たこの気持ちを味わうことだけは確実になかったのに。
私は馬鹿だ。
だから、こういう結果になったのも自業自得。アイラも、唯斗も誰も悪くない。あえて言うなら悪いのは私だ。だから、こんな風にいじけてないで、素直にアイラにおめでとうを言おう。
……これを自分に言い聞かせることが出来るほど私が素直なら、どれだけ良かっただろう? 何度この言葉を心に張り巡らせても、自分自身で受け止められない。
こんな自分が、本当に嫌いだ。
―キーンコーンカーンコーン―
私の自己嫌悪感を妨害するように、チャイムが鳴る。恐らく部活終了の合図のチャイムだろう。随分長い間黒板の前に立ちはだかってしまっていた。
「あれ、待って? 部活終了のチャイムが鳴ったってことは、誰かが教室に帰ってくるかも……? あっ」
私は俯いていた体制から、体を元の体制に戻す。眼前には、私が勢いで書いた唯斗への思いの丈が、しっかりと残っていた。力強く書いたせいか、グラウンドのライトに外から照らされ、実線がくっきりと現れている。
「やばい、誰か来て見られたら人生終わっちゃう! 早く、早く消さなきゃ」
私はあたふたとしながら、黒板端に置かれた黒板消しを素早く手に取る。そして、恥ずかしさの塊であるその文字をさっさと消し去ろうとするが、線が濃く中々消えてくれない。
あぁ、もうなんでこんなに強く書いちゃったの私!
何度も黒板消しをクリーナーにかけ、必死に消す。最初は消える気がしなかった文字も、少しづつ薄れていった。
「良かった、これで何とかなる」
完全にチョーク跡を消し去り、翻って、私は自分のカバンを抱え教室を出る。靴箱に向かうため、廊下を左に曲がろうとするが、その奥には人影が存在していた。どうやらこちらに向かって来ているようだ。
「今日も練習疲れたなぁー」
「ほんとに。監督厳しすぎなー」
あれは、クラスメイトの野球部だ。危ない、間一髪だった。あの人たちに見られたらマズかった。彼らとは話したことは一回もないが、私のようなクラスで浮いている存在に好印象を抱いているはずがない。とりあえずここは早く横を通り過ぎよう。
私はそう思い、並行している彼らの左側を無言で通り抜ける。
案の定、その双声は背後から私の耳を突いてきた。
「あれ、あいつ誰だっけ?」
「あー確か、藤咲、だっけ? 俺もよく知らねぇや」
「ふーん、てかなんでこんな時間に学校にいるんだ? 今の時間に学校に残っているのって、俺たち野球部ぐらいだろ?」
「さぁ、知らね。なんかキモイな。そんなことよりさっさと行こーぜ。早く帰りてーわ」
全てを受け流す。不審な行動をしているのはこちらなのだから、何を言われても仕方がない。歩行スピードをさらに速足にして、距離をもっと取ろうとする。そのままのスピードで下駄箱に到達し、そこから家に向けて全速力で走り出す。
こうして私は複雑な感情を抱きながら、学校を後にした。
※ ※ ※
次の日、学校に来ると、そこには私にとって心が痛む出来事が待っていた。
「えーと、今日の日直はと、藤咲と中田だな。しっかりと日直の役目を果たすように」
まさか唯斗と同じ日に日直になるなんて。私は今日一日心を保っていられる気がしない。アイラにも気を遣わないといけないし……。本当は素直に喜びたいのに、喜べない。苦しい。
当の本人たちはというと、私の不安をよそに、楽しそうに談笑している。私が気にしすぎているだけなのだろうか?
