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週末は左利き(短編小説)

週末、普段は右利きの妻が、なぜか左手ばかりを使って家の中で家事その他いろいろと動きまわっていた。

もしかして右手を痛めたのかと思って心配したら、どうやら違うみたいで、「あら、やだ知らないの?」と言われてしまった。

妻が言うには、巷では最近、週末を利き手とは逆の手で過ごすことが流行っているんだそうだ。けっこう前から実践していたらしい。

「前頭葉が刺激されて、集中力が出るのよ。脳が活性化して若返るわ。休日を最大限に有効活用できるのよ」

と、すごく多タスクなまま教えてくれる。

「へえ」と僕。

僕はソファに座って、やたらと長い小説を読んでいた。長い小説を読むのと筋トレの違いがこの頃わからなくなってきた。歳をとったんだろうか。

ちょっと気になってスマホで妻の言った件を検索してみる。

※利き手と逆の手での作業は『怒り』の感情を抑える効果があります

との記述があり、見なかったことにする。

周りの友人たちからは「いつまでも友達みたいな夫婦だね」とよく言われる。

僕はいつも、どんな夫婦を見ても、どんな夫婦かなんてわからない。

僕と妻は分かり合えていると思っている。

でもこのごろ週末の妻にはちょっとわからないところがある。

やたら家具の位置を変えたり

海外移住しようと言ったり

ダイエットをやめようと言ったり

イグアナを飼おうと言ったり、なのだ。

脳が活性化されたせいだろうか。

それとも僕に何か不満があるからなんだろうか。

もしそうなら言って欲しい……。

そんな気持ちの僕をよそに

妻は鼻歌をマッシュアップしたものを歌いながら飛びまわって、慣れない左利きでDIYしている。

前はそんな人じゃなかった。

僕はそこで、信じられないくらい長い小説を読むのをやめ、何か手伝うことあるか聞いてみる。

「あなたもやってみたら?」

「そうだね」

僕も利き手とは逆でいろんな作業を手伝う。

「ある意味でふたりの初めての共同作業です」なんて言いながら笑い合って、なんだか悪くない。

ル・コルビュジエの建築は“詩に過ぎない”と批判されたらしいけど

僕なら詩のような家に住みたい。

もちろん、妻と。

さんざんあれこれ動き回って、疲れ果てて、でも清々しい疲れで、僕らはソファにどっかりと腰を下ろした。

缶ビールを開けて、カンパイ!

あー、うまい   は、妻が言った。

「これからは僕も週末はこれでいくよ」

缶ビールを飲んだあと缶を一度見つめるのはなんでだろう。

妻はそんな僕に優しく言った。

「あなたとの暮らしって詩に過ぎないわ」

ビールに良く合うおつまみみたいな言い方だった。

「学術論文に過ぎない暮らしよりいいだろ?」

「ふふ、そうね」

妻はそっとテーブルの上に缶ビールを置いた。

「キスするときもいつもと逆に顔を傾けなきゃってこと?」って聞いてみた。

「そうね」

そうね。

そのあと僕らはいつもと違うキスに見事に失敗したとさ。





                        終



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