心配な気持ちを抱えたまま、私の一日は始まっていった。
―キーンコーンカーンコーン―
休み時間、私と唯斗は黒板を消していた。できるだけ唯斗と距離を取りたくて、私はずっと端の方を消している。私が消し終わったその時、黒板の反対側を消していた唯斗が細々と呟いた。
「ん? なんだこれ? さっきの授業でこんな所まで板書書いてなかったよな。筆圧も筆跡も違うみたいだし……」
私は瞬間、黒板の反対側に視線を向ける。唯斗が見つめていたのは、確かに私が昨日無我夢中で愛を刻んでいた箇所だった。筆圧が強すぎて消しきれていなかったのか、そこには僅かにチョーク跡が残っていた。
「てか、これなんて書いてあるんだ? 薄くて読み辛いな。って、藤咲、どうしたんだ!?」
私は早急に消去隠滅にかかっていた。逡巡する暇もなく、私は唯斗の元へ移動し、微かに生き残っている白いシミを消し去った。その代償として、少し不可解な行動を取ってしまったが、既にクラスで一人きりの私には何ら問題がない。
「早くしないと、次の授業始まっちゃうよ。さっさとして」
「あ、あぁ」
自分が黒板を消し終わっているのをいいことに、言い訳の盾に使う。こんな冷たい言葉を唯斗に言い放つ、自分自身が嫌だった。
「あいつ、なんか感じ悪くない?」
「中田君だから何も言ってないけど、私だったら絶対キレてる。無理」
はいはい、そこの陰口さん聞こえてますよ。もっとバレないように言えばいいのに。てか、私はそういうこと散々言われてきたから、そんなテンプレみたいな陰口なんて私には全く効果ないし。
翻って、自分の席に戻る。大丈夫、そこには私の味方のアイラがいる。こんなアウェーな空気の空間でも、アイラさえいれば私は大丈夫だ。ほら、席に帰ればきっと気遣いの言葉をかけてくれる。
「ごめん、エレン。唯斗にあんなこと言うエレンは、私は好きになれない」
隣席から飛んできたのは、私の唯一の救いが消えるような言葉だった。
「えっ、アイラ、今なんて?」
私は呆然と目を見開き、言葉を紡ぎ出せないでいた。
―キーンコーンカーンコーン―
タイミング悪く、ここで次の授業のチャイムが鳴り、教員が教室に入ってきた。立ち尽くしていた私も、さすがに座らざるを得ない状況になる。でも、こんな状況で授業内容が頭に入ってくるわけが無かった。
※ ※ ※
それから放課後になるまで、アイラとは一言も喋らなかった。今まで長い間一緒に過ごしてきたけど、こんなに気まづくなったことは無い。
「中田君、今日は災難だったねー」
「うんうん、あれは無いわー」
アイラは私を直接批判はしないとはいえ、あの集団の中に加わり、ちゃっかり唯斗の隣に陣取っている。
恋愛は人を変える。そのことを思い知った瞬間だった。
帰り支度を終え、アイラが無言で席を立つ。唯斗の背中、その横で微笑む彼女の横顔。もう『先に帰るね』すら言ってくれないその幸せな姿を、私はもはや見つめることすらもできなかった。
今日も私は一人きりだ。
他に誰もいない孤独な教室。デジャブを感じざるを得ない。しかし、私の心は昨日よりも格段に憂いていた。
「アイラ、なんで……」
自席に突っ伏し、孤独さを味わう。そのあまりの辛さは、いつしか涙に変換され、雫が机の上に零れていた。
※ ※ ※
昨日はどうやって家に帰ったのか覚えていない。教室でひたすら涙を流し続けた。そこまでしか私の記憶は残っていなかった。
次の日教室に入ると、妙な噂が流れていた。
「ねぇねぇ、聞いた? 中田君とアイラちゃん、昨日別れちゃったんだってー」
「え? 嘘、あんなに仲良かったじゃん!」
にわかにも信じ難い話だった。昨日帰る時にはあんなに幸せそうだった二人がどうして……? いや、まだデマかもしれない。本人が来るのを待とう。
そんなことを考えているうちに唯斗、次いでアイラが教室に入ってきた。登校も一緒にしていた2人が別々だなんて、やっぱり何かあったんだ。
憂いな表情を浮かべたアイラが勢いに任せて椅子に座る。いつものアイラならば考えれれないことだ。
「おはよう、あの、アイラ……」
「ごめん、今日は誰とも話したくない。だから、話しかけないで」
「う、うん」
酷く落ち込んでいる。普段の明るい性格のアイラからは考えられないような姿。そんな時、私の中にはある一つの考えが浮かび上がってきていた。
「アイラを、助けてあげたい」
中学時代、私はクラスメイトから壮絶なイジメを受けていた。学校なんて大嫌い、不登校になった時期もあった。そんな私を救ってくれたのがアイラだった。集団に溶け込むことの上手かったアイラは、スクールカースト上層部に頼み込んで、私へのイジメを止めてくれたのだ。親身になって私のために動いてくれたことには、ずっと感謝している。
だから、今度は私が救ってあげたい。アイラが私を救ってくれたように、私も……。だって、アイラの気持ちは私が痛いほど分かるから。
※※※
放課後、無言のまま一人で帰路に経つアイラの後を追いかける。
「付いてこないで。話したくないって言ってるじゃん」
結局、今日一日この強固な意志を崩すことができなかった。それでも私は必死に声を届ける。
「なんでそんなこと言うの! 私たち親友じゃん。 私はアイラのおかげで救われてきたんだよ! だから、アイラが辛い時は一緒に寄り添いたい! アイラの役に立ちたいの!」
アイラが呆気に取られた表情を浮かべる。滅多に大声を出さない私が必死に訴える姿は予想外だったのだろう。
「……うん、わかった、話すね。ごめんね、エレンを信じれなかった私が馬鹿だった」
私の思いは、やっと届いた。
「私昨日ね、唯斗君と一緒に帰ってたの」
「うん、知ってる。いつもの事だし」
「うん。それで、別れ際に言われたんだ。やっぱり他に好きな人ができたから別れようって」
「え?」
衝撃、だった。恋人がいるのに好きな人ができるって、どうして……。
「受け入れるしか、なかったよね。私から告白して、付き合えたのが奇跡みたいな物だったんだもん。問い詰めたかったけど、私には無理だった」
「それは、すごい辛かったね……。最高の状況から絶望に叩きつけられるようなものじゃん」
もし私が同じ状況に陥ったら、きっと正気を保っていられないだろう。ちゃんと学校に来て、普段の生活を送っているアイラは本当に強い。
「でも、これが唯斗の願いなんだったら、私はこれで幸せ、かな。あれ、私なんで泣いてるんだろ?」
嘘だ。
アイラの言葉は、自分に言い聞かせるための言葉だと、私は確信していた。私には分かる。そんな建前を作っておかないと、心が壊れてしまうことに。
「アイラ、辛い時は思いっきり泣いてもいいんだよ。ほら、私が胸を貸してあげるから」
少しおどけて、半分冗談のつもりで言ったつもりだった。アイラがそんなに甘えてくるタイプじゃないことが分かっていたから、多分飛び込んでこないだろうなと思っていた。でも今、結果は予測と違うものになっている。
「ううぅ、わぁぁーーーーーーー!!!」
私が飛び込んできてもいいよと言った瞬間、アイラは堰を切ったように泣き始めた。今私の腕の中には、アイラがいる。
「ヨシヨシ……」
頭を何度も何度も優しく撫でる。中学時代は私がそこにいたはずのポジションが今は入れ替わっている。
朱に染る夕焼けの街並みの中、私はアイラの頭を撫で続けた。
※※※
次の日の朝、私はアイラと二人並んで登校していた。昨日までアイラはずっと唯斗と一緒だったから、こういう風に歩くのも久しぶりだ。
「昨日はありがとう、エレン。私はもう大丈夫。唯斗君のこと気にしない」
良かった。
一夜明けて、アイラは心を落ち着けることができたみたいだ。私は自分の事のように安堵する。
アイラの作り笑いじゃなくて本当の笑顔を見れること、それが私にとって最高のご褒美だ。
「気にしないで。私は当然のことをしたまで。中学の時にいっぱいアイラにお世話になったんだもん。これくらいじゃまだまだ返し足りないよ。だから、これからも苦しい時は私を頼って。アイラが私にしてくれたみたいに、今度は私がアイラを支えたいから!」
「うん……ありがと、エレン。本当に、嬉しい……」
アイラが手の届かない遠くから私の元へと戻ってきた。それが本当に嬉しかった。
感動の余韻に浸っているうちに、学校に到着する。私たちの席は隣同士だから、教室の中までずっと相方だ。
「今日も授業頑張ろうね!」
「うん!」
そして授業の開始を告げるチャイムが鳴り響いた。
※※※
「んーーっ、疲れたな」
午前中の授業が全て終わり、私は自席で一つ伸びをしていた。
「疲れたよねぇ。今日も現代文の先生、私たちを当てすぎだよねー」
アイラが労いの言葉をかけてきてくれる。でも、その後の言葉は私にとって少し複雑なものだった。
現代文の教師がたくさん当ててくる。それはつまり、その生徒が余所見していることを意味する。アイラはともかくとして、どうやら、私も相も変わらず唯斗のことをチラチラと見てしまっているらしい。
――なんで私、まだ唯斗のこと好きなんだろう。大好きな親友を一方的に振った相手なのに……。
これが、依存というやつなのだろうか? 唯斗がどんな行動をとったとしても、私は嫌いになる気がしない。どんな唯斗でも、好きになれる気がする。
冷静に考えたら、おかしい。でも、この気持ちは止められない。
そんなことを考えていた時だった。
「エレン、ねぇ、エレンったら!」
「え、な、何?」
私は考えすぎて、外部からの情報を全て断ち切っていたみたいだ。
「唯斗が、屋上で待ってる、だって……」
「え、アイラじゃなくて私が? なんで?」
「分かんない。でもさっき唯斗と廊下ですれ違った時、伝えてこいって言われたの」
意味不明だった。てか私、唯斗に呼び出されるようなこと、何かしたっけ?
刹那、私の脳内には、先日の日直当番での一件が浮かび上がり、自動再生されていた。
――まさか、やっぱりあの時文字を読まれていたんじゃ……
私は一度は忘れ去った体温が、再び再燃してくるのを感じた。
※※※
屋上へ続く階段を登り、古びた鉄扉を開く。所々錆びているようで、開けるほどギシギシと金属音が耳をつく。
「おう、来たか。悪いな、いきなり呼び出して」
「べ、別に大丈夫です」
日直当番の時のことについて、追求されたくない。だから、本当はここに来たくなかった。だけど、断った時に唯斗がアイラを責めるのが怖くて、断ることができなかった。
「それで、要件は何ですか?」
次に発された言葉は、私が想定していたそれとは天地ほどかけ離れたものだった。
「単刀直入に言う。俺と、付き合ってくれないか?」
「え……?」
時が、止まった。
何を言われたのか数秒間分からず、脳の処理が追いつかなかった。
「付き合うって、私と? ……何で? アイラを一方的に振ったばかりなのに」
唯斗が私に告白してくることなんて、夜に太陽が浮かんでくるくらいありえない事だと思っていた。
「んー、俺がアイラに告白したのって、藤咲とアイラが仲良くしてる所をずっと見てて、好意を抱いたからなんだよね」
ずっと見てた。
そうか、だから授業中によく目線が合ったんだ。
「それで俺はアイラの事が好きなんだと思って、アイラに告白した」
唯斗は一旦そこで言葉を噤んだ。次に出そうとしている言葉が、言い難い物なのだと、伝わってくる。
「でも、それは違った。アイラと付き合ってみて分かったんだ。彼女と付き合った途端、喪失感が物凄かった。すぐに分かったよ。俺が本当に好きだったのは、エレンだったってことが……」
「!!」
「身勝手だし、アイラにも悪いことをしたのは分かってる。でも、それでも俺のこの思いは今度こそ本気なんだ! だから、俺と付き合ってくれ!」
唯斗が思いの丈を叫ぶ。
私は、どう思っているんだろ? 自分自身に問いかけてみよう。
うん、普通だったら親友を地の底まで叩き落とした人物のこんな行為が許されるはずはない。実際私も怒っていない訳じゃないし……。
けど、それでも私は唯斗の告白を心の底から嬉しく感じていた。依存し始めた心は、簡単には止まらない。こんな気持ち抱いちゃいけないのに、唯斗のことを愛しく感じてしまう。
唯斗の申し出には、速攻で頷きたかった。私がずっと望んでいた唯斗との関係が、すぐそこまで迫ってきている。
――でも、感情に素直に従えない。アイラがこのことを知ったら、どう思うだろう? ……きっと、悲しむだろうな。私が取るべき選択は、一体何なんだろう?
親友と恋人、私はここでどちらかを選ばなければならない。
私が一番大切な物って何だろう?
そう、自分自身に問いかける。
そして葛藤の末導き出した回答を、私は唯斗に告げた。
※※※
「おはよー! 唯斗!」
「おはよ、アイラ」
いかにも恋人らしいトーンの声で、挨拶を交わしている二人。
私は今一歩引いて、それを後ろで見つめている。
あの日、私は親友を選んだ。そして、唯斗に条件を付けた。
『ごめん、私、唯斗とは付き合えない』
『そっ……か。そうだよな。悪かったな、呼び出したりして……』
「待って!」
そう言って、階段に向かっていく唯斗を、私は呼び止めた。
『私の事を思ってくれているのは嬉しい。けど、そう思ってくれているのなら、その気持ちを別の方向へ向けて欲しい』
『どういうことだ?』
『アイラと、ヨリを戻して欲しい。別に嫌いってわけじゃないんでしょ? それが私の何よりの願い』
唯斗は、無言で首を縦に振った。
私は羨望の眼差しを向ける。
歯車が一つでも違ったら、今あの幸せな居場所にいるのは私だった。ほんとうは私がそこにいたかったし、実際チャンスもあった。でも、仕方ないことなんだ。私は自らの感情より親友であるアイラの感情を選んだのだから。
そして私は僅かな後悔を味わいながら、通学路を歩んで行った。
※※※
「エレン、今日はどうする?」
「ん、私ちょっと学校で勉強してから帰るから、先に帰ってていいよ」
「わかった。じゃあ今日は唯斗と一緒に帰るね!」
唯斗とヨリを戻してから、アイラも変わった。ちゃんと視線の中に私を入れてくれるようになった。以前のような孤独感は無い。
それでも、心のどこかでモヤモヤとした感情は、依然として存在していた。
「じゃあね! エレン!」
「またな、藤咲!」
幸せな二人の声が、重なり合うように私の鼓膜に響く。
「うん、また明日……」
二人の背中がどんどん遠くなっていく。クラスメイトも部活や遊びのために、この学び舎を足早に去っていった。
そして、私は数日ぶりにまたこの状況を迎えた。
数日前と全く同じ、誰もいない無音の教室。違うのは、私の感情だけだった。
いつの間にか、涙を流していた。
私一人が泣いたとしても、誰も悲しまない、むしろ私が犠牲になることで他のみんなが幸せになれる。だから、ずっと感情を抹殺していた。
でも、もう我慢の限界だった。
「うぐっ……ううぅ……」
私はそのままの勢いで黒板に歩み寄り、チョークを手に取る。そして、文字を刻んでいく。数日前のデジャブだが、完成した文字だけは異なるものだった。
「唯……大……き……」
薄く、掠れて、まるで萎縮しているかのような文字。同時に発した言葉も、涙のせいで、言葉がうまく出てこない。
そして、私はその場にうずくまった。
今の私は救われることはないだろう。
でも、いつか私にも、感情のままに行動できる日が訪れればいいな……。
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